太陽は銀河系の中では主系列星の一つで、スペクトル型はG2V(金色)である。
ナイチンゲール Florence Nightingale
(1820-1910)
情熱の統計家ナイチンゲール伝
フローレンス・ナイチンゲール(Florence
Nightingale, 1820-1910)(別名 Lady with a
Lamp)イギリスの看護婦、女性の職業としての看護専門職の創立者。
ひたすら、やさしい「母性愛」と「忍従」と「奉仕」の社会的ステレオタイプを押し付けられる看護従事者のために、むしろ「統計データ」を理論的武器に髪を振り乱し、権威主義的軍医たちに対し戦いを挑み、ついに一つの専門職の確立をかちとった元「お嬢様」の苦闘の成果を紹介しよう。彼女が数学・統計好きだったことを覚えて下さい。
両親の滞在地イタリアのフローレンスに生まれ、父からギリシャ、ローマ、フランス、ドイツ、イタリアの各国語・歴史・哲学・数学等の教育を受ける。このリベラルアーツ教育が後の偉業の礎となる。17
歳で宗教的召命を受け、後にこれが看護と知る、当時のヨーロッパでは看護はカトリックのシスターたちが中世以来の修道会組織のもとに献身として行っていたもので、看護婦という職業は一部の病院を除き有名無実であった。
ナイチンゲールの名を歴史に残したのは、クリミア戦争(1853-56)勃発の翌年、黒海のトルコ側スクタリの英国陸軍病院での彼女の目をみはる活躍である。彼女が最初に見たスクタリの病院は収容過剰で混乱し、設備・物品は不足していた。ベッドは不潔でネズミとシラミが跳梁し、飲料水の供給は一日一人当たり
1 パイント(0.57l)と極度に低かった。病院とはいえないこの病院での死亡率は 40
%にも達し、しかもその何通りもある統計はみな食い違っていた。
両親との旅行日記を時間と道のりの数字で埋めるような彼女は、病院の兵士たちの生活と衛生の改革を手のつけられるところから進める一方で、すぐに精力的なデータ収集にとりかかった。現代と違い統計学はケトレーの時代、まだ統計理論とてなく、独自の分析を武器に当局や現場を相手に改善計画の交渉が始まった。医者はおしなべて敵対的だったが、結局彼女の提案に納得し、従った。彼女と部下の看護婦一行が病院に入って
6 ヶ月後死亡率は 2 %と目覚しく改善された。ときにナイチンゲールは 34
歳、分析は実際は帰国後に追試とともに行われたのがほとんどであった。
帰
国後、収集分析した統計資料により
1,000
ページにも及ぶ「英国陸軍の健康、能率および病院管理に関する諸問題についての覚え書き」を書き上げ、次いで史上最初の看護についての専門書「看護覚え書き」を著し、1880
年はじめて近代的看護専門学校(Training School for
Nurses)(通称ナイチンゲール・スクール)を設立、これを伝え聞いたビクトリア女王も彼女を引見した。この情熱こそ現代イギリスの有名な伝記作家リットン・ストレイチーのいう「輝けるビクトリア人」(Eminent
Victorians)の資質であったのだろう。これは統計的な見識は、人の知性と能力にいっそうの輝きを加えるものである、ということの立派な実例である。
歴史観と人物論
松本清張 vs. 司馬遼太郎
「関が原」における家康と三成の評価
「重役どもをくどく有能秘書課長」
1600
年(慶長 5
年)の天下分け目の「関が原の戦い」が家康の東軍の勝利に帰した直接の原因は、九州の大名小早川秀秋の東軍への寝返りであった。となれば、三成に思いを寄せる者には、秀秋の裏切は勝てる戦いを失わせた憎むべき業である。もちろん、秀秋は「武士」の風上にもおけない恥ずべき輩として歴史に残ろう。このように上からかぶせていくのが、司馬遼太郎の基本発想である。
実際のところ、司馬は『関ヶ原』(下)でのっけから秀秋を容貌醜く貧相な「うつけ者」(おろか者、のろま)に描き、「叛応」の段では、作中人物に「金吾なるもの(秀秋)は、千載の醜名を残したぞ。裏切り者を倒せ」と言わせている。司馬といえども、秀秋が士(武士)ではなく将(武将)である(したがって、裏切りも戦略の一として許される)ことを知らぬわけはないが、結局この考え方を一顧だにしない。むしろ「醜名」が司馬がその秀秋に与えている一貫した評価をあらわしている点が、まさに司馬の主意であろう。武士道(司馬は徳義といっている)が後世徳川期の道徳であることは司馬も承知の上である。となると、この評価がことさらなるものであることは疑いない。
