太陽は銀河系の中では主系列星の一つで、スペクトル型はG2V(金色)である。

 

トゥルシーTulasi (Ocimum sanctum Linn.) 和名カミメボウキ トゥルシーの木とクリュシナ神の結婚

 

トゥルシーは普通緑だが、いくつかの種類があり、これは薬効が一番強いとされるクリュシナ・トゥルシー(黒いのでクリュシナの名がつけられている。写真真下)

トゥルシーTulasi (Ocimum sanctum Linn.) 和名カミメボウキ

トゥルシーの木とクリュシナ神を結婚させる…

佐藤真紀子

象にのって楽隊を引き連れ、花嫁の元へ向かうターバンを巻いた新郎さん。そんな光景を町で見かけるようになったら、インドの結婚式シーズンのはじまりです。12月から1月くらいが結婚式のピーク。

インドの結婚式はとにかく派手!です。何日も続くパーティに、親戚一同が何枚もの着替えのサリーをもって集まります。(花嫁だけでなく、列席者も何度もお色直しをするのです!)ごちそうあり、音楽あり、ダンスあり!吉日ともなると、町のあちこちで大音響のパーティが夜通し行われて...睡眠不足~~~(@@)になることも、シバシバ。

でも、そんな人間様の結婚式シーズンがくる前に、大事な儀式がひとつあります。

それは各家にある、トゥルシーの木とクリュシナ神を結婚させることなんです。

木と神様を結婚させるって、ナニ??? って、思うでしょう?

トゥルシーTulasi (Ocimum sanctum Linn.) 和名カミメボウキ

町中の花屋さんでは、プージャ(儀式)に使うためにトウルシーが山積 みで売られている。純粋性が高く、浄化に役立つ聖なる植物とされて、儀式には欠かせない。

トゥ

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トゥルシーの効果・効能と使い方

- アーユルヴェーダ・ハーブの知識 -


トゥルシ
(学名)Ocimum Sanctum
(日本名)カミメボウキ
(英名)Holy Basil

旦那のいとこの子が、「ハーブの女王を知ってるか?」っと聞いてきました。
彼曰く、この女王のハーブを、家に飢えると、いい事が起こるというのです。

ということで、彼の家に行ってきました。
何のハーブかな?と思っていたら、トゥルシーでした。
彼の家の前には、たくさんのトゥルシが生えていました。
毎朝、ティに入れているそうです。

インドでは本当に家庭で大事にされているトゥルシー。
このハーブがあると、家族の健康が、このトゥルシだけで、守られているそうです。
はじめは、数本しかなかったトゥルシ。
種が落ちてすぐ増えたそうです。
私もその苗をもらって育てています。
いとこが言うには、「生理の女の人が、トゥルシーの木に触ったら、木がダメになる」んだそうです。
迷信だとは思うんですが、それほど、聖なる木なんですね。

ハーブティにして、飲むのも楽しみですけど、私の家の1番の目的は、蚊よけです!!
トゥルシーは害虫よけの効能もあると聞いてから、絶対飢えようと思っていたハーブでした。
電気エネルギー持っていて、植物の中でオゾンを1番出す植物、絶対植えてみたくなります。
まだ、家のトゥルシーは、小さいですが、大きくなったころには、蚊が、いなくなることでしょう。オゾン層も小さな我が家から、少しでも増やして、地球もどんどん喜んでいくといいです!!


トゥルシーはしそ科のオキウム属の多年草で、インド、アジアの熱帯地域で栽培されています。料理、薬、香料などの用途があります。
トゥルシの意味は、「比例なきもの」です。

新鮮な葉は、精神を落ち着かせ、ストレスと穏和する働きがあり、乾燥した葉も、免疫力を高め、気管支炎に効果があり、この薬効の多さに驚いて、西洋で、ホーリーバジルと呼ばれるようになったそうです。
ヒンドゥー教の家庭では、よくお庭にこのトゥルシーが栽培されています。
精なる木として崇められており、家庭の健康のために、植えられています。
家にトゥルシがあれば、心配事や、病気や、不幸はその家に入ることが出来ないといわれています。
またこのトゥルシの生えている周りは、空気を浄化する作用があるとされます。
トゥルシは、世界中の草の類で1番オゾンを発生するそうです。るので、この薬効の多さに
また虫除けにもなり、蚊などが寄らないと言われます。
風邪の予防、体の耐久力の向上、殺菌、解毒、消化不良、感染症、鼻炎、咳などに効果があ
り、喘息を穏和する特効薬としても使われてきました。
科学者により、強壮作用、免疫復活作用、ストレスに適応するからだの能力の上昇などが、実証されています。

トゥルシは、体に蓄積した毒素を、体外に排泄する働きがあって、ジュースを飲むと、体にたまった、水銀の有害物質を、中和するのだそうです。
アーユルヴェーダの賢人達は、インド国内において、トゥルシバンという活動を始めました。それは国内にトゥルシをたくさん栽培することで、健全な国づくりをしようとしたのです。
そして、21世紀に入り、聖者パパジ師が、インド古来の最重要神聖役のトゥルシーを世界に出すときがきた。特にやんだ国に広めよう。と言い出して、信者の中から、ミットラ氏を指名し、トゥルシーが、世界中に輸出されるようになったのです。

今ではいろんな国で、地球を浄化するため、健康のため、地球を救うために、植えだしたのです。
風邪っぽいときは、葉を生で食べ、食後に、お茶を飲みます。
また、葉を枕元におきて寝ると、蚊が寄ってこないんだそうです。
今の時代に、確実の重要な、アーユルヴェーダのハーブだと言えます。
 
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ストレス過多の現代人に最適のハーブ。ストレスに関係するような症状、気管支炎、ぜんそく、緊張過多、糖尿、関節炎、アレルギーなどによいとあります(サフランロード通販)


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カプセル・タイプ(Aurospirul製)は、オーガニック・ ハーブ100%で、カプセルはベジタリアン製です。化学保存料はまったく入ってませんから、安心です。賞味期限は包装日から3年。一錠350mg。(サフランロード通販)
 


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ココナツの蜜の塊り


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ピラミッドの形に固められたヤシの蜜。ゴアではココナツ・ジャグリーと呼ばれ、独特のコクのある天然の濃厚な甘さ。Pさんはこの蜜を使って友人たちのチャイ・コンテストに優勝したそうです。なるほど、これは・・・という味になる!
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目薬 ネトラプラバ

アーユルヴェーダのハーブ
目に一滴たらすと、ものすごく痛くなりますが、そのせいか、たくさんの涙がでてきます。こんな目薬、見たことない。さすが、インドです



トゥルシーの知識と使い方リンク集
トゥルシは・・・電気エネルギーを持っていることなのです
 
*トゥルシーは・・・ どんな副作用もおこさないことで有名です。

*ホーリー・バジルは・・・『医者いらずの薬草』、あるいは、『生活の霊薬』と呼ばれる
ギーのクリーム


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テルになっていた。20ルピー払うことで宿泊客以外でも中を見ることができる。だが、見所に乏しい城であった。ドゥンドロードはどうもポロで有名らしい。城の正門前はバーザールになっており、いくつか立派なハヴェーリーも建っていたが、先を急いでいたので中は見なかった。


ドゥンドロード・フォート

 ドゥンドロードからさらに北上すると、ムクンドガルという町に出た。ここで多少迷ったが、マンダーワー行きの道を探し出してマンダーワーへ向かった。特に問題なくマンダーワーに到着し、街中を通らずにファテープルへ行く道を取った。マンダーワーからは普通シヴァリンガであるが、ここだけは人間の姿でシヴァが祀られているとか。しかもイタリアから輸入した大理石で作られている。また、寺院の外壁と内壁の一部にはやはりフレスコ画が描かれていた。ラグナート寺院から5分ほど歩いた場所にはサハージ・ラーム・ポーダールのチャトリーという遺跡があったが、こちらは特筆すべき事柄はなかった。


ラグナート寺院のシヴァの眷属
左からカールッティケーヤ、ガンガー、シヴァ、パールワティー、ガネーシャ

 さて、夕食の時間になった。ホテルの主人のマヘーシュワル氏が焚き火に当たっていたので、僕もそれに参加してボチボチ話を始めた。マヘーシュワル氏が「ビールは飲むか?」と聞いて来たので、「今だ!」と思ってファテープルのメヘラージ氏の名前を出し、メヘンサル特産の酒を飲みたいと言ってみた。そうしたら案外簡単に出してくれもたらされた文明の利器が描かれていたが、ここのハヴェーリーの絵は最も面白い。車に加えて、飛行機や電話なども描かれているのだ。ベルが電話を発明したのが1876年、ライト兄弟が初めて飛行に成功したのは1903年、この絵が描かれたのは1920年頃らしい。当時のインドの田舎町としては最新の技術だったことだろう。そしておそらく実物を見たことがない絵描きがこれらの絵を描いたのだろう。列車の絵もそうだったが、これらの絵は、町の人々に世界でどんなことが起こっているのかを教えるためのものだったらしい。

点に駐車場があり、そこから10分ほど歩くと到着する。ナルマダー河にあるこの滝は、「煙の滝」という名前の通り、ものすごい水しぶきを上げる豪快な滝であった。ここは観光地であると同時に周辺住民の生活の場でもあるようで、地元の人々が河で洗濯したり水浴びしたりしていた。

点に駐車場があり、そこから10分ほど歩くと到着する。ナルマダー河にあアーナンド、クマール
振付:レモ
出演:ソハイル・カーン、スネーハー・ウッラール、プニート・イッサル、インドラ・クマール、ファリーダー・ジャラール、サティーシュ・シャー、スプリヤー・カールニク、ファルディーン・カーン(特別出演)、カピル・デーヴ(特別出演)

を使った、電話回線のない家庭用電話があるので、こういうことができる。しかもヒンディー語で「ヴィクラーング(विकलांग)」と書かれている。「身体障害者」という意味だ。つまり、これは身体障害者が運営する移動式電話屋なのである。この三輪車みたいな乗り物は、足の不自由な人が乗る車椅子で、車両行き交う道路を勇敢に走っている姿を時々見かける。足ではなく、手でこぐようになっている。だが、それを移動式電話屋にしてしまうとは、なかなかグッドアイデアである。しかも、病院の前で出店していた。何から何までグッドアイデア尽くしである。

 2枚目はダウラー・クアーンで撮影した写真。1月26日の共和国記念日パレードのリハーサルから帰って来たラクダ隊。おそらくビーカーネール・ラクダ兵団であろう。


ビーカーネール・ラクダ兵団

 バスや自動車が行き交う道路を悠々と進んで行くラクダ兵団は、ものすごくかっこよかった。ラクダは砂漠だけでなく、舗装道にもよく映える生き物だ。思わず追いかけて行って、何とか前から写真を撮った。

 デリーに住んではや5年半になるが、ふと思い立ってマイナーな遺跡の探索を始めてから、デリーの魅力にすっかり取り付かれてしまった。デリーはいろいろな発見が隠されている非常に魅力的な街である。思い返せばインドはかなり旅行したが、ずっと腰を据えていたデリーはそんなに旅行していなかった。デリーにいながら最近は何だか毎日旅人気分である。

1月25日(木) デリーの塔


 デリーの塔と言えば、クトゥブ・ミーナールである。13世紀、奴隷王朝の創始者クトゥブッディーン・アイバクが1階を建造し、その後継者シャムスッディーン・アルタマシュが2階~4階を加え、14世紀にトゥグラク朝のフィーローズ・シャー・トゥグラクが4階部分を取り払って新たに4~5階を付け加えて完成させたと言われている。また、19世紀に地震で損傷したため、英国人が修復したが、このとき多少デザインに改変があったようだ。高さは72.5m。インドで最も高い塔建築だ。ちなみに「地球の歩き方」には、「以前は100mあったが、飛行機事故で現在の高さになった」と書かれているが、これは全くのデマである。


クトゥブ・ミーナールと鉄柱

 だが、あまり知られていないが、モスクなどに併設されている塔を除けば、デリーには少なくともあと2本、古い塔が建っている。今日はその2本の塔を求めて旅立った。
備考:PVRプリヤーで鑑賞。

上段左から、シャノンとゴーヴィンダー、
 ソハイル・カーンとイーシャー・コッピカル
 プリヤンカー・チョープラーとサルマーン・カーン
下段左から、アクシャイ・カンナーとアーイシャー・ターキヤー、
 ジューヒー・チャーウラーとアニル・カプール、
 ヴィディヤー・バーランとジョン・アブラハaka Boom Boom
読み:シャカラカ・ブーム・ブーム
意味:意味なし
邦題:シャカラカ・ブーム・ブーム

監督:スニール・ダルシャン
制作:スニール・ダルシャン
音楽:ヒメーシュ・レーシャミヤー
作詞:サミール
振付:ボスコ、カエサル
出演:ボビー・デーオール、カンガナー・ラーナーウト、ウペーン・パテール、セリナ・ジェートリー、アヌパム・ケール
備考:PVRプリヤーで鑑賞。

左から、ボビー・デーオール、カンガナー・ラーナーウト、
セリナ・ジェートリー、ウペーン・パテール

あらすじ
 舞台はニューヨーク。AJ(ボビー・デーオール)はアルバムを5枚連続ヒットさせた人気シンガーソングライターであった。AJは偶然出会った女性ルーヒー(カンガナー・ラーナーウト)に恋をし、デートを重ねる。その一方でルーヒーはミュージシャンの卵、レッギー(ウペーン・パテール)に出会う。ルーヒーは最初レッギーを嫌っていたが、次第に彼のことが気になり始める。とうとうレッギーはAJからルーヒーを奪い、自分のものにする。

 AJはレッギーの天才的才能に気付いていた。ちょうどそのとき彼はスランプに陥っており、曲作りで苦労していた。だが、レッギーは革新的な音楽を次々と思い付くアイデアの宝庫であった。AJはレッギーの才能に嫉妬した。その上、婚約指輪を渡そうとしていた矢先にルーヒーをレッギーに奪われてしまった。次第にAJはレッギーへの復讐に燃えるようになる。

 また、レッギーにはシーナー(セリナ・ジェートリー)という恋人がいた。シーナーは以前からレッギーのデビューを後押ししていた。だが、レッギーはあっさりとルーヒーに乗り換えてしまった。それに怒ったシーナーは、今度はレッギーへの復讐を誓う。AJとシーナーはコンビを組むことになる。

 レッギーは何とかデビューを果たそうと躍起になり、とうとうデビューもするが、AJとシーナーの妨害により、メディアは少しも彼のことを取り上げようとしなかった。音楽プロダクションもレッギーに見向きもしなかった。次第に自暴自棄になって行くレッギー。そこへ、ある日突然、故郷ジョードプルから父親(アヌパム・ケール)がやって来る。レッギーは音楽の全てを父親から学んだのだった。だが、ビッグになるという野心を持ってレッギーは故郷を去り、ニューヨークへ単身渡って来たのだった。父親は焦るレッギーに、「お前の時代が必ずやって来る」と諭すが、レッギーはそれに反発し、2人の仲は険悪になってしまう。だが、父親は立ち去るときに、「他人を許すことを学びなさい」と言い残す。その言葉がレッギーの心に突き刺さる。

 だが、レッギーの性格に変化はなかった。レッギーは自分の不成功をルーヒーに向けて八つ当たりするようになる。ある日ルーヒーは怒って彼の家を出て行ってしまう。一方、レッギーの破滅を目論んでいたAJとシーナーは、今度は夜な夜な彼を連れ出しては酒を飲ませ、健康を蝕んでいった。とうとうレッギーは寝込んでしまうが、AJはさらに彼を追い込む。AJはレッギーに2枚目のアルバム作成を持ちかけ、短時間で作詞作曲をするように強制する。病床のレッギーはAJの助けを借りて曲作りを始める。ところが、AJはその曲を自分の物にしようとしていた。AJがうっかり口を滑らせてしまったことからそれは発覚し、レッギーは怒るが、既に彼の身体は病気でボロボロになっており、そのまま昏睡状態に陥ってしまう。そこへルーヒーもやって来る。すぐにレッギーは病院へ搬送された。

 AJはレッギーが作った曲を引っさげてコンサートを行おうとしていた。そこへ銃を持った1人の女性の影が。ルーヒーであった。ルーヒーはAJへの復讐をするためにコンサートにやって来ていた。ところが、銃を抜こうとした瞬間、AJの頭上にミラーボールが落下する。AJはその傷によって聴覚を失ってしまう。一方、レッギーは昏睡状態から復活し、ルーヒーと共に退院するのであった。
それは、音楽のヒットに依るのであろう。映画自体は正真正銘の駄作である。

 この映画の最大の見所は、アリーシャー・チノイが歌い、カリーナー・カプールがアイテムガールとしてダンスを踊る、冒頭と最後のダンスシーン「It's Rocking」である。この部分だけはヒット作の貫禄がある。実際、TVで流されているトレーラーもほとんどがこのダンスシーンだ。おかげでてっきり僕は、「Kya Love Story Hai」はカリーナー・カプール主演の映画だと思っていた。多くの人が同じ勘違いをしているのではないかと思う。それにしてもカリーナー・カプールをスクリーン上で見るのは久し振りだ。最近ちょっと演技派ぶっていたが、「It's Rocking」中のカリーナーはデビュー当初のイケイケギャル風オーラを漂わしており、嬉し懐かしい気がした。早期のカムバックを望む(別に一時引退したわけではないが・・・)。


「It's Rocking」のカリーナー・カプール

 見所はこれだけ、と言いたいところだが、「Kya Love Story Hai」には、日本人にとって驚くべき見所がもうひとつ存在する。なんと、スタジオ・ジブリの代表作のひとつ「もののけ姫」(1997年)の、米良美一が歌うあのテーマソングが映画中5、6回使用されるのだ。そう、あの「張り詰めた~弓の~震える弦よ~」という有名な曲である。それが後半で何度も何度も何の脈絡もなしに繰り返し流されからぶっ飛ばざるをえない。十中八九、無断使用であろう。日本の楽曲がボリウッド映画に使用されたのは、僕が確認している中ではこ


ラールコート城壁

 城壁の上を歩いていたら、ニールガーイ2匹発見。ニールガーイは逃げ足が早いのだが、突然の来訪者に興味があったのか、じっとこっちを見ていた。おかげで写真撮影成功。ニールガーイはJNUの森林にも生息しており、前々から写真に収めたいと思っていたのだが、こんなところで実現するとは夢にも思っていなかった。思わぬ収穫であった。


ニールガーイ発見

 アドハム・カーン廟付近から北に伸びていた城壁であるが、やがて東へ折れる。そのまま城壁に沿って歩いて行くと、今度は南へ折れる。この辺りまで来ると再びメヘラウリーの市街地が近付いて来る。クトゥブ・ミーナールもだいぶ近くになった。引き続き城壁に沿って歩いた。実は、最初に歩いて来た城壁はラールコートの新城壁にあたる。ラールコートは一度拡大されているのである。一方、ここから南に伸びている城壁は旧城壁、つまり、ラールコートに遷都したときに造られた城壁ということになる。だが、より時代が遡るだけあり、城壁は次第に丘と区別が付かなくなって来る。


ラールコート旧城壁とクトゥブ・ミーナール

 途中、白塗りの寺院が見えて来る。その奥に巨大な穴がポッカリ空いており、底には少量の水が溜まっている。これはアナングタールと呼ばれており、ラールコート遷都のときに造られた貯水湖だと考えられている。当時の石組みが少しだけ残っているとのことだったので、底まで下りて調べてみたが発見できなかった。


アナングタール

 アナングタールの辺りは平地が広がっており、近所の若者たちのクリケット場となっていた。この辺りまで来るともはやどこからどこまでが城壁なのか分からない。獣道に従って歩いて行くと、城壁散歩を始めた地点まで戻って来た。1周約1時間ほどの散歩であった。

 ところで、ラールコートに遷都し、チャクラヴァルティンとしての支配権を確立したアナングパール2世であったが、王の野望はそれだけに留まらなかった。彼は、ラールコートを永遠不滅の城塞都市にしたかった。王は再びラージグルに相談した。ラージグルは王に、「マハーバーラタ」の中でユディシュティラが精霊ヤクシャの問いに答えて言った言葉を思い出させた――「この世の最大た、ヒマーラヤ山脈の羊飼いたちは必ず大きな牧羊犬を連れて歩いている。この犬がまた獰猛で恐ろしい。いつ噛み付いて来るんじゃないかと、通り過ぎるときはドキドキだ。バドリーナートへツーリングしたときは、ひたすらバドリーナートを目指して裸足で歩くサードゥたちの姿に心を打たれたものだが、今回のツーリングでは羊飼いたちの存在が強く印象に残った。


氷河の上に放牧されている山羊や羊たち
羊飼いたちは右下でくつろいでいる

 チャトルーに架かる橋を越えてしばらく行くと、徐々に舗装道の崩れたものが現れて来る。まだ完全に整備された道ではないが、バータル~チャトルー間のガタガタ道を経験してしまうと、「やっとマシな道に来た」と思える。だが、雪解け水による道路の損壊も激しい。山襞と山襞の間には氷河が残っており、溶でいる人もいれば、パラグライダーをしている人もいる。ハネムーン・カップルのための記念撮影台を雪を削って作って商売道具にしている人もいる。他にも雪ひとつでよくここまで金儲けを考えられるなと感心してしまうほどの雪山商売がロータン峠では横行しており、それを観察するだけでも面白かった。インドでインド人がたくさん集まる観光地は、最大の見所がインド人自身になってしまうのが常である。


大混雑のロータン峠

 本当の地獄はロータン峠を下ってマナーリーへ行くまでの道であった。この道は決して広くないのだが、ロータン峠レジャー化の影響で交通量だけは多い。しかも物見客を満載した大型バスが容赦なく通行する。バスがカーブを曲がるたびに渋滞が発生し、交通はなかなか進まない。しかも恐ろしいのはロータン出演)
備考:PVRベンガルール・ゴールドクラスで鑑賞。

左から、アビシェーク・バッチャン、ラーラー・ダッター、
プリーティ・ズィンター、ボビー・デーオール

あらすじ
 英国ロンドン駅。2人の男女がバーミンガムから来る列車を待っていた。1人は、インドはパンジャーブ州バティンダー生まれで、現在はインド系移別さを雄弁に物語っていた。ボリウッドにおいてアミターブ・バッチャンは「皇帝」の異名を持つ大スターだが、単純に出演料を比較すると、インド全体では実はラジニーカーントに匹敵する俳優は存在しない。ラジニーカーントこそインド最大のスターなのである。それでも、寡作のラジニーカーントに比べるとアミターブ・バッチャンは数をこなしているので、出演料の比較だけで比べるのは単純過ぎるだろう。どちらにしろ、南北の大スター同士の対決という見出しほどメディア受けするものはない。だが、残念ながら「Jhoom Barabar Jhoom」は失敗作に終わってしまった。ある程度の作品ならアミターブとラジニーカーントの雌雄を決することも出来たかもしれないが、これではまともな勝負にならない。一方、インド映画史上最大の予算8億ルピーを投じて制作された「Sivaji」の方は、2年振りのラジニーカーント主演作ということもあり、世界中で大ヒット中である。

 「Sivaji」は全世界同時公開を銘打っていたため、てっきりラジニーカーント映画がカルト的人気を誇る日本でも公開されるかと思っていた(日本でラジニーカーントが人気なのはインドでも有名である)。6月末に日本に一時帰国する予定だったこともあり、どうせなら日本で日本語字幕付きで見ようと考えていたが、どうも日本ではまだ公開されていないらしいことが分かった。そこで、それならインドにいる内に見ておこうと、帰国前の忙しいときに「Sivaji」が上映されているPVRナーラーイナーへ向かった。前作「Chandramukhi」(2005年)もデリーで公開されたのだが、そのときは英語字幕付きでかなり助かった。今回もそれを期待していたのだが、残念ながら字幕はなし。観客はタミル人オンリー。タミル語はほとんどチンプンカンプンのため、映画の批評が出来るほど理解は出来なかった。だが、一応思ったことを書き留めておこうと思う。


ラジニーカーント(左)とシュリヤー(右)

 まず、57歳のラジニーカーントがいつまでもスクリーン上で若々しいシーザー
出演:サルマーン・カーン、ゴーヴィンダー、ラーラー・ダッター、カトリーナ・カイフ、ラージパール・ヤーダヴ、ダリープ・ターヒル
備考:PVRプリヤーで鑑賞。

上段左から、ラーラー・ダッター、ゴーヴィンダー、カトリーナ・カイフ
下段はサルマーン・カーン

あらすじ
 幼い頃から女性に囲まれて育ったプレーム(サルマーン・カーン)は、女性の心理を理解し、世の悩める男性たちの恋を応援するラブ・グル(恋の導師)となった。ある日、プレームのもとにバースカル・ディワーカル・チャウドリー(ゴーヴィンダー
制作:ラーフル・ラヴァイル、スニール・ルッラー
音楽:パッピー・レヘリー
作詞:マノージ・ムンタシル
振付:スハース・グジャラーティー
出演:パレーシュ・ラーワル、アヌパム・ケール、オーム・プリー、ランヴィール・シャウリー、ラーキー・サーワント、ムケーシュ・ティワーリー、ムルリー・シャルマー、マハーバヌー・モーディー・コートワール、モナ・アンベーガーオンカル、ボビー・パルヴェーズ、マンナト・カウル(新人)、ヒーナー・ビシュワース(新人)、マードヴィー・スィン(新人)、ジャイ・ソーニー(新人)、ディーピカー・シャルマー(新人)、ジテーンドラ・バルガヴァー(新人)
備考:サティヤム・ネループレイスで鑑賞。

中心はアヌパム・ケール
左上から時計回りに、オーム・プリー、ラーキー・サーワント、パレーシュ・ラーワル、ランヴィール・シャウリー、?、?、?、ムケーシュ・ティワーリー、?、?、?、マハーバヌー・モーディー・コートワールまで遠征して来たアレクサンダー大王の死因もこのヴィシュカンニャーだったらしい。とにかく、ラーキー演じる女性は、スターになるために色々な男と寝るのだが、ヴィシュカンニャーの力は本物で、次々に男たちは死んで行ってしまうのである。このラーキー・サーワントが無意味にセクシーな格好をしており、もしかしたらこれだけの理由で、ド田舎の映画館で下手なブルーフィルムよりも受けるかもしれない。


ラーキー・サーワント

 なぜか映画中では「Omkara」(2006年)の音楽が多用されていた。それがさらに映画の安っぽさを助長していた。監督のラーフル・ラワイルは、デリーで映画館爆破事件を引き起こした「Jo Bole So Nihaal」(2005年ーリーの方が存在感があった。オートワーリーを演じるにはちょっと顔がかわいすぎるような気もしたが、この作品のおかげで知名度が上がるだろう。

 オリジナル「Sholay」では、ヘレンがアイテムガール出演する「Mehbooba Mehbooba」も映画の大きな見所だった。当然、「Ram Gopal Varma Ki Aag」でもこの曲が登場する。アイテムガール出演したのは、ヴァルマー監督のお気に入り、ウルミラー・マートーンドカルである。元々ダンスには定評があるし、体がグラマラスなので、ヘレンに負けていなかった。このダンスシーンにはなんとアビシェーク・バッチャンも特別出演する。映画館の観客はかなり盛り上がっていた。


アイテムナンバー「Mehbooba」

 だが、全体的に音楽はよくなかった。「Sholay」の全ての曲は今でも歌い継がれているが、「Ram Gopal Varma Ki Aag」のサントラには「Mehboobaインドの憲法制定という大事業にまで参加したアーンベードカル博士の立身伝とその後の仏教改宗の顛末を知って、インドで着々と仏教が復興している様子を思い浮かべる。しかも現在の新仏教徒運動には日本人も大いに関与している。日本人が描く仏教のイメージは平和そのものだ。日本での仏教の現状がどうあれ、何かインドで仏教が広まることでインドの全ての問題が解決するような錯覚に陥る。だが、新仏教はブッダよりもアーンベードカルを神格化しており、政治とも無関係ではないため、日本人が考える仏教とは異質な宗教と化している。BSFのビラの最後には「Jai Bheem(アーンベードカル万歳)」と書かれているが、それは「ジャイ・ラーム(ラーム万歳)」や「アッラーフ・アクバル(アッラーは偉大なり)」と全く変わらない。カースト問題がその根幹にあるため、新仏教徒運動はむしろヒンドゥー教とイスラーム教の対立以上に厄介な、新たな火種を作っているように思えて来る。また、今のところ一般のインド人の間において、仏教に対する感情は好意的である。好奇心旺盛なインド人は外国人を見るといろいろ質問をして来るが、その中で必ず宗教を聞かれる。宗教は信じていないと言うと問題になるときもあるが、無難に仏教と答えておけばそれ以上突っ込んだことは聞かれないし、「仏教はヒンドゥー教の一部だ」と歓迎されることも多い。だが、新仏教がヒンドゥー教への攻撃を繰り返すと、そういう感情にも変化が表れて来るかもしれない。ウッタル・プラデーシュ州の州政府を牛耳るBSPと連動する新仏教徒の動きは、仏教徒が多数を占める日本にとって、インドとの関わりにおいて無視できない問題となって行くだろう。

11月9日(金) Om Shanti Om


 インド三大祭のひとつ、ディーワーリー祭の期間は伝統的に大作映画が公開される。今年も、「Main Hoon Na」(2004年)で初めてメガホンを取った振付師出身女流映画監督ファラー・カーン監督、シャールク・カーン主演の「Om Shanti Om」と、「Devdas」(2002年)や「Black」(2005年)のサンジャイ・リーラー・バーンサーリー監督「Saawariya」の一騎打ちとなり、大いに注目を集めている。両作によって、ボリウッドの未来を担う稀代の新人俳優3人がデビューすることも特筆に価する。まずは「Om Shanti Om」を鑑賞した。



題名:Om Shanti Om
読み:オーム・シャーンティ・オーム
意味:人名または映画中に登場する映画名
邦題:オーム・シャーンティ・オーム

監督:ファラー・カーン
制作:ガウリー・カーン
音楽:ヴィシャール・シェーカル
振付:ファラー・カーン
衣裳:マニーシュ・マロートラー、カラン・ジャウハル、サンジーヴ・ムールチャンダーニー
出演:シャールク・カーン、アルジュン・ラームパール、キラン・ケール、シュレーヤス・タルパデー、ディーピカー・パードゥコーン、ビンドゥー、ジャーヴェード・シェーク、サティーシュ・シャー、ニーテーシュ・パーンデーイ、ユヴィカー・チャウダリー、シャーワール・アリー、アスワリー・ジョーシー
備考:PVRベンガルールで鑑賞。

シャールク・カーン(左)とディーピカー・パードゥコーン(右)

あらすじ
 1977年、ボンベイ。オーム・プラカーシュ・マキージャー(シャールク・カーン)は大スターになるのを夢見ながら映画にエキストラ出演するジワラ寺院の入り口では客引きの攻勢が激しかったが、こちらは閑散としており、ハレビードゥ本来の平和な雰囲気が感じられる。それがこれらのマイナーな寺院の長所だと感じた。


ハレビードゥの住居
赤レンガに白い壁の牧歌的な建築でーが結婚した2007年に出た。ディーピカー・パードゥコーン。インド映画史上に残るヒット作となった「Om Shanti Om」でボリウッド・デビューを果たした期待の新人女優である。世間の注目は今や専らディーピカーに注がれている。


ディーピカー・パードゥコーン

 まずは「これでインディア」恒例のカタカナ表記についての注記だが、彼女の名字「Padukone」をどうカタカナ表記するかは今のところ検討中である。ヒンディー語では「पादुकोण(pādukon)」に固定されつつあるような傾向にあるが、彼女はカルナータカ州バンガロールの人(生まれはデンマークのコペンハーゲン)で、「Padukone」もカンナディガ(カルナータカ人)のもののようなので、カルナータカ州の州公用語カンナダ語の表記も参考にしたい。カンナダ語て見える。ちなみにディーピカーは1986年生まれである。だが、「Om Shanti Om」で動くディーピカーを見れば、おそらく誰でも彼女の魅力に釘付けになるであろう。


写真写りの悪いモデル?

 23日付けヒンドゥスターン紙のサプリメント「ハム・トゥム」では、占星術師サミール・ウパーディヤーイがディーピカーのクンダリー(生誕時の星の位置から導き出された運命表)を見て彼女のこれからを占っている。興味深いことが書いてあったので、翻訳して転載する。占星術上の専門用語が多いが、分かる範囲う考えたものの、この辺りのホールは互いに連結しているので、別のホールの入り口から入ればいいと思い、9番ホールの方へ行ってみたら難なく入場することができた。そこから一路11番ホールを目指した。ナノ周辺は混雑していたが、まだ午前中だったからだろうか、それともプラガティ・マイダーンに詳しくない人が多いのか、恐れていたほどの揉みくちゃ状態ではなかった。


ナノ

 もう新聞でその姿は見ていたため、驚きはなかったが、普通にモダンな自動車だという印象を受けた。むしろ洗練されていると言っていい。10万ルピーという値段がなくても十分話題になったことだろう。日本だったら「小さ~い!」「かわい~」「オシャレ~」みたいな黄色い声が飛んで来そうだが、ナノを取り囲んでいたのはほとんど普通のおっさんたちで、思い思いの感想をぶすぶすと述べ合っていた。だが、そのカラーリングから女性もターゲットに含まれていることは明らかだ。もちろんメインターゲットは二輪車以上マールティ800未満の層だが、裕福な家庭の親が大学生の子供に買え与えるプレゼントや、セカンドカーとしてもナノの値段はとてもリーズナブルで魅力的である。ラーフル・ガーンディーやサンジャイ・ダットのような著名人もナノに興味を示しているという報道もあり、上から下まで、巨大な客層が生まれそうな気配である。ところで展示車には右側にしかサイドミラーがないのに気付いたが、これは標準仕様なのだろうか?車体はマールティ800よりも小さいものの、内部空間は21%広いと言う。確かに見た目ほどの狭さは感じさせない車内となっている。


ナノ内部

 1月11日付けのタイムス・オブ・インディア紙にはラタン・ターター会長のロングインタビューが掲載されていたが、そこからは、ターター・グループがただの利益追求型企業ではなく、インドとインド人を念頭に置き、高い理想の下に会社の経営を行っている様子が伺われた。

 まず、10万ルピーの自動車を開発しようと思い立ったきっかけは、インドの路上でよく見掛けるスクーターに乗った一家だったらしい。インドの法律では、二輪車には運転手を含めて最大2人までしか乗れないことになっているが、実際には3人、4人と人が乗る。よくあるのは、お父さんがスクーターを運転し、その前に子供が立ち、後ろにお母さんが座り、もう1人の子供をお母さんが抱えるという「一家でお出掛け」の光景である。ターター会長はその危なっかしい様子を見て、スクーターやバイクに危険を冒して多人数で乗る必要がなくなるように、安価でかつ一家が安全に乗ることができる自動車の開発を思い立ったと言う。プロジェクトが始動したのは4年前だった。

 ただし、当初はスクーターの後輪に2輪を追加する程度のデザインを考えていたらしい。ターター会長は実際にアジア自動車部品製造業者協会(ACMA)会議でもその提案をし、スクーター部品を流用して、アジアのための新しい自動車の共同開発を持ち掛けた。だが、反応は芳しくなかった。

 また、ターター会長はBMWが開発したセーフティーバー付きスクーターを見る機会があった。彼は全く同じようなデザインのものを考えていたようなのだが、その売れ行きがよくなく、生産中止になってしまったことを聞き、スクーターをいじる程度では商品にならないことを実感する。そして、ゼロから設計し、誰が見ても自動車だと認めるようなデザインの安価な自動車の開発に着手する。アクセルなどの性能でベンチマークとなったのはマールティ800だった。マールティ800より安価で小型ながら、マールる。今のところ2009年1月16日公開予定となっている。