松本清張は「武士道」はそもそも関係ないという。実際、どちらにつくかは秀秋個人の徳義で決まるものではなかった。そこに一族、一国の存亡の運命が切実にかかっているのだから、当然、利害・得失、見通しで判断せねばならない。三成に賭けていいのか否か。それに値しないなら、秀秋の判断のおもむくところはあらためていうまでもない。
以下は構成対談である。
司馬
三成は、やっぱり勝てると思っていましたよ。圧倒的な勢いで家康をやっつけることができるということを、合戦のおそらく十日ぐらい前までは確信していたでしょうね。松本
関が原の事前の形勢は、家康の側からいえば、これは絶対わが方の勝ちであると確信していた。関が原の合戦というのは、ある意味では家康が挑発(*)したんで、それくらいにちゃんと戦略も作戦計画もできているんですから、これはもう疑いもなく家康は東軍の勝利を確信していた。しかもそれは科学的な確信に近かったと思いますね。司馬「19
万 4
千石の三成は、これはつまり銀行信用のない存在でしたでしょう。それでよくまああそこまで人をかき集めてやったと思うんですけれども・・・」松本
「三成の地位が秘書課長だという司馬君のたとえは適切だと思うんです。しかし有能な秘書課長がみんなをくどいて、とくに重役どもをくどいて、いっしょにやってくださいといくら言ったところで、これは彼の思うとおりには立ち上がらないと思う」
NHKブックス 半藤一利 (2002)『清張さんと司馬さん』NHK出版
さて、実際に歴史を動かしたのは武士道か、それとも利害・得失、我欲か。どう歴史を見るのか。人は何に動かされるのか。皆さん、どう思われますか?
明智光秀とその娘
細川ガラシャ(細川玉)
1563-1600(享年38歳)
ある女性キリシタンの運命
史実の記述に若干の誤りがありましたので訂正します(2006.6)
「細川ガラシャ」という片かな人名は歴史上の日本人の人名としてはめずらしく、しかも女性ともなればなおさらである。細川ガラシャ(1563-1600)は、戦国末期の武将細川忠興夫人のことであるが、むしろあの「本能寺の変」で信長に反逆した明智光秀の三女といえばわかりやすい。日本最初の女性クリスチャン(キリシタン)の一人とし
て知られ、「ガラシャ」は彼女のカトリックの洗礼名である。本名は「細川玉」と
いった。信念と信仰を以て武人の妻の運命に殉じた聡明で明哲の誉れ高い女性として
後生に名を残す。今日では三浦綾子による評伝文学がよく知られる。またかっての上智大学の学長ヘルマン・ホイベルス神父による戯曲「細川ガラシャ夫人」(1939)もある。
文人武将であった父の血を引いてか幼少時から多感な女性であり、幸せな少女時代を送るが、天下の政治情勢は彼女に過酷な運命を課した。夫細川忠興、その父細川藤孝(幽斉)は父光秀ともともと親しい間柄であり、その縁あって信長が二人の間を取り持ったのであるが、その信長に対し父光秀が謀叛を起こしたのである
(本能寺の変、1582年)。運命は暗転する。忠興、幽斉が反光秀となってより、夫とその父が自分の父と戦うことになり、父は敗死する。ふつうなら、玉には身の危険が迫ったはずであるが、忠興が彼女を隠し信長のあと天下をとった秀吉も玉を許す。そして玉はここ大阪で夫と再会する。が、夫はすでに昔どおりの夫でなく、周囲の状況も激変していた。そのなかで、玉はカトリックの洗礼を受ける。1587年のことである。玉はいっそう美しく強くなった。
しかし、運命は再び変転する。秀吉の死後、関ヶ原の戦いを前にして西軍の総帥石田三成は東軍に投じた細川忠興をかく乱するため、ガラシャを人質にとる。だが、玉はあらかじめ覚悟し心で準備していたように、包囲した三成軍を前にして、武人の妻としてキリシタンとして、燃えさかる炎の中に自らの意志により死を選ぶ。最後まで外なる力に屈しなかったのである。時に慶長8年(1600)年7月17日、享年38歳。
散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ
一点付け加えるならば、もともとキリスト教は自殺を禁じている。ガラシャはかって忠興から命じられ、自らそう決めていたように、家臣の刃を進んで受けたのであった。
現在、大阪市内(中央区)には、玉の遺徳を忍ぶ徳富蘇峰による碑文がある。
ここで思い起こされることは、ガラシャも、父光秀も、そして信長もまさに運命の人であったということである。ガラシャの生涯はさておき、父光秀について、光秀研究者であった高柳光寿は『明智光秀』で次のように述べる;