「Chandni Chowk to China」の1シーン

 その「Chandni Chowk to China」のサントラCDが先日リリースされた。何となく予想はしていたのだが、全体的に中国風アレンジがされており、映画を盛り上げてくれそうだ。そしてなんと中国語の歌詞の入った曲まであった。その曲名は「India Se Aaya Tera Dost(インドから来た君の友達)」。ヒン
原作:ヴィカース・スワループ「Q and A(ぼくと1ルピーの神様)」
音楽:ARレヘマーン
出演:デーヴ・パテール、フリーダ・ピント、マドゥル・ミッタル、アニル・カプール、イルファーン・カーン、サウラブ・シュクラ、マヘーシュ・マーンジュレーカル、アンクル・ヴィカル、ラージ・ズトシー、アーユーシュ・マヘーシュ・カーデーカル、タナエ・チェーダー、ルビーナー・アリー、タンヴィー・ガネーシュ・ローンカル、アズハルッディーン・ムハンマド・イスマーイール、アーシュトーシュ・ロボ・ガージーワーラー
備考:PVRバンガロールで鑑賞、ほぼ満席。

デーヴ・パテール(左)とフリーダ・ピント(右)

あらすじ頑張れば、日本におけるボリウッド映画の普及のための大きな原動力となることも期待される。対抗馬は「Sarkar Raj」のアビシェーク・バッチャンであろう。他の4人はそれほど問題にならないはずだ。

 結果:「Rock On!!」のアルジュン・ラームパールが受賞。

助演女優賞
ビパーシャー・バス
Bipasha Basu

「Bachna Ae Haseeno」
ったようである。上述の通り、「ダーダー・ピールのダルガー」の前に広場があって墓地となっているのだが、墓地の敷地はそれだけに留まらず、周辺の住宅街にも拡大している。より正確に表現するならば、墓地の上に住宅街が出来てしまっているのである。この辺りを歩いていると、あちこちの道端に墓を見つけることが出来た。住民たちもそれを自覚しており、死者たちに失礼のないよう、いろいろ気を付けて暮らしていると政治家氏は語ってくれた。


住宅街の中に墓が

 強力な聖者の墓の周辺には、聖者の功徳にあやかるため、信者たちの墓が作られ、墓地が形成される。このモハッラー・カブリスターンが、現
あらすじ
 ニュース編集者のアーシュトーシュ・ライナー(ジョン・アブラハム)とレポーターのテヘズィーブ(ヴィディヤー・バーラン)は、宗教の壁を越え、親の反対を押し切って恋愛結婚をした。結婚してから2年が過ぎ、2人は幸せに暮らしていたが、ある日テヘズィーブは列車事故に遭ってアーシュトーシュと過ご

備考:PVRプリヤーで鑑賞。

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みんなのヒンディー語教室
by yogesh
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ソハイル・カーン(左)とスネーハー・ウッラール(右)

あらすじ
 アーリヤン(ソハイル・カーン)は、ボクシングのナショナル・チャンピオンになることを夢見ていた。アーリヤンにはネーハー(スネーハー・ウッラール)というガールフレンドがいたが、コーチのランヴィール・スィン(プニート・イッサル)からは彼女に会うことを禁止されており、内緒で付き合っていた。同じ学校には、ランジート・スィンという有能なボクサーが転校して来る。だ

るこの滝は、「煙の滝」という名前の通り、ものすごい水しぶきを上げる豪快な滝であった。ここは観光地であると同時に周辺住民の生活の場でもあるようで、地元の人々が河で洗濯したり水浴びしたりしていた。


ドゥアーンダール滝
観光客が滝を眺める横で地元の人がせっせと洗濯中
左下は河に投げ込まれる賽銭を潜って拾う少年

 ドゥアーンダール滝から少し戻ったところの丘の上には、64ヨーギニー寺院という円形の寺院がある。円形の壁には64体のヨーギニーの像が」「ここでレーカー(女優の名前)が踊りました」「あそこの洞穴にはワニが住んでいますが、今は夏休みでどこかへ行っています」などと、ヒンディー語で面白おかしく解説をしてくれる。遊覧客に披露するためか、それともただ単に暑いからか知らないが、子供たちが岩の上から飛び込み合戦をしていたのが一番印象に残った。時間は正味30分ほど。以前はもっと奥まで行っていたようだが、上流にナルマダー・ダムが出来たおかげで水位が下がり、今は途中までしか行けなくなってしまっているらしい。はっきり言って面白さは期待を下回ったが、インドの数ある観光地の中でもユニークなアトラクションだと感じた。このベーラーガート遊覧は10月から6月まで営業している。


ベーラーガート(マーベル・ロックス)遊覧
岩で遊ぶのはマーメードでもローレライでもなく地元の子供たち

 ベーラーガートはジャバルプルから約22kmの地点にあるが、遊覧を終、狭い敷地内に、ヒンドゥー教の神様たちの巨大な人形がいくつも並べられている。そしてそれらの造形のレベルがインドにしてはなかなか高い。バスの中からは、2つの寺院の屋上にある巨大なハヌマーンとシヴァの像のみが目に入ったのだが、敷地内には他にもヴィシュヌ、クリシュナ、ブラフマーなど、多くの神様の人形があった。


バンジャーリー寺院
左上からハヌマーン、シヴァ、
シェーシュに横たわるヴィシュヌ、
カーリヤ竜を殺すクリシュナ、アムリタを持って現れるラクシュミー

 しかし、それらのハイレベルな神様人形よりも面白かったのは、このバンジャーリー寺院のご本尊である。つい、これらの人形に圧倒されてしまうが、バ理に来てしまった。花の谷と同じく、やはり自然モノの観光地は季節を外して行くと楽しさと感動が半減以下になってしまうことを痛感させられた。


雨季前のチトラコート滝

 もし滝が少しでも豪快に流れていたら、午後4時発のバスまでここでゆっくりしていこうかと考えていたが、滝がこのような状態だったので、早めに切り上げて帰ることにした。つまり、11時発のバスでジャグダルプルへ帰ることにした。

 戻るついでに、ダラムプラー・ナンバー1にある人類学博物館に立ち寄ることにした。幸い今日は開いていた。入場料は無料。1階に6つの部屋があり、


サンスクリティ・アート

 とりあえず今日は見るだけにして、何も買わなかった。その後はサンジャイ・マーケットを散策して、いかにも部族っぽい人の写真を激写することに精を出した。


サンジャイ・マーケットの部族的風景

 

5月23日(火) コーンダーガーオン


 今日は、ジャグダルプルの北方にある手工芸品の製造所を2つ訪ねた。同時に、バスタル訪問の最大の動機であった、ドークラー(ベルメタル・アート)を買い漁った。

 午前9時頃にバススタンドへ行き、ラーイプル行きのバスに乗り込んだ。ま美しい高さ30mの滝である。やはりこちらも雨季中が最も壮大な風景となるようだが、雨季前の5月でもけっこう水量があった。周辺の風景も起伏に富んでいてとても味があった。雨季前だったら、水量不足迫力不足のチトラコート滝よりも、こちらの滝の方が訪れる価値があるかもしれない。チトラコート滝は男性的、ティーラトガル滝は女性的、と形容することもできる。チトラコート滝はあまりに水の勢いが強すぎて滝の下で遊ぶことは不可能だが、ティーラトガル滝なら水遊びもできそうだ。


ティーラトガル滝とその周辺の風景
部族の記念碑(右の1番上)や小さな祠があった他
滝の近くに変な人形が(左の下から2番目、右の1番下)

 次に、コータムサル洞窟へ行った。コータムサル洞窟への入り口をくぐをシヴァリンガや神像に見立てた祠があった。こういうオチの付け方がいかにもインドらしいところで僕は気に入った。観光客用に整備されていないことが功を奏して洞窟全体がかなり天然のまま残っているし(人工物は階段のみ)、電灯などが設置されておらず、ライト係が持っている懐中電灯と蛍光灯のみがを頼りとして歩いて行く状態なので、まるで洞窟を探検しているような気分になれる。


コータムサル洞窟
狭く深い階段を下りていくと洞窟に辿り着く(右上)
ガイド兼ライト係の後について洞窟体験
一番奥にはシヴァリンガ


 ドライバーのパーンデーイ氏に「この鳥を見ることができるか?」と聞いてみたら、「ジャグダルプルで見れる場所がある」と言うので、帰りについでに寄ってもらった。それはチャッティースガル州森林局のヴァン・ヴィディヤーラヤ(森林大学)という施設であり、ちょうどカーンゲール国立公園からジャグダルプルに帰る道の途中にあった。この大学では、4匹のマイナー鳥を大きな檻の中で飼育しており、人間の言葉をしゃべる訓練を施している。見物料は1人5ルピー。


バスタル・パハーリー・マイナー

 もったいぶってしまったが、実はこのマイナー鳥、日本語で言う九官鳥のことである。どうも九官鳥の原産地はインドのこのバスタル地方のようだ。日本で九官鳥と言ったら誰でも少なくとも「人間の言葉を真似するあの黒い鳥か」とイメージできると思うのだが、なぜか原産地のはずのインドでは、九官鳥はあまりメジャーではない。よって、鳥が人間の言葉をしゃべることに大半のインド人は大いに驚くらしい。係員の話では、この森林大学に飼育されていた九官鳥高いが、心配していたほど肌寒くもない。それよりもじめっとした湿気がまず感覚に触れた。町の建物も湿った感じだ。メーガーラヤ州の州都シロンに似た雰囲気の町だと感じた。


マディケーリ

 マディケーリには、政府系バススタンドと私営バススタンドの2つがあり、両者はすぐ近くにある。政府系バススタンドの方が町の奥まった場所の低地にあり、私営バススタンドは繁華街の入り口に位置している。マディケーリのホテル、レストラン、お土産屋などは、この私営バススタンドの近くに集中しており、旅行者にはとても便利である。僕はマディケーリのホテルの中でも老舗っぽいホテル・カーヴェーリーに宿泊した。ダブルルーム、バストイレ、TV、タオル、石鹸など付いて450ルピー。バスルームにはギザはなく、バケツにお湯を持ってきてもらう方式である。町の外観に負けず劣らずじめっとした部屋であった。ホテルのマネージャーは旅行者の扱いに慣れており、専属オートリクシャーを使ったツアーやトレッキングもアレンジしてくれるようだ。だが、ホテルは悪い意味で開放的な作りになっており、あまりいい雰囲気ではなかった。

 チェックインして一休みした後、マディケーリ周辺の見所5ヶ所をオートリクシャーで巡ることにした(200ルピー)。まず行ったのは、マディケーリから北に9km山道を行った場所にあるアッビ滝。チャッティースガル州で散々滝を見て来て食傷気味ではあったが、ここでも滝が見所なので、一応それを尊重して見ておくことにした。「アッビ」とはコダヴァタク語(コダヴァ族の言語)で「滝」という意味らしい。英領時代は、マディケーリに初めて赴任した牧師の娘ジェシーの名を取ってジェシー滝と呼ばれていたそうだ。アッビ滝の落差は21.3m。駐車場からコーヒー・プランテーションの中の山道を10分ほど歩いて行くと、水しぶきを上げる滝の姿が木々の間から見えて来る。滝である、という以外はそれほど特徴がない滝であった。


アッビ滝

 アッビ滝を見た後は来た道を引き返し、マディケーリ郊外の小高い山の上にあるガッディゲ(王の墓)へ行った。ここには一見イスラーム様式に見える墓が3つ並んでいる。


ガッディゲ

 だが、面白いことにこれらはイスラーム教徒の墓ではない。18世紀末~19世紀初めにコダグ地方を支配したヒンドゥーの王や僧侶の墓である。通常、ヒンドゥー教徒は墓を作らないと言われているが、コダヴァが信仰しているのは少し特殊なヒンドゥー教のようで、このような形で墓が残っている。また、バンガロールではヒンドゥー教徒のための墓地も目にした。この辺りのヒンドゥー教は北インドとはかなり習慣が異なるかもしれない。ガッディゲの墓にはドームを中心として4本のミーナール(尖塔)が立っているが、ミーナールにはナンディーうな形で墓が残っている。また、バンガロールではヒンドゥー教徒のための墓地も目にした。この辺りのヒンドゥー教は北インドとはかなり習慣が異なるかもしれない。ガッディゲの墓にはドームを中心として4本のミーナール(尖塔)が立っているが、ミーナールにはナンディー(雄牛)が彫刻されている。コダグの王はシヴァ神の信徒だったようで、内部には墓らしき土台(?)と並んでシヴァリンガが祀られていた。その他、ナーガ(蛇)に乗ったシヴァ神の彫刻や、シヴァリンガをなめる牛の彫刻などがあった。これら3つの墓の中で、中央の最も大きな墓は、ヴィーララージェンドラ王(在位1789-1809年)とその后マハーデーヴィー・アンマーのもので、その両側の墓は、ヴィーララージェーンドラ王の弟、リンガラージェーンドラ2世と、ヴィーララージェンドラ王のグル(導師)だった僧侶ルドラッパのものである。どれも19世紀前半の建造だ。


ガッディゲ詳細
ミーナールにはナンディーの彫刻(左上)
墓の入り口にはナーガに乗ったシヴァ神(左列上から2番目)
墓室入り口上部にはシヴァリンガをなめる牛(右上)
内部にはシヴァリンガ(右列上から2番目)
その他、巨大なナンディーや象の像などがあった

 その次はオームカーレーシュワル寺院へ行った。この寺院の建立を巡ってはひとつの言い伝えがある。リンガラージェーンドラ2世はあるとき、自分の間違いを諌めた大臣の僧侶を斬首したことがあった。そのときから王は僧侶の亡霊に昼夜問わず悩まされるようになった。王はある賢人の助言に従い、カーシー(ヴァーラーナスィー)からシヴァリンガを取り寄せ、それを祀った寺院を1820年に建立した。すると、王は僧侶の亡霊から解放されたという。これがオームカーレーシュワル寺院建立秘話である。


オームカーレーシュワル寺院

 オームカーレーシュワル寺院の境内には、まず正方形の池があり、その中心にはクシャル・マンダパと呼ばれる祠堂が浮かんでいる。祠堂は1本の通路で外縁部と結ばれており、その様子はまるでアムリトサルの黄金寺院のようである。祠堂の中にはシヴァとパールワティーと思われる像が納められていの黄金寺院のようである。祠堂の中にはシヴァとパールワティーと思われる像が納められていた。寺院の本殿へは階段を上っていく。本殿は四方を壁で囲われており、まるでイスラーム建築のような門が池に面して建てられている。本殿もやはり4本のミーナールとドームを持ったイスラーム様式の建築だが、それ以外はヒンドゥー教寺院そのものである。本殿入り口の真ん前には、バリピータと呼ばれる祭壇もあった。


オームカーレーシュワル寺院詳細
右上の写真はバリピータ(祭壇)

 本殿の外壁には、いくつか面白い彫刻を見つけた。全て銀色に着色されて言に従い、カーシー(ヴァーラーナスィー)からシヴァリンガを取り寄せ、それを祀った寺院を1820年に建立した。すると、王は僧侶の亡霊から解放されたという。これがオームカーレーシュワル寺院建立秘話である。


オームカーレーシュワル寺院

 オームカーレーシュワル寺院の境内には、まず正方形の池があり、その中心にはクシャル・マンダパと呼ばれる祠堂が浮かんでいる。祠堂は1本の通路で外縁部と結ばれており、その様子はまるでアムリトサルの黄金寺院のようである。祠堂の中にはシヴァとパールワティーと思われる像が納められていた。寺院の本殿へは階段を上っていく。本殿は四方を壁で囲われており、まるでイスラーム建築のような門が池に面して建てられている。本殿もやはり4本のミーナールとドームを持ったイスラーム様式の建築だが、それ以外はヒンドゥー教寺院そのものである。本殿入り口の真ん前には、バリピータと呼ばれる祭壇もあった。


オームカーレーシュワル寺院詳細
右上の写真はバリピータ(祭壇)

 本殿の外壁には、いくつか面白い彫刻を見つけた。全て銀色に着色されていた。


寺院本殿外壁の彫刻

 オームカーレーシュワル寺院の次に行ったのはラージャーズ・シート(王の座)と呼ばれるヴューポイント。小高い丘の上に花々で彩られた公園があり、コダグ地方の美しい緑のカーペットを展望することができる。公園の中に小さな東屋が建っているが、かつて王が后と共に夕方ここで夕日を眺めながら自然の美を愛でたと言われている。ここがラージャーズ・シートと呼ばれるのもそのためだ。この公園は花壇がきれいに整備されているが、毎年ここでフラワーショーが開催されるらしい。


ラージャーズ・シート
左下は西側の山林地帯の展望、
右上は東側の住宅地帯の展望

 最後に行ったのは要塞と宮殿。マディケーリがコダグの首都となったのは、ハーレーリ王朝第3代ムッドゥラージャ(在位1633-1687年)の時代の1681年であり、彼が最初にここに要塞と宮殿を建造した。そのため、マディケーリは当初ムッドゥラージャケーリ(ムッドゥラージャの町)と呼ばれていた。それが訛ってマディケーリとなり、英国人は「Mercara」と呼んだという訳だ。コダグがマイソール王国のティープー・スルターンの支配下に入ったとき、マディケーリはザファラーバードと呼ばれたこともあった。要塞は元々土造りだったが、ティープー・スルターンの時代に現存している六角形プランの形に再建された。六角形の城壁の頂点には円形のブルジ(小塔)が設けられている。また、現存している宮殿は1812~14年に再建されたもので、宮殿は現在では政府の庁舎となっている。宮殿は赤瓦の屋根の2階建ての建物で、ヨーロッパの建築の影響が見受けられる。宮殿の中央部にある中庭の中心部には、チョコンと亀の像が置かれている。これはトラヴァンコール・トートイズという西ガート山脈特有の種らしい。


要塞と宮殿
宮殿中庭(左下)中央部にはトラヴァンコール亀の像が(右下)

 また、要塞内には教会があり、現在では博物館となっている。小さな博物館で、展示物の数も少なかったが、ひとつ目に留まった展示物があった。それは、陸軍元帥KMカリアッパ(K.M. Cariappa)関係の展示物。カリアッパの像をマディケーリの他の場所でも見かけ、興味が沸いた。調べてみたら、カリアッパはインド軍事史の中でも最大級の英雄扱いの偉人であった。1899年1月28日、コダヴァ地方に生まれたカリアッパは、独立前は英国の信任け輝かしい業績を残したカリアッパが地元コダグ地方の人々から愛されるのも不思議ではない。また、KMカリアッパの息子、KCカリアッパも有名な空軍元帥のようだ。


教会の建物を利用した博物館

 要塞内で他に目立つものと言ったら、北東の隅に置かれている現物サイズの2匹の象の像である。解説によると、ヴィーララージェーンドラ王は所有していた2匹の象を何らかの理由で殺してしまい、それを悔いて作らせたものらしい。


2匹の象の像

 ついでなので、ここでコダグの王朝史について簡単に触れておく。コダグ地方に比定される地名が文献に登場するのは2世紀頃らしく、それ以来、パーー、ジャム、オムレツに加え、プーリーとバージーまで出て来た。飲み物はもちろんコーヒー。コダグ地方はコーヒーを産出しているだけあって、コーヒーがうまい。

 キャピトル・ヴィレジ・リゾートのマネージャーが、ホテルの敷地を案内してくれた。敷地内には、コーヒーのプランテーションと水田に加え、オレンジ、バナナ、ジャックフルーツ、パッションフルーツ、ライム、マンゴー、カルダモン、コショウなどの木が植えてあった。また、いろいろな色の花が咲き乱れていて美しかった。豊かなのは植物だけでない。森林は虫たちが我が物顔で鳴き声を競い合っていた。人間が近付いても鳴くのを止めないほどの堂々たる鳴きっぷりである。特に何種類ものセミが我が世を謳歌していた。また、巨大なダンゴムシを発見したことが収穫であった。


巨大ダンゴムシ発見!

 マネージャーの解説によると、キャピトル・ヴィレッジ・リゾートには2種類のコーヒーの木が植えられている。ひとつはアラビカ種、もうひとつはロブスタ種である。アラビカ種の方が葉は小さいのだが、実は大きい。味は、アラビカ種はマイルドな一方で、ロブスタ種は強い。アラビカ種が30年ほどで実を付けなくなってしまうのに対し、ロブスタ種は150年は収穫可能だという。どちらも日本でよく流通しているコーヒー豆みたいだ。あまりコーヒーには詳しくなかったのだが、コーヒー・プランテーションに植えてあるコーヒーの木を見ながら解説してもらうと、よく分かった。


アラビカ種

 コーヒー・プランテーションは見学することができたのだが、コダヴァ族の村を訪れることは適わなかった。チャッティースガル州と同じく、部族の村を訪れるツア機会を得る。それはなかなかうまく行かないのだが、最後には一攫千金に成功し、3人は金持ち生活を送るようになる。「Phir Hera Pheri」は、3人が金持ちになった少し後から始まる。

Phir Hera Pheri
 前作で金持ちになり、豪邸も手に入れたラージュー(アクシャイ・クマール)、シャーム(スニール・シェッティー)、そしてバーブー・ラーオ(パレーシュ・ラーワル)。だが、何かを得るということは何かを失うということであった。ラージューは母親を失い、シャームはアヌラダー(タッブー)を失い、そしてバーブー・ラーオは・・・平静を失った。【写真は左から、リーミー・セーン、アクシャイ・クマール、パレーシュ・ラーワル、スニール・シェッティー、ビパーシャー・バス】

 ラージューはある日、例の如くデーヴィー・プラサードへの間違い電話(前作参照)から、21日間で金を2倍にするという「大富豪専用」スキームを知ってしまう。ラージューがそのスキームを取り扱う会社へ行くと、そこにはアヌラ

 前述の通り、監督はマドゥル・バンダールカル、音楽はシャミール・タンダン。キャストは、ビパーシャー・バス、ケー・ケー・メーナン、ミニーシャー・ラーンバー、ラジャト・カプール、ラージ・バッバル、リレット・ドゥベー、サミール・ダッターニー、パーヤル・ローハトギー、ハルシュ・チャーヤー、ジャーヴェード・アクタル(特別出演)、ヴァスンダラー・ダース(特別出演)、カイラーシュ・ケール(特別出演)、アトゥル・クルカルニー(ナレーション)など。

Corporate
 ムンバイーを拠点とする、セヘガル・グループ・インダストリーズ(SGI)とマールワー・インターナショナル(MI)は、食品業界のライバル企業であり、激しいシェア争いを行っていた。先の選挙でSGIの支持した政治家が州政府の政権に就き、SGIのヴィナイ・セヘガル社長(ラジャト・カプール)は大喜びをしていた。早速、政治家の恩恵によりインド進出を狙っていた米国の国際的企業フリスコンとの提携を結ぶことに成功し、今やSGIは飛ぶ鳥を落とす勢いであった。ニシー(ビパーシャー・バス)はSGIで働くキャリア・ウーマンであった。二シーは、ヴィナイの妻の弟で、SGIの副社長に就任したリテーシュ(ケー・ケー・メーナン)と恋仲にあった。【写真は左から、ラージ・バッバル、ラジャト・カプール、ビパーシャー・バス、ケー・ケー・メーナン、サミール・ダッターニー、ミニーシャー・ラーンバー】できた。

 「Kabhi Alvida Naa Kehna」とは、「さよならは言わないで」という意味。カラン・ジャウハル監督の映画の題名は必ず「K」から始まる。監督はカラン・ジャウハル、音楽はシャンカル・エヘサーン・ロイ。キャストは、シャールク・カーン、ラーニー・ムカルジー、アビシェーク・バッチャン、プリーティ・ズィンター、アミターブ・バッチャン、キラン・ケール、アルジュン・ラームパール(特別出演)、カージョール(友情出演)、ジョン・アブラハム(友情出演)など。

Kabhi Alvida Naa Kehna
 舞台はニューヨーク。マーヤー(ラーニー・ムカルジー)は、幼馴染みのリシ・タルワール(アビシェーク・バッチャン)との結婚を前に、この結婚が本当に心から望んでいたものなのかを考え込んでいた。彼女にとって、両親を失った後、リシの父親サム(アミターブ・バッチャン)は育ての親同然の存在であった。だが、リシとの結婚は、愛情から生まれたものではなかった。結婚式の日、一人ベンチに座って悩んでいたマーヤーに、たまたま通りがかった一人の男が話しかける。その男の名前はデーヴ・サラン(シャールク・カーン)。将来を有望視されたサッカー選手であった。デーヴは、雑誌の編集長を務めるキャリア・ウーマンのリヤー(プリーティ・ズィンター)と4年前に結婚しており、アルジュンという息子がいた。母親のカマルジート(キラン・ケール)も同居していた。デーヴはマーヤーに、「愛情は結婚した後に探すもの。探さなければ見つからない」と助言する。それを聞いたマーヤーは、リシと結婚する決意を固める。だが、デーヴはマーヤーと出会った直後に事故に遭って右足を怪我し、選手生命を絶たれてしまう。【写真は左から、シャールク・カーン、ラーニー・ムカルジー、アミターブ・バッチャン、

 空き家ではなく、ちゃんと蜂が生活している。入居時からものすごく気になっているのだが、未だに何もせずにいる。いや、一度破壊しようとしたのだが、これがけっこう強固で、ハンマーでガンガン叩かないとビクともしないような感入る。

 今回の最大の収穫は、下の写真。「巨根」と書かれた服を着た女の子がいた。思わず写真を撮らせてもらってしまった。最近、変な日本語の書かれたTシャツを着たインド人が増殖中だが、この娘の服に勝るものはなかなかないだろう。聞いてみたら、コンノート・プレイスで買ったらしい。日本でもこんな服はなかなかないと思うのだが・・・。


巨根娘。

 他にも個人的にいろいろ収穫があったわけだが、その中でここで紹介に値する本は1冊。以前、これでインディア・エクスプレスボリウッド・スターのコミック発売へという記事を書いたが、ついにその現物を手に入れることができたのだ。その名も「Bollywood - The Ultimate Chase」。表紙には4つの通貨の値段が書かれていた。Rs.35.00、S$4.90、RM6.ー、ミニーシャー・ラーンバー、ラジャト・ベーディーなど。

Rocky
 ムンバイーに住むロッキー(ザイド・カーン)は、正義感と闘争心に溢れた若者で、不正を見たら、相手が警察官であっても制裁を加えなければ気が済まない性格であった。ロッキーは仲間たちとサイバーカフェを開くが、ある日店に逃げ込んできた女の子ネーハー(イーシャー・シャルヴァーニー)をかくまったがゆえに、ギャングの親玉アンソニー(ラジャト・ベーディー)に目をつけられることになる。ロッキーはネーハーに一目惚れし、結婚するが、アンソニーは非情にもアンソニーの目の前でネーハーの首をナイフで切って殺してしまう。しかも、アンソニーはロッキーの両親をも脅迫する。そのおかげで、ロッキーの家族はロンドンへ移住することになり、ロッキーも全く性格が変わってしまった。ロッキーはロンドンでプリヤー(ミニーシャー・ラーンバー)というインド人の女の子と出会うが、ネーハーのことを忘れることができなかった。【写真は左から、ザイド・カーン、イーシャー・シャルヴァーニー、ミニーシャー・ラーンバー】

 ロッキーの家族はムンバイーから逃げ去ってしまったものの、ロッキーの友人たちはアンソニーを告訴し、裁判を続けていた。だが、アンソニーは金と権力を使って無罪放免される。アンソニーに法の裁きを下すには、ロッキールヴィーン・ワリー・ムハンマド・カーン・バービー)は、グジャラート州ジュナーガル藩王国の名門貴族の血筋を引く女性で、1949年4月4日生まれ。1974年に「Charitrahin」で映画デビューし、その後、「Deewar」(1975年)、「Amar Akhbar Anthony」(1977年)、「Kaala Patthar」(1979年)、「Namak Halaal」(1982年)などに出演して、当時を代表する女優の一人となった。ところが、1983年にニューヨークへ渡り、1988年の「Akarshan」を最後にスクリーンから姿を消す。2002年に彼女はインドに戻って来たが、原形を留めないほど太っており、ファンを驚かせた。1970年代から彼女は統合失調症の兆候が出ており、奇行で有名だったようだが、米国から帰って来てさらにそれはエスカレートし、アミターブ・バッチャンなどの有名人に対し、自分を殺そうとしたなどと裁判を起こしたりして問題を巻き起こした。アミターブ・バッチャン、マヘーシュ・バット、カビール・ベーディー、ダニー・デンゾンパなどと親交があったとされるが、生涯独身を貫く。その最期は非常に寂しいもので、2005年1月22日に自宅で遺体で発見された。状況から自殺と見られており、死亡日は1月20日とされている。


パルヴィーン・バービー
左は1970年代、右は晩年

 「Ankahee」でも語られていたが、映画スターのような華やかな職業に就く人間は、時として、周囲の人々を惹き込む強力なカリスマ性を持っていると共に、極度に不安定な精神をも併せ持っているという。「Woh Lamhe」のサナー・アズィームも、高慢かつ自己中心的な性格であると同時に、逆上しやすく、ラーニーという幻の女性に怯える弱い女性として描写されていた。特に、アーディティヤをナイフで刺した後、部屋の隅で縮こまって怯える姿が印象的であった。マヘーシュ・バットの言によると、この部屋の隅に縮こまる光景はパル謎の絵が掲げられていた。


サンサール・ダルシャン(世界の図)

 寺院の住職や参拝者の解説によると、これは俗人の欲望の愚かさと、それが招く結果を一枚の絵に表したものらしい。1人の男が木の枝にかかった2本の縄にぶら下がり、ヴィシャイ・スク(俗楽)という名の枝にくっ付いているモー(欲望)という名の蜂の巣から垂れ出す蜜を口で受けている。だが、その2本の縄は、一方はディン(昼)という名の白いネズミが、もう片方はラート(夜)という名の灰色のネズミが噛みちぎろうとしている。そして男の足元には

中央左は玄関の上にあった像
花輪で来訪者を歓迎する女性たち
右下は悪戯好きな猿の像

 マールジー・カ・カムラーの正面玄関のすぐ前には、ちょっとした遊び絵があった。それが以下の2枚である。


象と牛の顔が交差した絵


女性が獅子舞のように象になっている絵

 この中で、象と牛の顔が交差した絵は、ナワルガルのドクター・ラームナート・A・ポーダール・ハヴェーリー博物館でも目にした。何か元ネタがあるのだろうか?それともどちらかがどちらかの絵を真似したとか、同じ画家が描いたとか、いくつか可能性がある。そういうのを注意深く見ていくと、シェーカーワーティーの壁画はさらに面白い。浮き彫りにしている。ウムラーオ・ジャーンが実在の人物であったかどうかについては議論があり、実はルスワーの母親だったとの説もあるが、確証はない。「Umrāo Jān Adā」は今まで少なくとも3回映画化された。「Mehndi」(1958年)、「Zindagi Aur Toofan」(1975年)、そして有名なムザッファル・アリー監督、レーカー主演の「Umrao Jaan」(1981年)である。そして2006年11月3日、アイシュワリヤー・ラーイ主演の新「Umrao Jaan」が公開された。奇しくも公開日はアイシュワリヤーの33歳の誕生日の直後、そして共演は、彼女と結婚の噂もあるアビシェーク・バッチャン、監督は「Refugee」(2000年)や「LOC」(2003年)のJPダッターである。JPダッター監督はこれまで男性中心の映画を撮り続けて来たことで知られており、またラージャスターン州の砂漠をこよなく愛することでも知られた監督だが、今回は初めて、女性中心の映画を作り、しかも映画の8割をラクナウーで撮影した(残りの20%はジャイプル)。間違いなく今年の期待作の1本である。



題名:Umrao Jaan
読み:ウムラーオ・ジャーン
意味:主人公の名前
監督:JPダッター
制作:JPダッター
音楽:アヌ・マリク
歌詞:ジャーヴェード・アクタル
振付:ヴァイバヴィー・マーチャント
出演:アイシュワリヤー・ラーイ、アビシェーク・バッチャン、シャバーナー・アーズミー、スニール・シェッテイー、ヒマーニー・シヴプリー、クルブーシャン・カルバンダー、ディヴィヤー・ダッター、アーイシャー・ジュルカー、プル・ラージ・クマール、パリクシト・サーニー、マーヤー・アラグ、ビクラム・サルージャー、ジャーヴェード・カーン
備考:PVRプリヤーで鑑賞。



アイシュワリヤー・ラーイ

あらすじ
 ラクナウー在住の文学者ミルザー・ムハンマド・ハーディー・ルスワーは、近所に住む有名な娼婦ウムラーオ・ジャーン(アイシュワリヤー・ラーイ)の素晴らしい歌声を聞き、彼女に会いに出掛ける。ウムラーオ・ジャーンはルスワーを歓迎すると同時に、自分の人生を語り始める。んでいる。近くで見るよりも、ベートワー河に架かる橋を渡って、対岸から眺める方が壮観である。ただ、チャトリー群がよく見える対岸は有料の公園となっており、お金を払わなければならなくなっていた。しかも何もないのに外国人200ルピー、カメラ代40ルピーという無茶苦茶な値段設定。挙句の果てに、チャトリー群のそばにはオールチャー・リゾートというホテルが出来てしまっていて、対岸からいい写真を撮れなくなってしまっていた。だが、僕はインド人料金20ルピー+カメラ代40ルピーだけ払って下の写真を撮った。それでも高い写真である。


ラクシュミー・ナーラーヤン寺院


チャトリー群

 早朝の観光を終え、朝食を食べてホテルをチェックアウトしたときには10時半になっていた。NH75に戻り、T字路で右折してカジュラーホー方面を
制作:アーディティヤ・チョープラー
音楽:プリータム
歌詞:サミール
振付:シヤーマク・ダーヴァル、ヴァイバヴィー・マーチャント
出演:リティク・ローシャン、アビシェーク・バッチャン、アイシュワリヤー・ラーイ、ビパーシャー・バス、ウダイ・チョープラー、リーミー・セーン(特別出演)
備考:チャーナキャ・シネマで鑑賞。

左から、ウダイ・チョープラー、アビシェーク・バッチャン、アイシュワリヤー・ラーイ、リティク・ローシャン、ビパーシャー・バス
あらすじ
 世界中の貴重品を芸術的な技により盗むハイテク泥棒A(リティク・ローシャン)。誰もその本当の名や本当の顔を知らなかった。女刑事ショーナーリー・ボース(ビパーシャー・バス)はAを追ってムンバイーまで来ていた。実は彼女は前作「Dhoom」で活躍したジャイ・ディークシト警部(アビシェーク・バッチャン)の大学時代の知り合いであった。お調子者のバイクレーサー、アリーもジャイの右腕として警察官になっていた。ジャイは、Aが次なるターゲットをムンバイーに定めていることを見抜き、捜査を担当することになる。だが、Aはまんまと博物館からダイヤモンドを盗み出し、ジャイの包囲網をくぐり抜けて逃走する。

 Aはムンバイーでの仕事を終え、インドを去ろうとしていた。ところがTVで、Aが次なる犯行予告を行ったことを知り、航空券を捨てる。TVでは、Aはある古城から宝剣を盗み出すことを予告していた。同じくインドを去ろうとしていたショーナーリーもインドに残り、ジャイ、アリーと共に古城でAを待ち構える。

 夜、厳重な警備をくぐり抜け、城に忍び込むひとつの影。そのままいとも簡単に宝剣まで辿り着く。だが、そこにはAが待ち構えていた。その影はAではなく、別の泥棒だった。Aは自分になりすまして泥棒を働く者が誰かを知るためにやって来ていたのだった。偽Aは宝剣を取って逃げ出すが、警報が作動し、警察も追って来る。ショーナーリーは偽Aを追い詰めるが、そこへAが現れ、偽Aを救い出す。そして2人は闇の中に消える。ショーナーリーはこのとき怪我を負ってしまう。

 一方、Aは偽Aと対面する。なんとその偽物は女性であった。彼女はスネーリー(アイシュワリヤー・ラーイ)と名乗り、手を組んで一緒に泥棒をすることを提案する。Aは最初それを拒否するものの、やがて受け容れる。こうして、今まで1人で仕事をして来たAは初めてパートナーを得たのであった。

 だが、実はスネーリーはジャイが送り込んだ囮であった。スネーリーは元々泥棒だったのだが、警察に捕まり、牢屋行きを許してもらう代わりにA逮捕に協力させられていたのだった。Aの次なる目標はブラジルのリオデジャネイロであった。ジャイ、アリー、A、スネーリーの4人はブラジルへ降り立つ。