光秀は小身の出身 秀吉は足軽木下弥右衛門の子であるという。しかし父の呼名は弥右衛門といったかも知れないが、この弥右衛門が木下という名字を持っていたかどうかは疑問であると私は思っている。しかし光秀の父は明智という名字は持っていたらしい。すなわち彼はともかくも武士の子であって、秀吉よりは家柄はよかったことは事実であろう。けれども父の名は分明でない。そういう家柄の出身である。そういえば荒木村重だって滝川一益だって名もない家の出身である。このようなことは何もひとり信長の陣営だけではない。秀吉の陣営だって同様である。福島正則にしても加藤清正にしても、いずれもみなその父の名さえわかってはいない。それを何とか書いているのは後から体裁を整えるために作ったものに過ぎない。況んや先祖は誰から出ているなどとある系図が信用の限りでないことはいうまでもない。
光秀の時代 光秀の生きた時代は氏がなくても大名になれた時代である。天下が取れた時代である。世の中が大きく動いていた。荘園制が崩壊して大名領制が成立しつつあったのである。信長はその冷徹な合理主義と、稀に見る強靭な意志と、豊富な活動力とによって、その武力を巧みにしかも力強く使用して日本国を統一し、社会革命を成就させようとしたのであった。しかしながらこの為事は秀吉によって引き継がれ、秀吉の手によって新日本、近代国家の一歩手前の近世国家日本、それは自然発生的な中世国家ではなく、なお幼稚ではあるが有機的な組織を持つ近世日本、国家らしい国家を出現させたのであった。
光秀は合理主義者 光秀はこの秀吉の為事をしようとしたものに外ならない。まことに彼は秀吉に敗れてこの為事を秀吉に譲ったものであった。彼の性格は保守的であったようにいわれている。しかし私はそう思っていない。保守的に見られるのはその政権樹立に当たって保守的な勢力を利用しようとした、それだけに過ぎないと信じている。彼が牢籠の身から信長に抜擢され重用されたのは、彼が信長と同じような合理主義者であり、信長と同じような目的を持っていたからであると思われる。彼が信長を斃したのは信長に代って日本国の主人となり、自分で日本国の革命、それは普通の概念による革命ということではなく、自然的推移による歴史学的意味における革命である。それを行おうとしたためである。彼の行ったところは信長の革命を妨げようとしたものではない。
新日本建設の助力者 彼には革命などという意識はなかったであろう。それは信長にしても同様である。こうして彼が信長の部下として行った為事は信長の為事の一部分であり、彼を新日本建設の妨害者と見るものがあるとすれば、それは誤った観察であるであろう。彼は新日本建設の助力者であっても、決してそれの妨害者ではなかった筈である。ただ彼は日本の社会革命の主人公である信長に代ろうとして敗れただけである。主殺しなどという問題で彼を論ずることは江戸時代の儒者の為事で十分である。
悲しき一生 光秀の伝記を書き了ってここに感慨なきを得ない一事
株式会社タワラのブログ記事(16ページ目) - キャリコネ
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捕虜となるまで
真珠湾 とアッツ 捕虜第一号 アッツ島 玉砕のあと ガダルカナル とタワラ ガダルカナル の死闘 ガ島よりの撤退 タワラの玉砕と7人の生還者
マリアナ諸島 の喪失 サイパン の玉砕 サイパン 在留邦人 ... 続きを見る。 151件~160件を表示(全307件 ...
第3章 タワラ島 - 日本國戦死者遺体収容団|大東亜戦争で無念にも ...
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タワラ守備隊長の柴崎恵次海軍少将は、「アメリカ軍が百万の軍隊でかかってきても一〇〇年かかってもベティオ島を占領することはできない」と豪語したと ... その防空壕でただひとり生き残り、戦後生還した大貫唯男氏(当時上等兵曹)は次のように書いている。
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2013/04/30
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タワラの玉砕と7人の生還者. マリアナ諸島の喪失. サイパンの玉砕 サイパン在留邦人の悲劇 グアム島の玉砕 投降勧告と自主投降.
タラワ慰霊巡拝の旅
www7.ocn.ne.jp/~yagiko/tarawa.html
横六特(三特根)にしろ、佐七特にしろ、情勢により本来派遣される地域より急遽タラワに配置変更となっている。
....
タラワ新聞記者が語り継ぐ戦争2』に掲載されている、数少ないタラワからの生還者の方の手記によると、21日の起床すぐ後に、軍事機密をただちに ...