 ジャイとアリーは、ショーナーリーの双子の妹、モーナーリー(ビパーシャー・バス)の家に滞在することになる。ソーナーリーはアリーにつれなかったが、モーナーリーは打って変わってアリーとラブラブになる。また、スネーリーに恋し始めていたAは彼女に自分の正体を明かし、アーリヤンという本名も名乗る。スネーリーも気付いたときにはアーリヤンに惚れていた。自分が囮であることがアーリヤンにばれてしまうが、彼女は信用できない警察のジャイではなく、正直な泥棒のアーリヤンを選ぶ。

 アーリヤンの次なるターゲットは、自然史博物館に展示されている人類最初のコインであった。アーリヤンとスネーリーはやはり警察をまんまと出し抜いてコインを盗み出す。スネーリーもジャイに対してアーリヤンと運命を共にすることを伝える。

 アーリヤンとスネーリーはバイクに乗って逃走し、ジャイとアリーもバイクで追いかける。だが、アーリヤンはジャイに捕まり、スネーリーはアリーに捕まる。と、突然スネーリーはアーリヤンを撃つ。アーリヤンは滝に落ちてしまう。ジャイはスネーリーを後に残して立ち去る。

 だが、アーリヤンは生きていた。6ヵ月後、フィジーのある場所でアーリヤンとスネーリーはレストランを経営していた。だが、ジャイもとっくにそれを嗅ぎつけていた。ある日、ジャイはレストランを訪れる。だが、アーリヤンは既に改心しており、今まで盗んだもの全てが入った金庫の鍵をジャイに渡す。ジャイも2人を許し、立ち去る。


ドゥアーンダール滝
観光客が滝を眺める横で地元の人がせっせと洗濯中
左下は河に投げ込まれる賽銭を潜って拾う少年

 ドゥアーンダール滝から少し戻ったところの丘の上には、64ヨーギニー寺院という円形の寺院がある。円形の壁には64体のヨーギニーの像が」「ここでレーカー(女優の名前)が踊りました」「あそこの洞穴にはワニが住んでいますが、今は夏休みでどこかへ行っています」などと、ヒンディー語で面白おかしく解説をしてくれる。遊覧客に披露するためか、それともただ単に暑いからか知らないが、子供たちが岩の上から飛び込み合戦をしていたのが一番印象に残った。時間は正味30分ほど。以前はもっと奥まで行っていたようだが、上流にナルマダー・ダムが出来たおかげで水位が下がり、今は途中までしか行けなくなってしまっているらしい。はっきり言って面白さは期待を下回ったが、インドの数ある観光地の中でもユニークなアトラクションだと感じた。このベーラーガート遊覧は10月から6月まで営業している。


ベーラーガート(マーベル・ロックス)遊覧
岩で遊ぶのはマーメードでもローレライでもなく地元の子供たち

 ベーラーガートはジャバルプルから約22kmの地点にあるが、遊覧を終、狭い敷地内に、ヒンドゥー教の神様たちの巨大な人形がいくつも並べられている。そしてそれらの造形のレベルがインドにしてはなかなか高い。バスの中からは、2つの寺院の屋上にある巨大なハヌマーンとシヴァの像のみが目に入ったのだが、敷地内には他にもヴィシュヌ、クリシュナ、ブラフマーなど、多くの神様の人形があった。


バンジャーリー寺院
左上からハヌマーン、シヴァ、
シェーシュに横たわるヴィシュヌ、
カーリヤ竜を殺すクリシュナ、アムリタを持って現れるラクシュミー

 しかし、それらのハイレベルな神様人形よりも面白かったのは、このバンジャーリー寺院のご本尊である。つい、これらの人形に圧倒されてしまうが、バ理に来てしまった。花の谷と同じく、やはり自然モノの観光地は季節を外して行くと楽しさと感動が半減以下になってしまうことを痛感させられた。


雨季前のチトラコート滝

 もし滝が少しでも豪快に流れていたら、午後4時発のバスまでここでゆっくりしていこうかと考えていたが、滝がこのような状態だったので、早めに切り上げて帰ることにした。つまり、11時発のバスでジャグダルプルへ帰ることにした。

 戻るついでに、ダラムプラー・ナンバー1にある人類学博物館に立ち寄ることにした。幸い今日は開いていた。入場料は無料。1階に6つの部屋があり、


サンスクリティ・アート

 とりあえず今日は見るだけにして、何も買わなかった。その後はサンジャイ・マーケットを散策して、いかにも部族っぽい人の写真を激写することに精を出した。


サンジャイ・マーケットの部族的風景

 

5月23日(火) コーンダーガーオン


 今日は、ジャグダルプルの北方にある手工芸品の製造所を2つ訪ねた。同時に、バスタル訪問の最大の動機であった、ドークラー(ベルメタル・アート)を買い漁った。

 午前9時頃にバススタンドへ行き、ラーイプル行きのバスに乗り込んだ。ま美しい高さ30mの滝である。やはりこちらも雨季中が最も壮大な風景となるようだが、雨季前の5月でもけっこう水量があった。周辺の風景も起伏に富んでいてとても味があった。雨季前だったら、水量不足迫力不足のチトラコート滝よりも、こちらの滝の方が訪れる価値があるかもしれない。チトラコート滝は男性的、ティーラトガル滝は女性的、と形容することもできる。チトラコート滝はあまりに水の勢いが強すぎて滝の下で遊ぶことは不可能だが、ティーラトガル滝なら水遊びもできそうだ。


ティーラトガル滝とその周辺の風景
部族の記念碑(右の1番上)や小さな祠があった他
滝の近くに変な人形が(左の下から2番目、右の1番下)

 次に、コータムサル洞窟へ行った。コータムサル洞窟への入り口をくぐをシヴァリンガや神像に見立てた祠があった。こういうオチの付け方がいかにもインドらしいところで僕は気に入った。観光客用に整備されていないことが功を奏して洞窟全体がかなり天然のまま残っているし(人工物は階段のみ)、電灯などが設置されておらず、ライト係が持っている懐中電灯と蛍光灯のみがを頼りとして歩いて行く状態なので、まるで洞窟を探検しているような気分になれる。


コータムサル洞窟
狭く深い階段を下りていくと洞窟に辿り着く(右上)
ガイド兼ライト係の後について洞窟体験
一番奥にはシヴァリンガ


 ドライバーのパーンデーイ氏に「この鳥を見ることができるか?」と聞いてみたら、「ジャグダルプルで見れる場所がある」と言うので、帰りについでに寄ってもらった。それはチャッティースガル州森林局のヴァン・ヴィディヤーラヤ(森林大学)という施設であり、ちょうどカーンゲール国立公園からジャグダルプルに帰る道の途中にあった。この大学では、4匹のマイナー鳥を大きな檻の中で飼育しており、人間の言葉をしゃべる訓練を施している。見物料は1人5ルピー。


バスタル・パハーリー・マイナー

 もったいぶってしまったが、実はこのマイナー鳥、日本語で言う九官鳥のことである。どうも九官鳥の原産地はインドのこのバスタル地方のようだ。日本で九官鳥と言ったら誰でも少なくとも「人間の言葉を真似するあの黒い鳥か」とイメージできると思うのだが、なぜか原産地のはずのインドでは、九官鳥はあまりメジャーではない。よって、鳥が人間の言葉をしゃべることに大半のインド人は大いに驚くらしい。係員の話では、この森林大学に飼育されていた九官鳥高いが、心配していたほど肌寒くもない。それよりもじめっとした湿気がまず感覚に触れた。町の建物も湿った感じだ。メーガーラヤ州の州都シロンに似た雰囲気の町だと感じた。


マディケーリ

 マディケーリには、政府系バススタンドと私営バススタンドの2つがあり、両者はすぐ近くにある。政府系バススタンドの方が町の奥まった場所の低地にあり、私営バススタンドは繁華街の入り口に位置している。マディケーリのホテル、レストラン、お土産屋などは、この私営バススタンドの近くに集中しており、旅行者にはとても便利である。僕はマディケーリのホテルの中でも老舗っぽいホテル・カーヴェーリーに宿泊した。ダブルルーム、バストイレ、TV、タオル、石鹸など付いて450ルピー。バスルームにはギザはなく、バケツにお湯を持ってきてもらう方式である。町の外観に負けず劣らずじめっとした部屋であった。ホテルのマネージャーは旅行者の扱いに慣れており、専属オートリクシャーを使ったツアーやトレッキングもアレンジしてくれるようだ。だが、ホテルは悪い意味で開放的な作りになっており、あまりいい雰囲気ではなかった。

 チェックインして一休みした後、マディケーリ周辺の見所5ヶ所をオートリクシャーで巡ることにした(200ルピー)。まず行ったのは、マディケーリから北に9km山道を行った場所にあるアッビ滝。チャッティースガル州で散々滝を見て来て食傷気味ではあったが、ここでも滝が見所なので、一応それを尊重して見ておくことにした。「アッビ」とはコダヴァタク語(コダヴァ族の言語)で「滝」という意味らしい。英領時代は、マディケーリに初めて赴任した牧師の娘ジェシーの名を取ってジェシー滝と呼ばれていたそうだ。アッビ滝の落差は21.3m。駐車場からコーヒー・プランテーションの中の山道を10分ほど歩いて行くと、水しぶきを上げる滝の姿が木々の間から見えて来る。滝である、という以外はそれほど特徴がない滝であった。


アッビ滝

 アッビ滝を見た後は来た道を引き返し、マディケーリ郊外の小高い山の上にあるガッディゲ(王の墓)へ行った。ここには一見イスラーム様式に見える墓が3つ並んでいる。


ガッディゲ

 だが、面白いことにこれらはイスラーム教徒の墓ではない。18世紀末~19世紀初めにコダグ地方を支配したヒンドゥーの王や僧侶の墓である。通常、ヒンドゥー教徒は墓を作らないと言われているが、コダヴァが信仰しているのは少し特殊なヒンドゥー教のようで、このような形で墓が残っている。また、バンガロールではヒンドゥー教徒のための墓地も目にした。この辺りのヒンドゥー教は北インドとはかなり習慣が異なるかもしれない。ガッディゲの墓にはドームを中心として4本のミーナール(尖塔)が立っているが、ミーナールにはナンディーうな形で墓が残っている。また、バンガロールではヒンドゥー教徒のための墓地も目にした。この辺りのヒンドゥー教は北インドとはかなり習慣が異なるかもしれない。ガッディゲの墓にはドームを中心として4本のミーナール(尖塔)が立っているが、ミーナールにはナンディー(雄牛)が彫刻されている。コダグの王はシヴァ神の信徒だったようで、内部には墓らしき土台(?)と並んでシヴァリンガが祀られていた。その他、ナーガ(蛇)に乗ったシヴァ神の彫刻や、シヴァリンガをなめる牛の彫刻などがあった。これら3つの墓の中で、中央の最も大きな墓は、ヴィーララージェンドラ王(在位1789-1809年)とその后マハーデーヴィー・アンマーのもので、その両側の墓は、ヴィーララージェーンドラ王の弟、リンガラージェーンドラ2世と、ヴィーララージェンドラ王のグル(導師)だった僧侶ルドラッパのものである。どれも19世紀前半の建造だ。


ガッディゲ詳細
ミーナールにはナンディーの彫刻(左上)
墓の入り口にはナーガに乗ったシヴァ神(左列上から2番目)
墓室入り口上部にはシヴァリンガをなめる牛(右上)
内部にはシヴァリンガ(右列上から2番目)
その他、巨大なナンディーや象の像などがあった

 その次はオームカーレーシュワル寺院へ行った。この寺院の建立を巡ってはひとつの言い伝えがある。リンガラージェーンドラ2世はあるとき、自分の間違いを諌めた大臣の僧侶を斬首したことがあった。そのときから王は僧侶の亡霊に昼夜問わず悩まされるようになった。王はある賢人の助言に従い、カーシー(ヴァーラーナスィー)からシヴァリンガを取り寄せ、それを祀った寺院を1820年に建立した。すると、王は僧侶の亡霊から解放されたという。これがオームカーレーシュワル寺院建立秘話である。


オームカーレーシュワル寺院

 オームカーレーシュワル寺院の境内には、まず正方形の池があり、その中心にはクシャル・マンダパと呼ばれる祠堂が浮かんでいる。祠堂は1本の通路で外縁部と結ばれており、その様子はまるでアムリトサルの黄金寺院のようである。祠堂の中にはシヴァとパールワティーと思われる像が納められていの黄金寺院のようである。祠堂の中にはシヴァとパールワティーと思われる像が納められていた。寺院の本殿へは階段を上っていく。本殿は四方を壁で囲われており、まるでイスラーム建築のような門が池に面して建てられている。本殿もやはり4本のミーナールとドームを持ったイスラーム様式の建築だが、それ以外はヒンドゥー教寺院そのものである。本殿入り口の真ん前には、バリピータと呼ばれる祭壇もあった。


オームカーレーシュワル寺院詳細
右上の写真はバリピータ(祭壇)

 本殿の外壁には、いくつか面白い彫刻を見つけた。全て銀色に着色されて言に従い、カーシー(ヴァーラーナスィー)からシヴァリンガを取り寄せ、それを祀った寺院を1820年に建立した。すると、王は僧侶の亡霊から解放されたという。これがオームカーレーシュワル寺院建立秘話である。


オームカーレーシュワル寺院

 オームカーレーシュワル寺院の境内には、まず正方形の池があり、その中心にはクシャル・マンダパと呼ばれる祠堂が浮かんでいる。祠堂は1本の通路で外縁部と結ばれており、その様子はまるでアムリトサルの黄金寺院のようである。祠堂の中にはシヴァとパールワティーと思われる像が納められていた。寺院の本殿へは階段を上っていく。本殿は四方を壁で囲われており、まるでイスラーム建築のような門が池に面して建てられている。本殿もやはり4本のミーナールとドームを持ったイスラーム様式の建築だが、それ以外はヒンドゥー教寺院そのものである。本殿入り口の真ん前には、バリピータと呼ばれる祭壇もあった。


オームカーレーシュワル寺院詳細
右上の写真はバリピータ(祭壇)

 本殿の外壁には、いくつか面白い彫刻を見つけた。全て銀色に着色されていた。


寺院本殿外壁の彫刻

 オームカーレーシュワル寺院の次に行ったのはラージャーズ・シート(王の座)と呼ばれるヴューポイント。小高い丘の上に花々で彩られた公園があり、コダグ地方の美しい緑のカーペットを展望することができる。公園の中に小さな東屋が建っているが、かつて王が后と共に夕方ここで夕日を眺めながら自然の美を愛でたと言われている。ここがラージャーズ・シートと呼ばれるのもそのためだ。この公園は花壇がきれいに整備されているが、毎年ここでフラワーショーが開催されるらしい。


ラージャーズ・シート
左下は西側の山林地帯の展望、
右上は東側の住宅地帯の展望

 最後に行ったのは要塞と宮殿。マディケーリがコダグの首都となったのは、ハーレーリ王朝第3代ムッドゥラージャ(在位1633-1687年)の時代の1681年であり、彼が最初にここに要塞と宮殿を建造した。そのため、マディケーリは当初ムッドゥラージャケーリ(ムッドゥラージャの町)と呼ばれていた。それが訛ってマディケーリとなり、英国人は「Mercara」と呼んだという訳だ。コダグがマイソール王国のティープー・スルターンの支配下に入ったとき、マディケーリはザファラーバードと呼ばれたこともあった。要塞は元々土造りだったが、ティープー・スルターンの時代に現存している六角形プランの形に再建された。六角形の城壁の頂点には円形のブルジ(小塔)が設けられている。また、現存している宮殿は1812~14年に再建されたもので、宮殿は現在では政府の庁舎となっている。宮殿は赤瓦の屋根の2階建ての建物で、ヨーロッパの建築の影響が見受けられる。宮殿の中央部にある中庭の中心部には、チョコンと亀の像が置かれている。これはトラヴァンコール・トートイズという西ガート山脈特有の種らしい。


要塞と宮殿
宮殿中庭(左下)中央部にはトラヴァンコール亀の像が(右下)

 また、要塞内には教会があり、現在では博物館となっている。小さな博物館で、展示物の数も少なかったが、ひとつ目に留まった展示物があった。それは、陸軍元帥KMカリアッパ(K.M. Cariappa)関係の展示物。カリアッパの像をマディケーリの他の場所でも見かけ、興味が沸いた。調べてみたら、カリアッパはインド軍事史の中でも最大級の英雄扱いの偉人であった。1899年1月28日、コダヴァ地方に生まれたカリアッパは、独立前は英国の信任け輝かしい業績を残したカリアッパが地元コダグ地方の人々から愛されるのも不思議ではない。また、KMカリアッパの息子、KCカリアッパも有名な空軍元帥のようだ。


教会の建物を利用した博物館

 要塞内で他に目立つものと言ったら、北東の隅に置かれている現物サイズの2匹の象の像である。解説によると、ヴィーララージェーンドラ王は所有していた2匹の象を何らかの理由で殺してしまい、それを悔いて作らせたものらしい。


2匹の象の像

 ついでなので、ここでコダグの王朝史について簡単に触れておく。コダグ地方に比定される地名が文献に登場するのは2世紀頃らしく、それ以来、パーー、ジャム、オムレツに加え、プーリーとバージーまで出て来た。飲み物はもちろんコーヒー。コダグ地方はコーヒーを産出しているだけあって、コーヒーがうまい。

 キャピトル・ヴィレジ・リゾートのマネージャーが、ホテルの敷地を案内してくれた。敷地内には、コーヒーのプランテーションと水田に加え、オレンジ、バナナ、ジャックフルーツ、パッションフルーツ、ライム、マンゴー、カルダモン、コショウなどの木が植えてあった。また、いろいろな色の花が咲き乱れていて美しかった。豊かなのは植物だけでない。森林は虫たちが我が物顔で鳴き声を競い合っていた。人間が近付いても鳴くのを止めないほどの堂々たる鳴きっぷりである。特に何種類ものセミが我が世を謳歌していた。また、巨大なダンゴムシを発見したことが収穫であった。


巨大ダンゴムシ発見!

 マネージャーの解説によると、キャピトル・ヴィレッジ・リゾートには2種類のコーヒーの木が植えられている。ひとつはアラビカ種、もうひとつはロブスタ種である。アラビカ種の方が葉は小さいのだが、実は大きい。味は、アラビカ種はマイルドな一方で、ロブスタ種は強い。アラビカ種が30年ほどで実を付けなくなってしまうのに対し、ロブスタ種は150年は収穫可能だという。どちらも日本でよく流通しているコーヒー豆みたいだ。あまりコーヒーには詳しくなかったのだが、コーヒー・プランテーションに植えてあるコーヒーの木を見ながら解説してもらうと、よく分かった。


アラビカ種

 コーヒー・プランテーションは見学することができたのだが、コダヴァ族の村を訪れることは適わなかった。チャッティースガル州と同じく、部族の村を訪れるツア機会を得る。それはなかなかうまく行かないのだが、最後には一攫千金に成功し、3人は金持ち生活を送るようになる。「Phir Hera Pheri」は、3人が金持ちになった少し後から始まる。

Phir Hera Pheri
 前作で金持ちになり、豪邸も手に入れたラージュー(アクシャイ・クマール)、シャーム(スニール・シェッティー)、そしてバーブー・ラーオ(パレーシュ・ラーワル)。だが、何かを得るということは何かを失うということであった。ラージューは母親を失い、シャームはアヌラダー(タッブー)を失い、そしてバーブー・ラーオは・・・平静を失った。【写真は左から、リーミー・セーン、アクシャイ・クマール、パレーシュ・ラーワル、スニール・シェッティー、ビパーシャー・バス】

 ラージューはある日、例の如くデーヴィー・プラサードへの間違い電話(前作参照)から、21日間で金を2倍にするという「大富豪専用」スキームを知ってしまう。ラージューがそのスキームを取り扱う会社へ行くと、そこにはアヌラ

 前述の通り、監督はマドゥル・バンダールカル、音楽はシャミール・タンダン。キャストは、ビパーシャー・バス、ケー・ケー・メーナン、ミニーシャー・ラーンバー、ラジャト・カプール、ラージ・バッバル、リレット・ドゥベー、サミール・ダッターニー、パーヤル・ローハトギー、ハルシュ・チャーヤー、ジャーヴェード・アクタル(特別出演)、ヴァスンダラー・ダース(特別出演)、カイラーシュ・ケール(特別出演)、アトゥル・クルカルニー(ナレーション)など。

Corporate
 ムンバイーを拠点とする、セヘガル・グループ・インダストリーズ(SGI)とマールワー・インターナショナル(MI)は、食品業界のライバル企業であり、激しいシェア争いを行っていた。先の選挙でSGIの支持した政治家が州政府の政権に就き、SGIのヴィナイ・セヘガル社長(ラジャト・カプール)は大喜びをしていた。早速、政治家の恩恵によりインド進出を狙っていた米国の国際的企業フリスコンとの提携を結ぶことに成功し、今やSGIは飛ぶ鳥を落とす勢いであった。ニシー(ビパーシャー・バス)はSGIで働くキャリア・ウーマンであった。二シーは、ヴィナイの妻の弟で、SGIの副社長に就任したリテーシュ(ケー・ケー・メーナン)と恋仲にあった。【写真は左から、ラージ・バッバル、ラジャト・カプール、ビパーシャー・バス、ケー・ケー・メーナン、サミール・ダッターニー、ミニーシャー・ラーンバー】できた。

 「Kabhi Alvida Naa Kehna」とは、「さよならは言わないで」という意味。カラン・ジャウハル監督の映画の題名は必ず「K」から始まる。監督はカラン・ジャウハル、音楽はシャンカル・エヘサーン・ロイ。キャストは、シャールク・カーン、ラーニー・ムカルジー、アビシェーク・バッチャン、プリーティ・ズィンター、アミターブ・バッチャン、キラン・ケール、アルジュン・ラームパール(特別出演)、カージョール(友情出演)、ジョン・アブラハム(友情出演)など。

Kabhi Alvida Naa Kehna
 舞台はニューヨーク。マーヤー(ラーニー・ムカルジー)は、幼馴染みのリシ・タルワール(アビシェーク・バッチャン)との結婚を前に、この結婚が本当に心から望んでいたものなのかを考え込んでいた。彼女にとって、両親を失った後、リシの父親サム(アミターブ・バッチャン)は育ての親同然の存在であった。だが、リシとの結婚は、愛情から生まれたものではなかった。結婚式の日、一人ベンチに座って悩んでいたマーヤーに、たまたま通りがかった一人の男が話しかける。その男の名前はデーヴ・サラン(シャールク・カーン)。将来を有望視されたサッカー選手であった。デーヴは、雑誌の編集長を務めるキャリア・ウーマンのリヤー(プリーティ・ズィンター)と4年前に結婚しており、アルジュンという息子がいた。母親のカマルジート(キラン・ケール)も同居していた。デーヴはマーヤーに、「愛情は結婚した後に探すもの。探さなければ見つからない」と助言する。それを聞いたマーヤーは、リシと結婚する決意を固める。だが、デーヴはマーヤーと出会った直後に事故に遭って右足を怪我し、選手生命を絶たれてしまう。【写真は左から、シャールク・カーン、ラーニー・ムカルジー、アミターブ・バッチャン、

 空き家ではなく、ちゃんと蜂が生活している。入居時からものすごく気になっているのだが、未だに何もせずにいる。いや、一度破壊しようとしたのだが、これがけっこう強固で、ハンマーでガンガン叩かないとビクともしないような感入る。

 今回の最大の収穫は、下の写真。「巨根」と書かれた服を着た女の子がいた。思わず写真を撮らせてもらってしまった。最近、変な日本語の書かれたTシャツを着たインド人が増殖中だが、この娘の服に勝るものはなかなかないだろう。聞いてみたら、コンノート・プレイスで買ったらしい。日本でもこんな服はなかなかないと思うのだが・・・。


巨根娘。

 他にも個人的にいろいろ収穫があったわけだが、その中でここで紹介に値する本は1冊。以前、これでインディア・エクスプレスボリウッド・スターのコミック発売へという記事を書いたが、ついにその現物を手に入れることができたのだ。その名も「Bollywood - The Ultimate Chase」。表紙には4つの通貨の値段が書かれていた。Rs.35.00、S$4.90、RM6.ー、ミニーシャー・ラーンバー、ラジャト・ベーディーなど。

Rocky
 ムンバイーに住むロッキー(ザイド・カーン)は、正義感と闘争心に溢れた若者で、不正を見たら、相手が警察官であっても制裁を加えなければ気が済まない性格であった。ロッキーは仲間たちとサイバーカフェを開くが、ある日店に逃げ込んできた女の子ネーハー(イーシャー・シャルヴァーニー)をかくまったがゆえに、ギャングの親玉アンソニー(ラジャト・ベーディー)に目をつけられることになる。ロッキーはネーハーに一目惚れし、結婚するが、アンソニーは非情にもアンソニーの目の前でネーハーの首をナイフで切って殺してしまう。しかも、アンソニーはロッキーの両親をも脅迫する。そのおかげで、ロッキーの家族はロンドンへ移住することになり、ロッキーも全く性格が変わってしまった。ロッキーはロンドンでプリヤー(ミニーシャー・ラーンバー)というインド人の女の子と出会うが、ネーハーのことを忘れることができなかった。【写真は左から、ザイド・カーン、イーシャー・シャルヴァーニー、ミニーシャー・ラーンバー】

 ロッキーの家族はムンバイーから逃げ去ってしまったものの、ロッキーの友人たちはアンソニーを告訴し、裁判を続けていた。だが、アンソニーは金と権力を使って無罪放免される。アンソニーに法の裁きを下すには、ロッキールヴィーン・ワリー・ムハンマド・カーン・バービー)は、グジャラート州ジュナーガル藩王国の名門貴族の血筋を引く女性で、1949年4月4日生まれ。1974年に「Charitrahin」で映画デビューし、その後、「Deewar」(1975年)、「Amar Akhbar Anthony」(1977年)、「Kaala Patthar」(1979年)、「Namak Halaal」(1982年)などに出演して、当時を代表する女優の一人となった。ところが、1983年にニューヨークへ渡り、1988年の「Akarshan」を最後にスクリーンから姿を消す。2002年に彼女はインドに戻って来たが、原形を留めないほど太っており、ファンを驚かせた。1970年代から彼女は統合失調症の兆候が出ており、奇行で有名だったようだが、米国から帰って来てさらにそれはエスカレートし、アミターブ・バッチャンなどの有名人に対し、自分を殺そうとしたなどと裁判を起こしたりして問題を巻き起こした。アミターブ・バッチャン、マヘーシュ・バット、カビール・ベーディー、ダニー・デンゾンパなどと親交があったとされるが、生涯独身を貫く。その最期は非常に寂しいもので、2005年1月22日に自宅で遺体で発見された。状況から自殺と見られており、死亡日は1月20日とされている。


パルヴィーン・バービー
左は1970年代、右は晩年

 「Ankahee」でも語られていたが、映画スターのような華やかな職業に就く人間は、時として、周囲の人々を惹き込む強力なカリスマ性を持っていると共に、極度に不安定な精神をも併せ持っているという。「Woh Lamhe」のサナー・アズィームも、高慢かつ自己中心的な性格であると同時に、逆上しやすく、ラーニーという幻の女性に怯える弱い女性として描写されていた。特に、アーディティヤをナイフで刺した後、部屋の隅で縮こまって怯える姿が印象的であった。マヘーシュ・バットの言によると、この部屋の隅に縮こまる光景はパル謎の絵が掲げられていた。


サンサール・ダルシャン(世界の図)

 寺院の住職や参拝者の解説によると、これは俗人の欲望の愚かさと、それが招く結果を一枚の絵に表したものらしい。1人の男が木の枝にかかった2本の縄にぶら下がり、ヴィシャイ・スク(俗楽)という名の枝にくっ付いているモー(欲望)という名の蜂の巣から垂れ出す蜜を口で受けている。だが、その2本の縄は、一方はディン(昼)という名の白いネズミが、もう片方はラート(夜)という名の灰色のネズミが噛みちぎろうとしている。そして男の足元には

中央左は玄関の上にあった像
花輪で来訪者を歓迎する女性たち
右下は悪戯好きな猿の像

 マールジー・カ・カムラーの正面玄関のすぐ前には、ちょっとした遊び絵があった。それが以下の2枚である。


象と牛の顔が交差した絵


女性が獅子舞のように象になっている絵

 この中で、象と牛の顔が交差した絵は、ナワルガルのドクター・ラームナート・A・ポーダール・ハヴェーリー博物館でも目にした。何か元ネタがあるのだろうか?それともどちらかがどちらかの絵を真似したとか、同じ画家が描いたとか、いくつか可能性がある。そういうのを注意深く見ていくと、シェーカーワーティーの壁画はさらに面白い。浮き彫りにしている。ウムラーオ・ジャーンが実在の人物であったかどうかについては議論があり、実はルスワーの母親だったとの説もあるが、確証はない。「Umrāo Jān Adā」は今まで少なくとも3回映画化された。「Mehndi」(1958年)、「Zindagi Aur Toofan」(1975年)、そして有名なムザッファル・アリー監督、レーカー主演の「Umrao Jaan」(1981年)である。そして2006年11月3日、アイシュワリヤー・ラーイ主演の新「Umrao Jaan」が公開された。奇しくも公開日はアイシュワリヤーの33歳の誕生日の直後、そして共演は、彼女と結婚の噂もあるアビシェーク・バッチャン、監督は「Refugee」(2000年)や「LOC」(2003年)のJPダッターである。JPダッター監督はこれまで男性中心の映画を撮り続けて来たことで知られており、またラージャスターン州の砂漠をこよなく愛することでも知られた監督だが、今回は初めて、女性中心の映画を作り、しかも映画の8割をラクナウーで撮影した(残りの20%はジャイプル)。間違いなく今年の期待作の1本である。



題名:Umrao Jaan
読み:ウムラーオ・ジャーン
意味:主人公の名前
監督:JPダッター
制作:JPダッター
音楽:アヌ・マリク
歌詞:ジャーヴェード・アクタル
振付:ヴァイバヴィー・マーチャント
出演:アイシュワリヤー・ラーイ、アビシェーク・バッチャン、シャバーナー・アーズミー、スニール・シェッテイー、ヒマーニー・シヴプリー、クルブーシャン・カルバンダー、ディヴィヤー・ダッター、アーイシャー・ジュルカー、プル・ラージ・クマール、パリクシト・サーニー、マーヤー・アラグ、ビクラム・サルージャー、ジャーヴェード・カーン
備考:PVRプリヤーで鑑賞。



アイシュワリヤー・ラーイ

あらすじ
 ラクナウー在住の文学者ミルザー・ムハンマド・ハーディー・ルスワーは、近所に住む有名な娼婦ウムラーオ・ジャーン(アイシュワリヤー・ラーイ)の素晴らしい歌声を聞き、彼女に会いに出掛ける。ウムラーオ・ジャーンはルスワーを歓迎すると同時に、自分の人生を語り始める。んでいる。近くで見るよりも、ベートワー河に架かる橋を渡って、対岸から眺める方が壮観である。ただ、チャトリー群がよく見える対岸は有料の公園となっており、お金を払わなければならなくなっていた。しかも何もないのに外国人200ルピー、カメラ代40ルピーという無茶苦茶な値段設定。挙句の果てに、チャトリー群のそばにはオールチャー・リゾートというホテルが出来てしまっていて、対岸からいい写真を撮れなくなってしまっていた。だが、僕はインド人料金20ルピー+カメラ代40ルピーだけ払って下の写真を撮った。それでも高い写真である。


ラクシュミー・ナーラーヤン寺院


チャトリー群

 早朝の観光を終え、朝食を食べてホテルをチェックアウトしたときには10時半になっていた。NH75に戻り、T字路で右折してカジュラーホー方面を
制作:アーディティヤ・チョープラー
音楽:プリータム
歌詞:サミール
振付:シヤーマク・ダーヴァル、ヴァイバヴィー・マーチャント
出演:リティク・ローシャン、アビシェーク・バッチャン、アイシュワリヤー・ラーイ、ビパーシャー・バス、ウダイ・チョープラー、リーミー・セーン(特別出演)
備考:チャーナキャ・シネマで鑑賞。

左から、ウダイ・チョープラー、アビシェーク・バッチャン、アイシュワリヤー・ラーイ、リティク・ローシャン、ビパーシャー・バス
あらすじ
 世界中の貴重品を芸術的な技により盗むハイテク泥棒A(リティク・ローシャン)。誰もその本当の名や本当の顔を知らなかった。女刑事ショーナーリー・ボース(ビパーシャー・バス)はAを追ってムンバイーまで来ていた。実は彼女は前作「Dhoom」で活躍したジャイ・ディークシト警部(アビシェーク・バッチャン)の大学時代の知り合いであった。お調子者のバイクレーサー、アリーもジャイの右腕として警察官になっていた。ジャイは、Aが次なるターゲットをムンバイーに定めていることを見抜き、捜査を担当することになる。だが、Aはまんまと博物館からダイヤモンドを盗み出し、ジャイの包囲網をくぐり抜けて逃走する。

 Aはムンバイーでの仕事を終え、インドを去ろうとしていた。ところがTVで、Aが次なる犯行予告を行ったことを知り、航空券を捨てる。TVでは、Aはある古城から宝剣を盗み出すことを予告していた。同じくインドを去ろうとしていたショーナーリーもインドに残り、ジャイ、アリーと共に古城でAを待ち構える。

 夜、厳重な警備をくぐり抜け、城に忍び込むひとつの影。そのままいとも簡単に宝剣まで辿り着く。だが、そこにはAが待ち構えていた。その影はAではなく、別の泥棒だった。Aは自分になりすまして泥棒を働く者が誰かを知るためにやって来ていたのだった。偽Aは宝剣を取って逃げ出すが、警報が作動し、警察も追って来る。ショーナーリーは偽Aを追い詰めるが、そこへAが現れ、偽Aを救い出す。そして2人は闇の中に消える。ショーナーリーはこのとき怪我を負ってしまう。

 一方、Aは偽Aと対面する。なんとその偽物は女性であった。彼女はスネーリー(アイシュワリヤー・ラーイ)と名乗り、手を組んで一緒に泥棒をすることを提案する。Aは最初それを拒否するものの、やがて受け容れる。こうして、今まで1人で仕事をして来たAは初めてパートナーを得たのであった。

 だが、実はスネーリーはジャイが送り込んだ囮であった。スネーリーは元々泥棒だったのだが、警察に捕まり、牢屋行きを許してもらう代わりにA逮捕に協力させられていたのだった。Aの次なる目標はブラジルのリオデジャネイロであった。ジャイ、アリー、A、スネーリーの4人はブラジルへ降り立つ。

 ジャイとアリーは、ショーナーリーの双子の妹、モーナーリー(ビパーシャー・バス)の家に滞在することになる。ソーナーリーはアリーにつれなかったが、モーナーリーは打って変わってアリーとラブラブになる。また、スネーリーに恋し始めていたAは彼女に自分の正体を明かし、アーリヤンという本名も名乗る。スネーリーも気付いたときにはアーリヤンに惚れていた。自分が囮であることがアーリヤンにばれてしまうが、彼女は信用できない警察のジャイではなく、正直な泥棒のアーリヤンを選ぶ。

 アーリヤンの次なるターゲットは、自然史博物館に展示されている人類最初のコインであった。アーリヤンとスネーリーはやはり警察をまんまと出し抜いてコインを盗み出す。スネーリーもジャイに対してアーリヤンと運命を共にすることを伝える。

 アーリヤンとスネーリーはバイクに乗って逃走し、ジャイとアリーもバイクで追いかける。だが、アーリヤンはジャイに捕まり、スネーリーはアリーに捕まる。と、突然スネーリーはアーリヤンを撃つ。アーリヤンは滝に落ちてしまう。ジャイはスネーリーを後に残して立ち去る。

 だが、アーリヤンは生きていた。6ヵ月後、フィジーのある場所でアーリヤンとスネーリーはレストランを経営していた。だが、ジャイもとっくにそれを嗅ぎつけていた。ある日、ジャイはレストランを訪れる。だが、アーリヤンは既に改心しており、今まで盗んだもの全てが入った金庫の鍵をジャイに渡す。ジャイも2人を許し、立ち去る。