ポットベリーの季節限定メニュー | 東京ズーネット
www.tokyo-zoo.net/topic/topics_detail?kind=news&link_num...
2012/07/27 - なかよし広場にある「ヤマモモ」の木には、毎年梅雨のころに赤くておいしそうな実がたくさんなります。このヤマモモは甘酸っぱく、人もジャムやお酒にして食べることができますが、なかよし広場ではヤギやヒツジがこぞってこの実を食べに来 ...
朝摘みヤマモモ:『薪の石窯パン工房Chevre』(シェ-ブル) やぎのパンやさんと ...
chevre.hamazo.tv/e2694651.html
2011/07/02
- やぎの丘ガーデンのヤマモモの実を摘みました^^ 本日のスイーツ ...
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美味しいのに。街のあちこちで実が食べられもせず落ちていますね。
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1.【繋がれたアヒル】風刺画を載せた仏週刊誌「カナール・アンシェネ(Canard Enchaine)」の名前の意味だ。「うるさいが危険性はない」という洒落だろう。
前回はAFP/Reuterの記事から紹介したが、原画の説明がフランス語のままだったので、邦訳をつけてみた。風刺マンガは絵と最低限のコメントで、わかる人には痛烈にわかるように表現するものだ。だから解説記事は不要だ。(添付1)
「上喜撰たった四杯で夜も眠れず」という幕府批判の川柳は、わかる人にしかわからない。
この週刊誌はフランス人のために風刺画を載せたので、マンガは彼らが理解する福島とオリンピックの関係を描いている。日本人が読まない記事に、日本政府が激怒し、それをメディアが報じるのもどうかと思う。
まず日本のメディアはマンガを転載し、ついで日本人の反応を報じるべきだろう。
ビゴーの「東京芸者の一日」のキャプションはフランス語で、つまり彼はフランス人のために風呂屋の三助を描いた。岩波文庫版ではフランス語説明がかすれていて読めないが、復刻本でははっきり読め、travail(仕事)とplaisir(悦楽)とが韻を踏んでいるのが明らかだ。これは日本で和紙に印刷され、左開きの和綴じ本として明治24年に出版されたが、読めたのは外国人が主体だ。「芸者」という存在を海外に有名にしたのはこの画集である。明治政府は検閲したが、発禁にはしなかった。(添付2)
日本は国際社会に向かって、「福島はコントロールされている」と言明したことで、世界の信頼と同情を失った。近々来るIAEOの調査団はちょうど、満州事変のあとで国際連盟から来た「リットン調査団」のようなものだ。福島がどう判定されるか、それが問題だろう。(リットン調査団が「満州国は日本の傀儡国家」と判定したので、日本は抗議して国際連盟を脱退した。)
今週、米原発のトップ28人が福島原発を視察に訪れたことをWSJが報じている。http://blogs.wsj.com/japanrealtime/2013/09/12/fukushima-watch-for-u-s-visitors-daiichi-trip-underscores-the-atoms-power/
これは技術援助に来たのではない。米国で自分たちが経営する原発の安全性について学ぶために来たのだ。
その中でもオハイオ州、エイクロン原発の経営者で、原発推進論者として自他ともに認めるセナ氏は、こう述べている。
<But
for Mr. Sena, president and chief nuclear officer of Akron, Ohio-based
FirstEnergy Corp.’s nuclear-power subsidiary and a self-described
atomic-energy fan, the biggest impact of the trip was seeing the
devastation caused by the accident for
himself.(「訪問による最大の衝撃は、事故による惨禍を実際に目のあたりにしたことだ。」)
これは広島、長に入った時、米国人の物理学者や軍人が言ったセリフと同じだ。
2.【Under
Control 】1) Fukushima is under
control…と安倍首相はブエノスで演説した。G20そっちのけで駆けつけたのは、何が何でもオリンピックを誘致して、景気対策にしたかったのだろう。が「Shall
be under contorol.」と決意表明したのではなく、福島の現状を「is(である)」で表現したのだから、事は大きい。
東電技術者は「コントロールされていない」といい、官房長官は