ビンスィーダル・ネーワティヤーのハヴェーリーの外壁の絵
2番目の絵には「プロフェッサーラームールティナーヤル」と書かれている
4番目の絵には「ウルネーワーラー・ジャハーズ(飛ぶ船)」と書かれている

 英国人の来訪は、これまで神話や伝承などを題材にしていたシェーカーワーティー地方のフレスコ画に大きな影響を与えた。題材への影響は上に見てきた通りである。だが、その影響は題材だけでなく、絵の手法にも及んだ。1840年頃にインドに徐々に普及し始めた写真機は、今まで2次元だったシェーカーワーティー地味。監督はマニーシュ・シャルマー(新人)、音楽はサージド・ワージド。キャストは、イムラーン・ハーシュミー、セリナ・ジェートリー、リシター・バット、マヘーシュ・マーンジュレーカル、ティックー・タルサニヤーなど。

Jawani Diwani
 ムンバイーに住むマン・カプール(イムラーン・ハーシュミー)は歌手を目指す若者で、音楽会社を経営するウメーシュ・ジューマーニー(ティックー・タルサニヤー)の娘ラーダー(リシター・バット)と結婚して手っ取り早く夢を実現させようとした。マンはすぐにラーダーの心をものにし、結婚もとんとん拍子で決まり、CDデビューも決まった。結婚までの期間、マンは仲間たちとゴアへ行くことにした。【写真は、イムラーン・ハーシュミー(左上)とセリナ・ジェートリー(下)】によって出版されている「Language Atlas of India 1991」である。1500ルピーもする馬鹿でかい本だが、非常に興味深いデータがカラー地図付きで掲載されていたので奮発して購入して苦労して持って帰った。要は、10年に1回行われる国勢調査の言語データの総集編である。2001年に行われた国勢調査の言語データはまだ公表されておらず、1991年のものが最新版ということになる。ちなみに、1991年の国勢調査では、諸事情からジャンムー&カシュミール州の調査が行われなかった。また、当時はまだウッタラーンチャル州、ジャールカンド州、チャッティースガル州などは存在しなかった。その点を注意して、以下の地図などを見ていただきたい。

 まず、下の地図はヒンディー語話者の分布図である。本が大きすぎてスキャンできなかったので、コピー機で縮小コピーしてからスキャンした。よって白黒になってしまっている。

 最も濃い部分は、ヒンディー語を母語とする人の割合が全人口の90.01%以上の地域であり、それより少し薄い部分は70.01~90.00%、青っぽく映っている部分は20.01~70.00%の地域である。0.21~20.00%の部分は上の画像ではほとんど見分けが付かなくなっているが、ケーララ州とタミル・ナードゥ州のほぼ全域、またアーンドラ・プラデーシュ州とオリッサ州のごく少数の地域以外、全てである。一般に「ヒンディー・ベルト」と呼ばれているヒンディー語流通地域がはっきりと見て取れる。これだけ広範な地域に広がっている言語はインドには他にない。1991年の時点で、ジャンムー&カシュミール州を除きでは48のヒンディー語の方言が認識されている。

 また、ヒンディー語の姉妹語であるウルドゥー語の話者の分布図は以下の通りだ。

 最も濃い部分は、ウルドゥー語を母語とする人の割合が全人口の20.01%以上の地域である。意外なことに、ウルドゥー語話者の割合が最も多い
 ウルドゥー語と関連して、以下のような地図も掲載されていた。これは、ウルドゥー語話者とイスラーム教徒の人口を対比した地図である。

 最も濃い部分は、イスラーム教徒の人口が全人口の25.01%以上を占める州である。「さて、インドの全ての州と連邦直轄地の中で、最もイスラーム教徒の人口比が高いのはどこでしょう?」これはおそらくひっかけ問題になるだろう。答えはラクシャドイープ準州。全人口の実に94.31%をイスラーム教徒教徒数≒ウルドゥー語話者数と言っていいぐらいの高い関連性を見せている。

 他に面白かった地図を2つ紹介。まずはアラビア語話者の分布図。

 1991年の時点で、インドにはアラビア語を母語とする人が2万1975人住んでいるらしい。全インドで最もアラビア語話者の割合が高い県は
 最後に掲載するのは、サンスクリット語話者の分布図。

 2005年10月15日に、サンスクリット語が今でも話されているという、カルナータカ州シモーガー県のマットゥール村へ行ったが、やはりシモーガー県は他の地域と比べてサンスクリット語話者の人口比がほんの少しだけ高く、0.02%となっている。インドで最もサンスクリット語話者の人口比がは、イムラーン・ハーシュミー、ディノ・モレア、ウディター・ゴースワーミー、ターラー・シャルマーなど。

Aksar
 写真家でプレイボーイのリッキー(イムラーン・ハーシュミー)はある日、旧知の女性スィーナー(ウディター・ゴースワーミー)から呼び出される。スィーナーは、リッキーが親友のニシャー(ターラー・シャルマー)を遊び道具にしたことに怒り、リッキーの高価なカメラを破壊する。【写真は、イムラーン・ハーシュミーとウディター・ゴースワーミー】

 それから3年後、リッキーが個展を開くと、そこに1人の男が現れ、全ての写真を300万ルピーで買い取ると申し出る。その男はラージ」を見た。題名の直接の意味は、テニスなどの男女混合ダブルスのことを指すが、その裏に隠されたテーマは倦怠期の夫婦のスワッピングである。監督はラジャト・カプール。キャストは、ラジャト・カプール、ランヴィール・シャウリー、コーンコナー・セーンシャルマー、コーエル・プリー、ナスィールッディーン・シャー、サウラブ・シュクラなど。

Mixed Doubles
 スニール(ランヴィール・シャウリー)とマールティー(コーンコナー・セーンシャルマー)は幸せな中産階級の家庭を築いていた。ところが最近、スニールは倦怠期になっており、毎晩妻にいろいろ言い訳をしては逃げ回っていた。ある日、米国に移住した友人がやって来て、スニールにスワッピングのことを教える。スニールは興味を示し、スワッピングを試すことに決める。【写真は、ランヴィール・ショーレーとコーンコナー・セーンシャルマー】

 スニールはスワッピングの広告に出ていた連絡先に連絡をし、ヴィノード(ラジャト・カプール)に出会う。スニールはヴィノードと相談し、スワッピングをすることを決める。ところが当然のことながらマールティーはそんなことはその店の親父は偶然アジャイの親戚であり、その後結婚式でも出会った。すごい狭い社会である。


ジャムイーの市場

 3時半頃に出発すると言われていたのでずっとホテルで待っていたのだがいつまで経っても出発する気配がなかった。その間、インド人たちは酒を買って来て飲んでいた。通常、インドの結婚式では酒類は出ない。よって、参列者たちは自分で酒を飲んで景気をつけてから結婚式会場
上段はプレームチャンドの家の近所の一角
おそらくカーヤストなどの上層階級の住宅街
ある家の壁に「プレーマーラヤ(愛の家)」とか
「ラムヒー・プレームチャンドプリー(プレームチャンド村)」という表札を発見
中段右は州政府が工事を始めたが途中で頓挫してしまったという貯水湖
今では子供たちのクリケット場になっていた
下段左はカッチャー・マカーン住んでいるらしく、その真偽を確かめたかったのだが、確かにガート沿いの窮屈な町並みとは全く違った邸宅街の1軒屋の1階に住んでいた。町の名前はグルダーム・コロニーと言うようだ。デリーのGK1くらいのレベルの住宅街という感じがした。


グルダーム・コロニー

 グルダーム・コロニーから再びガート方面へ歩いていると、面白い寺院を見つけた。「ヤッターマン」などのタイムポカン・シリーズに出て来るようなシャレコウベが門に飾られた変な寺院である。門には「アゴール・ピート、バーバー・キーナーラーム・スタル、クリーン・クンド」と書かれていた。どうやらアゴール派という宗教の寺院のようだ。面白そうだったので中に入ってみた。内部は写真撮ーキヤー、マッリカー・シェーラーワト、スニール・シェッティー、アヌパム・ケール、アーフターブ・シヴダーサーニー、ラージパール・ヤーダヴ、ボーマン・イーラーニー、グルシャン・グローヴァーなど。

Shaadi Se Pehle
 アーシーシュ(アクシャイ・カンナー)は、恋人のラーニー(アーイシャー・ターキヤー)と結婚するためにキャリアアップに励み、大物CM監督にのし上がった。ラーニーの親や叔父(アヌパム・ケール)も結婚を承諾し、めでたくアーシーシュとラーニーの婚約式が行われた。ところがその次の日、アーシーシュは医者(ボーマン・イーラーニー)の言葉を勘違いし、癌で余命1年と思い込む。アーシーシュはラーニーを結婚早々未亡人にしたくなかった。だが、ラーニーに真実を告げたら、彼女は意地でも結婚すると言い張るだろう。そこで考え抜いた末、悪い男を演じてラーニーに嫌われるようにし、結婚をキャンセルさせる作戦を取る。【写真は楽はヒメーシュ・レーシャミヤー。キャストは、ウルミラー・マートーンドカル、アシュミト・パテール、ナスィールッディーン・シャー、ディンプル・カパーリヤー、ラージ・バッバル、アーカーシュ・クラーナーなど。

Banaras
 バナーラスの裕福なブラーフマンの家庭に生まれたシュエーターンバリー(ウルミラー・マートーンドカル)は、幼少の頃から音楽の才能を開花させていたが、現在では音楽の道から離れ、バナーラス・ヒンドゥー大学(BHU)で物理を専攻していた。一方、掃き掃除人のおばさんに拾われた捨て子のソーハム(アシュミト・パテール)は、バナーラスのガートに住むバーバージー(ナスィールッディーン・シャー)に可愛がられて育った。ソーハムも音楽の才能があり、やがてBHUで音楽の先生になる。ソーハムとシュエーターンバリーは、いつしか恋に落ちる。ソーハムはシュエーターンバリーへの恋に落ちていくと同時に、不思議な力に目覚めていく。【写真は、アシュミト・パテール(左)とウルミル・カプール、ビパーシャー・バス、バーギシャシュリー、ヘレン、ヴィヴェーク・シャウクなど。

Humko Deewana Kar Gaye
 自動車会社に勤めるアーディティヤ・マロートラー(アクシャイ・クマール)は、ファッション・デザイナーのソニア(ビパーシャー・バス)と婚約した。アーディティヤはカナダへ転勤となり、ソニアはファッション・ショーのためにパリへ行った。カナダへ渡ったアーディティヤは、そこでインド人女性ジヤー・ヤシュワルダン(カトリーナ・カイフ)と何度も偶然の出会いを繰り返す内に恋に落ちる。だが、ジヤーにもカラン・オベロイ(アニル・カプール)という婚約者がいた。しかもカランはインドを代表する大富豪で、目的のためなら手段を選ばない危険な男だった。【写真は、カトリーナ・カイフ(左)とアクシャイ・クマール(右)】

 アーディティヤは、仕事第一のソニアに不満を持っていた一方、ジヤーも結婚と買収を大して区別していないカランの態度に疑問を感じていた。アーディティヤを信頼し、心の中で彼との結婚を夢見ていたジヤーはある日、アーディティヤに自分の過去のトラウマを打ち明け、厳格な父親のせいで子供の頃から家族の幸せを感じたことがないこと、しかも母親を自殺に追いやったのは父親の冷たい態度だと信じていることを伝える。アーディティヤはジヤー機会を与えられると同時に、B級映画プロデューサーPNアローラーに見初められ、彼の映画に出るようになる(「Hoor-e-Arab」(1955年)、「Neelofar」(1958年)、「Khazanchi」(1958年)など)。だが、ヘレンのブレイクのきっかけになったのは、「Howrah Bridge」(1958年)の印象的なアイテムナンバー「Mera Naam Chin Chin Choo」であった。この曲でヘレンは、カルカッタのバーで働く「チン・チン・チュー」という中国娘になって踊っている。

Mera Naam Chin Chin Choo
Chin Chin Choo Baba Chin Chin Cンは何でもありのヘレン・スタイルの踊りを確立していったと言っていいだろう。ちなみに、ヘレンの踊りの才能を示すものに、踊りを踊れるヒロイン女優とのダンス合戦がある。ヘレンは、当時ベストダンサーとして知られていたヴィジャヤンティマーラー、ワヒーダー・レヘマーンと直接踊りで対決している。例えば「Prince」(1969年)では、ヴィジャヤンティマーラーがバラタナーティヤム、カッタク、オリッスィーを踊るのに対し、ヘレンはモダンダンス、フラメンコ、ベリーダンスを踊って対決する。ヘレンは「Dr Vidya」(1962年)でもヴィジャヤンティマーラーとダンス合戦をしている他、「Baazi」(1968年)ではワヒーダー・レヘマーンと踊りの腕を競い合っている。


着物を着たヘレン

 現在でもその傾向に大した変化はないが、当時の映画女優は「伝統的、保守的、かつ従順で、サーリーを着て、ロングヘアで、国と家族と子供を思いやるよい女性」を演じるヒロイン女優と、「洋服を着て、ボブカットやワイルドな髪型をして、セクシーな踊りを踊り、タバコを吸い、酒を飲み、自分の欲望をさらけ
yare Mohan

 今日は新作ヒンディー語映画「Pyare Mohan」をPVRプリヤーで見た。題名は、主人公2人の名前。監督は「Masti」(2004年)のインドラ・クマール、音楽はアヌ・マリク。キャストは、ファルディーン・カーン、ヴィヴェーク・アーナンド・オベロイ、イーシャー・デーオール、アムリター・ラーオ、ボーマン・イーラーニーなど。

Pyare Mohan
 ピャーレー(ファルディーン・カーン)とモーハン(ヴィヴェーク・アーナンド・オベロイ)はスタントマンの仕事をしていたが、撮影中の事故で、ピャーレーは視覚を失い、モーハンは聴覚を失った。2人はグリーティングカード店を開き、仲良く暮らしていた。ある日、ピャーレーとモーハンは、デリーからムンバイーへやって来たミュージシャンの卵、プリーティ(イーシャー・デーオール)とプリヤー(アムリター・ラーオ)の姉妹と出会う。たちまちの内にピャーレーはプリーティに、モーハンはプリヤーに恋をする。【写真は左上から時計回りに、ファルディーン・カーン、ヴィヴェーク・アーナンド・オベロイ、イーシャー・デーオール、アムリター・ラーオ】

 ピャーレーとモーハンの活躍により、プリーティとプリヤーのムンバイーでの最初のショーは大成功する。おかげで、バンコクで州である。

 ルールキーから30kmさらに北東へ進むと、「デーヴブーミ(神の地)」の始まり、ハリドワール(神の門)である。ハリドワールは母なるガンガー(ガンジス河)の西岸にあるヒンドゥー教の聖地である。ハリドワールには何度か来ているが、今まで滞在してじっくり見て回ったことはない。時計を見ると12時半、もう昼時になっていたので、ハリドワールで昼食を食べることにした。しかし、誤って狭い市場内を通り抜ける道を選んでしまい、人込みをかきわけつつガンガー西岸の道を進む羽目になってしまった。そのごった返した市場を抜けた先が、ハリドワールの中心、ハリ・キ・パウリー(神の足)ガートの広場であった。インドで最も有名な沐浴場のひとつだが、何だか沐浴している人よりも水浴びしている人の方が多かった。ハリドワールの標高はまだ250mほど。デリーと変わらない暑さである。


ハリ・キ・パウリー・ガート

 せっかくなので、ハリ・キ・パウリー・ガート近く、バラー・バーザールにある有名なレストラン、チョーティーワーラーで昼食を食べることにした。チョーティーワーラーはハリドワール、リシケーシュ、、その他の都市などでよく見かけるレる吊り橋、ラクシュマン・ジューラーである。ラクシュマン・ジューラーの近くの駐車場にバイクを止め、ラクシュマン・ジューラーまで歩いて行った。ロンリープラネットには、ラクシュマン・ジューラーは「歩行者専用」と書かれていたので、てっきりバイクでは渡れないと思って駐車場にバイクを置いて来たのだが・・・余裕でバイクが橋を渡っていた!だが、ゆっくり散歩したい気分だったのでそのままラクシュマン・ジューラーを渡り、ガンガー東岸を散歩した。


ラクシュマン・ジューラー

 以前訪れたときのリシケーシュがどんな感じだったかは正直なところあまり覚えていないのだが、今回リシケーシュを散歩してみて感じたのは、インド人観光客――巡礼客ではなく――の圧倒的多さであった。おそらく巡礼も兼ねてリシケーシュに来ているのだろうが、その格好からは主な目的が避暑とレジャーであることが一目瞭然であった。観光地化も一段と進んでいたように感全ての神々が住むのである。ダルマラージを祀る寺院は今のところヒマーチャル・プラデーシュ州のバルマウルとこのリシケーシュでしか見たことがないが、インドの神様の中でダルマラージが最も面白いと思っている。



 本日の走行距離251.4km。

4月24日(月) ゴーヴィンドガート

 今日は国道58号線に沿って、山の奥地へ入っていく。目的地はジョーシーマトかゴーヴィンドガート。ジョーシーマトは、リシケーシュから約250kmの地点にある比較的大きな町であり、今日は少なくともここまで辿り着きたいと考えていた。もし時間があったら、ジョーシーマトからさらに約20km行ったところにあるゴーヴィンドガートを目指したい。ゴーヴィンドガートは、花の谷ラージ・プラヤーグと言う。これら国道58号線上のパンチプラヤーグの中で、特にデーヴァプラヤーグを一度見てみたいと思っていた。リシケーシュから50kmほどの地点にあるデーヴァプラヤーグは、ヴィヴェーク・オベロイ主演の「Kisna」(2005年)に出てきて、強く印象に残っていたのだ。バーギーラティー河とアラクナンダー河に挟まれた切り立った崖に家屋がへばりつくように立ち並んでいる光景は非常に独特であった。デーヴァプラヤーグには10時頃到着。映画で見たそのままの光景がそこに広がっていた。だが、今日は先を急ぐ必要があるので、写真を撮っただけで素通りした。デーヴァプラヤーグには帰りに立ち寄る予定である。


デーヴァプラヤーグのサンガム(河の合流点)

 デーヴァプラヤーグの次にある大きな町はシュリーナガル。リシケーシュから105kmの地点にあるこの町は、ジャンムー&カシュミール州の州都シュリーナガルとは別の町である。こちらは、デーヴァプラヤーグとは違って河岸のなダー河の合流点カルナプラヤーグがある。カルナプラヤーグに着いたときには12時45分頃になっていた。


ルドラプラヤーグ遠景

 カルナプラヤーグを越えてしばらく行ったところに、ランガースーという小さな町があった。昼時になっていたので、その道端の食堂で昼食を取ることにした。ダール(豆カレー)、サブジー(野菜カレー)、ローティー(インド式パン)、チャーワル(ご飯)を食べてしばらく休んだ。ドラプラヤーグの間、チャモーリー周辺、ジョーシーマト周辺などにも悪路が多かった。だが、特に何のトラブルもなく移動することができて幸いだった。


国道58号線の様子
きれいな道もあれば、危険な土砂崩れ多発地帯もあり、
いろは坂のようなジグザグ坂道もあった
途中の風景はとても美しく、木々に黄、桃、紫色の花が咲いていた

 国道58号線から谷底を流れる河へ向かって降りていった場所にある標高1828mのゴーヴィンドガートは、花の谷やヘームクンド(花の谷の近くにあるスィク教の巡礼地)がシーズンを迎える6月~8月にのみ活気付く小さな村で、今はゴーストタウンのようになっていた。村の中心地の市場にはゲストハウスが立ち並んでいるのだが、全てシャッターが下ろされていた。しかも、昨年ラト・ゲストハウスという宿を紹介してくれた。このゲストハウスも本当は営業中ではなかったが、主のウぺーンドラ・メヘターは特別に部屋を開けてくれた。料金は150ルピーでいいと言われた。シーズン中はもっと取っているみたいだ。


ゴーヴィンドガート
赤い屋根の建物は全てグルドワーラー(左上、右下)
市場にあるホテルは全て閉店中(右上)
昨年の土砂崩れ現場、復旧作業中(左下)

 地元の人々の話では、花の谷観光の拠点となるガーンガリヤーはまだシ列も出発のときを迎えていた。途中まではこの馬たちをペースメーカーにして歩いて行った。山登りはどちらかというと上る方が得意なので、ガンガーも驚く驚異的ペースで進んだ。


荷物を運ぶ馬たち

 先にも述べたように、ゴーヴィンドガートからガーンガリヤーまでは13kmの道のり。その途中にはいくつか村や売店があるが、まだシーズンではないので多くの村は無人で、売店もほぼ全て閉まっていた。売店は、ゴーヴィンドガートから2kmほどの地点と、9kmほどの地点の2ヶ所しか開いておらず、チャーイ、ビスケット、キャンディーが手に入るぐらいだった。だが、このチャーイがいかに嬉しいことか。山道を歩いていると、「ああ、コーラを飲みたい」「フルーグの英語表記は「Devaprayag」「Devprayag」「Deoprayag」の三種類があったが、デーヴァプラヤーグで統一することにした。国道58号線のデーヴァプラヤーグの入り口には、両側に食堂や売店が数件立ち並んでいるが、小規模なもので、ボーッとしているとそのまま通り過ぎてしまいそうだ。そのちょっとした市場の間に、下へ下っていくバイクでしか通れないような細い路地があって、そこを下って橋を渡れば、デーヴァプラヤーグのサンガム(河の合流点)はすぐそこである。バイクで橋を渡る勇気がなかったので、僕は橋の手前でバイクを停め、歩いてサンガムまで行った。


デーヴァプラヤーグに架かる橋

 一般に、ガンガーの源はガンゴートリーと考えられている。ガンゴートリーはリシケーシュから約250kmさらにヒマーラヤの奥地へ行った場所にあり、ウッタラーンチャル州の4聖地(チャールダーム)のひとつである。だが、実際のガンガーの源はガンゴートリーからさらに18kmトレッキングした場所にあるガウムク氷河と言われており、ここも巡礼地のひとつとなっている。しかしながら、ガウムクやガンゴートリーから流れ出る河は、地元ではガンガーではなくバーギーラティー河と呼ばれている。このバーギーラティー河がアラクナンダー河と合流するこのデーヴァプラヤーグから、ガンガーはガンガーと呼ばれ始める。よって、ガンガーの源はこのデーヴァプラヤーグと考えることもできるのだ。とは言え、デーヴァプラヤーグはとても閑散とした小さな巡礼地で、バックパッカーの聖地と化したリシケーシュやヴァーラーナスィーなどのガンガー沿いの都市と比べると、完全にローカルな聖地であった。デーヴァプラヤーグのサンガムには小さな沐浴場があり、インド人が沐浴したり足を水に付けたりしていた。デーヴァプラヤーグには、シヴァ寺院やラグナート(ラーム)寺院もあり、巡礼地となっている。


デーヴァプラヤーグ
アラクナンダー河(緑色)とバーギーラティー河(青色)の合流点
写真でも、河の色が違うのが分かる
ここからインドで最も聖なる河、ガンガーが始まる

 デーヴァプラヤーグを3時半頃に出て、一路70km先にあるリシケーシュを目指した。デーヴァプラヤーグを越えてしばらくすると道は悪くなるが、ラフティングの基地が点在する辺りまで来れば、またきれいな舗装道になる。リシケーシュには午後5時半頃に到着した。にコツコツと日記を書いた。昼時にカリズマに乗ってリシケーシュの町に繰り出した。

 今日の主な成果と言えば、リシケーシュのガンガーに架かる2つの吊り橋、ラクシュマン・ジューラーとラーム・ジューラー(シヴァーナンド・ジューラー)をカリズマで渡ったことであろう。この前はこれらの橋をバイクで渡れることを知らずに、律儀にもその手前にある駐車場にバイクを停めてリシケーシュ観光をしてしまった。だが、今回は堂々とラクシュマン・ジューラーとラーム・ジューラーをバイクで渡った。だが、おそらく本当はこれらの橋は歩行者専用でバイクは渡ってはいけないと思う。インドのことなので黙認されているのだろう。通行の邪魔になるとは思いつつも、途中でバイクから降りて記念撮影もしてみた。


ラクシュマン・ジューラー(左)とラーム・ジューラー(右)

 ところで、リシケーシュのイタリア料理はけっこうレベルが高いと思う。インドでバックパッカーの溜まり場となっている町の旅行者向けレストランでは、定番であるインド料理とインド風中華料理の他、イタリア料理とイスラエル料理が食べられることが多い。最近はメキシコ料理もホットだ。韓国人観光客の増加を反映してか韓国料理を出す食堂が出てきたり、日本人観光客が昔から多い観光地は日本料理らしきものを出すところもあったりするが(デリーのパハール・支払いは昨夜済ませてあったので、5時20分頃にバイクに乗ってホテルを出た。まだシャツ1枚だと寒いくらいだ。

 早朝なので道は空いているかと思ったが、夜行バスやトラックの通行量がけっこう多かった。30分ほどでハリドワールに到着。今回はハリドワールの町中は通らず、デリー方面に直接通じているガンガー東岸の道を選んだ。ハリ・キ・パウリーを見渡せる橋の上で振り返って見ると、日が昇ったところであった。


ハリドワールの日の出

 ハリドワールからルールキーへ、ルールキーからムザッファルナガルへ、来た道を戻り、一路デリーを目指した。特にムザッファルナガルのバイパスは、車通りが少なくて道もきれいだったので、走っていてとても気持ちよかった。ムザッファルナガルを越えたところで、朝食休憩を取ることにした。いくつか選択肢があったが、リライアンス系列のA1プラザで休むことにした。A1プラザは、最近インドの
 題名は、「スパイス使い」とでも訳そうか。米国在住ベンガル人女流作家チトラー・バナルジー・ディヴァーカルニー原作の同名小説をもとに作られた映画である。プロデューサーはグリンダル・チャッダー、監督はグリンダル・チャッダーの夫のポール・マエダ・バージェス。キャストは、アイシュワリヤー・ラーイ、ディラン・マクダーモット、アヌパム・ケールなど。

The Mistress of Spices
 サンフランシスコに「スパイス・バーザール」という名の店を開くインド人女性ティロー(アイシュワリヤー・ラーイ)は、客の抱えている問題を見抜き、スパイスの力でそれを癒す能力を持っていた。しかし、ティローは3つのルールを守らなければならなかった。1)スパイスの力を自分の欲望のために使わないこと、2)他人の肌に触れないこと、3)店から外に出ないこと。これらのルールを破ったとき、スパイスは罰を下すと師匠に警告されていた。ティローはそれらのルールを守りつつ、店にやって来る人々の相談に乗っていた。【写真は、アイシュワリヤー・ラーイ】も日持ちがするために、海外輸出用として適しているだけだ。アルフォンソだけでマンゴーの道を閉ざしてしまうのは、徒然草に出てくる「仁和寺にある法師」のようなものだと言える。では、どのマンゴーが一番おいしいのか。それは、インド人1人1人が一家言を持っているので、ここで不用意に書くことはできない。


アルフォンソ

 それでも、僕の周りのマンゴー通には、西ベンガル州のマールダー(イングリッシュ・バーザール)で取れるファジリー・マンゴーをインド最高に推す声が強い。僕もその声に押されてマールダーまでわざわざ行ったことがあったが、まだ収穫前だったという苦い思い出がある。その後、何とか食べる機会に恵まれた。マールダー・マンゴーをインド料理に例えるならば、みんなの大好物「アールー・ゴービー(ジャガイモとカリフラワーのカレー)」とかその辺りか。アルフォンソがひとつでお腹いっぱいになるのに対し、マールダーは何個でも食べたくなる味である。


マールダーのファジリー・マンゴー(収穫前)

 ところで、ウッタル・プラデーシュ州の州都ラクナウーの近くにも、「マンゴー・キャピタル」を自称するマンゴーで有名な場所がある。ラクナウーの有名な観光地バラー・イマームバーラーやルーミー・ダルワーザーを越え、市街地から西に約30km行った地点にあるマリーハーバードである。マリーハーバードは、カーコーリーやマールなどと共に、ウッタル・プラデーシュ州の「マンゴーベルト」を構成している。

 マリーハーバード一帯には多くのマンゴー畑が密集しているようだが、その中でも最も有名なマンゴー農園は、カリームッラー・カーンが経営するアブドゥッラー農園である。彼の一族は300年以上も前からマンゴーの商売に関わっているという。その農園の中に樹齢90年の1本のマンゴーの木がある。なんとこのマンゴーの木、1本の木に315種類ものマンゴーが成るのである。カーン氏が10年の歳月をかけて接木していったらしい(そんなことができるとは知らなかった!)。カーン氏が「マンゴーの大学」と呼ぶこの木は、リムカブック(インドのギネスブック)に載っているという。


カリームッラー・カーン

 アブドゥッラー農園のスペシャリティーは、カリームッラー・カーンの父親アブドゥッラー・カーンの名前を冠したアブドゥッラー・パサンド(アブドゥッラーの好物)。このマンゴーは多くのマンゴー・フェスティバルで受賞している。また、カーン氏が「グラス」と呼ぶマンゴーも特殊である。小さい品種のマンゴーだが、このマンゴーはナイフで切って食べたりしない。マンゴーに針で穴を開け、コップの上に置と、果汁が自然にコップに溜まっていくのである。そして全て果汁が出切ったらそれを飲むというわけだ。

 ちなみに、マリーハーバードは、ウルドゥー詩人ジョーシュ・マリーハーバーディー(1898-1982)の生まれ故郷でもある。ジョーシュ・マリーハーバーディーは1955年にパーキスターンに移住したが、彼の生家は今でもマリーハーバードに残っているという。やはり彼の家もマンゴー農園を持っていたようだが、現在ではインド政府の所有物となっている。また、マリーハーバードの近くには、「Junoon」(1978年)、「Kalyug」(1980年)、「Umrao Jaan」(1981年)などのロケ地となった宮殿もいくつか残っているようだ。ラクナウーとマリーハーバードの間にあるカーコーリーは、カバーブ(串焼き肉)で有名な町である。「Rang De Basanti」(2006年)にも「カーコーリー・カバーブ」という言葉が出てきた。

 話をマンゴーに戻そう。北インドで最も有名なマンゴーの品種のひとつにダシャヘリーがある。緑~黄色のマンゴーで、食べた後まで手に残るその強い香りと、濃厚な味で知られている。実はダシャヘリーの原産地と言われるダシャヘリー村も、このマリーハーバードの近くにある。ダシャヘリー村には、樹齢300年のオリジナルのダシャヘリー・マンゴーの木がある。この木は昔からラクナウーのナワーブ(太守)の所有物となっているらしい。かつてナワーブは、この木になる全てのマンゴーを誰にも食べさせないようにするため、木全体を網で覆ってしまったことがあるとか。ナワーブがそこまでこだわるマンゴーなので、さぞや素晴らしい味だろうと舌なめずりをしてしまうが、残念ながら今でもこのオリジナルのダシャヘリーの木になるマンゴーは市販されておらず、王族しか味わうことができないという。ただし、通常のダシャヘリー・マンゴーは6月中旬頃から市場に並び始める。


ダシャヘリー・マンゴー

 ダシャヘリーと双璧をなす北インドのマンゴーの品種にチャウサーがある。やはりマリーハーバードの近くにチャウサーという名の村があり、そこのマンゴーが原産らしい。チャウサーは黄金色をした大型のマンゴーで、7月に市場に出並び始める。その圧倒的な甘さは、未熟なままで食べても十分甘いとまで言われている。


チャウサー・マンゴー

 その他にもインドには各地に有名なマンゴーの品種がある。ウッタル・プラデーシュ州ではサフェーダーやラングラーなども有名であるし、グジャラート州のケーサル、アーンドラ・プラデーシュ州のバンガンパッリ、カルナータカ州のトータープリー、タミル・ナードゥ州のニーラムなども特産品である。どのマンゴーが最もおいしいかは本当に議論の分かれるところだ。やはりインド人は自分の地元のマンゴーを一番だと主張する傾向が強い。だが、マンゴー党の中でこれだけは一致した意見であろう――インドのマンゴーは世界一!

 ところで、日本のマンゴー党に朗報である。「世界一」のインドのマンゴーがもうすぐ日本に輸出されるようになるかもしれない。現在日本はインドからのマンゴー輸入を全面的に禁止している。それは手荷物で持ち帰った際も同様で、もし成田などの税関で荷物の中からマンゴーが見つかると容赦なく没収されてしまう。マンゴーをインドから日本にうまく持ち帰るコツは、マンゴーのひとつひとつをサランラップなどで包んで匂いが外に漏れないようにすることだ。こうしないと空港を警備する「マンゴー犬」に発見されてしまう。だが、もうこんな苦労をしなくてもよくなるかもしれない。そのマンゴー禁輸措置を解除するための手続きが現在着々と進行中だからだ(もしかしてもうゴーサインが出たのか?)。日本に出回っているマンゴーはフィリピン産のものが多いと思うが、一度インド産マンゴーが市場に出回るようになれば、日本にマンゴー革命が起きることは確実であろう。

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アーユルヴェーダで元気になろう!
サフランロード

ルシーは、1年性の草ですが、大きく茂るので、ちょっとした低木のようになる草です。インドでは、どこの家でもベランダに1本くらいはこの木を育てていて、神聖な木としてあがめますし、薬草として、家族の健康にも役立てています。

周囲の空気を浄化し、精神的な霊性も高めるトゥルシーは葉っぱ一枚で充分

佐藤真紀子

朝、トゥルシーの葉を一枚たべると風邪をひかない、病気をしない、というので、ハチミツをつけたトゥルシーの葉を子供の口の中に押し込んでやるのはお父さんの役目。抗菌作用が強く、発汗、解毒作用をはじめとして、長いリストが出来るほど、多くの薬効があるトゥルシーは、生のままで食べる、絞り汁を飲むのが一番効果的。長く煎じると香りや薬効が薄れてしまうので、お茶にする時にも、コップの中にいれた葉っぱや、葉の粉にお湯を注ぐ程度にしていただきます。これ一本あれば、周囲の空気を浄化し、精神的な霊性も高めるということで、どこの家でも大事に鉢植えが育てられています。(注:ただしラットによる実験では生殖能力が落ちるという結果も。Indian J Physiol Pharmacol. 1992Apr;36(2):109-11.大量に食べ過ぎるとピッタをあげてしまうので、1枚で充分。神話では、トゥルシーの葉っぱ1枚で、クリュシナ神の重さと釣り合うほどだと書かれているので,とりすぎないこと)

トゥルシーTulasi (Ocimum sanctum Linn.) 和名カミメボウキ

牛糞で作った祭壇に祀られているトウルシーの木。根元をクムクムで赤 く塗り、毎日灯明や線香が捧げられ、礼拝の対象になっている。

神様と結婚させてから、人間の結婚シーズンをはじめる。そして、ガラスの腕輪…

佐藤真紀子

特に、クリュシナ神が大好きな木なので、クリュシナ神の化身であるヴイシュヌ神の妻ラクシュミーに見立てて花嫁衣装をつけさせ、神様と結婚させてから、人間の結婚シーズンをはじめるのです。

木の根元には、既婚者の印である赤いクムクム(色粉)でお化粧し、綿で作った軽い首飾りをかけ、木に負担にならない程度の、軽くて小さなガラスのバングル(腕輪)をつけさせます。

腕輪屋さんに行くと、こんなに小さな腕輪は、いったい誰がするんだろう?というくらい小さな軽い腕輪が隅の方で売られていますが、それはこの木のための腕輪なのです。

その昔、大家族で一緒に住んでいたインドでは、ひとつ屋根の下に、軽く20~30人、多ければ100人近い人達が一緒に暮らしていました。そんな中で新婚の夫と二人だけで過ごすのは至難の業。そこで、花嫁は家事をしながら、他の人にはそれと気づかれないように、ガラスの腕輪をシャラシャラと鳴らして、二人だけにわかる秘密の合図を送り、こっそり裏の井戸べりで逢瀬を楽しんだりしたわけです。だから、花嫁に腕輪はつきもの。

トゥルシーの木が風にゆれて、ガラスのバングルがシャラシャラ音をたてています。愛するクリュシナをよんでいるのかな....

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