「先日、原子力災害対策本部で決定した汚染水問題に関する基本方針に基づいて、対策を予防的・重層的に講ずることによって、汚染水の影響が外洋に及ばないようにしていく、ということ。安倍総理は以上の状況の中で、『コントロールされている』という発言をされたと理解している」と苦しい釈明をしている。http://www.j-cast.com/2013/09/13183846.html
「基本方針を立てたから、問題がコントロールされた」という認識はきわめて甘いし、「未来形」と「現在形」を混同している。現実に「汚染水の影響が外洋に及ばないようにしていく」ということは、毎日踏みにじられている。
野党がしっかりしていれば、この失言は十分倒閣の理由になるだろうに。政治とは「権力のための闘争」である。野党はもっとしっかりしろ。
2)「ニュー・スピーク」、ジョージ・オーウェル「1984年」(早川文庫)に出てくる言葉だ。全体主義国家「オセアニア」の公用語で、言葉の文字が表すこととと、実際の意味が違う。例えばピースは「平和」でなく「戰争」を意味する。「自由」は屈従を、「無知」は力を、「豊富」は貧困を意味している。ちょうど太平洋戦争で、「転進」が「敗北・撤退」を意味し、「玉砕」が「全員戦死」を意味していたようなものだ。
メディアが同じ言葉に別の意味を込めはじめたら、警戒しなくてはならない。
誰が聞いても、under controlとは「完全に封じ込め、外に被害を及ぼさない状態」意味する。「暴徒がunder controlにある」といえば、「鎮圧された」という意味だ。もう破壊活動ができない状態を意味する。
ここに来て安倍内閣と東電はニュー・スピークを採用したようだ。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130913/dst13091321480010-n1.htm
「not under control」とは「トラブルが発生している」という意味だそうだ。そのトラブルの程度や深刻度は問題でないという。
以後は、メディアも同じようなダブル・ミーニングの言葉、ニュー・スピークを使うようになるだろうから、警戒する必要があろう。
3.【Tattoo】入れ墨のことだ。日本語では、文身、刺青などの表現がある。
南方系の縄文人はみな刺青していた。古事記、日本書紀は弥生人が書いたので、入れ墨が刑罰だったと書いてある。
明治維新の時、風習としての入れ墨が残っていたのは、沖縄人と北海道アイヌだけだった。
明治5年7月政府は「入れ墨禁止令」を出した。いまは、北海道でも沖縄でも風習としての入れ墨はなくなった。
9/13「毎日」が入れ墨をしたニュージーランド・マオリ族の女性が、北海道恵庭の温泉で入湯を断られたことを報じている。
http://mainichi.jp/select/news/20130913k0000m040069000c.html
当然だろう。日本では「入れ墨者」の入店を断るのが、ホテルでも温泉でも常識だ。「禁止令」は1947年に廃止されているが、それは法によらずとも、社会の文化的伝統として「入れ墨をしない」ことが根付いたと判断されたからだ。
琉球の入れ墨については、1816年英国艦隊を率いて朝鮮・琉球を探険したベイジル・ホール提督「朝鮮・琉球航海記」(岩波文庫)p.281にある、腕に入れた稚拙な図柄のものが最初の記録と思われるが、この訳本では「付録と語彙」がカットされているので、女性の入れ墨についてはわからない。
アイヌの入れ墨については、イサベラ・バード「日本奥地紀行」(東洋文庫)が、明治11年、北海道ピラトリ(平取)村における、アイヌ人の入れ墨の風習を絵入りで詳しく記載している。(p.295-296)。明治政府の入れ墨禁止令に対して、「彼らは最近政府が入れ墨を禁止したのを、たいそう悲しみ、また困惑している。神々は怒るだろうし、女は入れ墨をしなければ結婚できないのだ。彼らは、シボールト氏(注:有名なシーボルトの息子)や私に、どうか日本政府に対して、この点を訴えてもらえないか、と懇願した」とある。
「魏志倭人伝」(岩波文庫)p.43に「倭人男子は大小となく入れ墨をしている」とあり、南九州(縄文系)にはアイヌと同様の風習があった。この風習はもともと南中国にあり、そこから台湾への移住に伴いBC4000年頃、台湾に伝えられ、そこでアウトリッガー・カヌーが発明されたため、さらに北は日本、南はマレー半島、東はニューギニア、タヒチ、イースター島、北はハワイへ、タヒチからは西のニュージーランドに波及したものだ。
ニュージーランドへのマオリ人の移住はもっとも遅く、900年頃だ。マオリ語はポリネシア語の方言で「普通」という意味だ。英語のtattooはポリネシア語で入れ墨を意味する「Tatau」が語源で、クック船長は英語でtatowと記載している。ニュージーランドのマオリ族の間に最後まで残ったのは、移住がタヒチ島から最後に行われたからだ。移民が本国の習慣を忠実に残そうとするのは、どこでも認められる現象だ。
問題のマオリ人女性がどういう入れ墨をしていたのか知らないが、「文化的伝統だ」と主張するのなら、マオリ王族の入れ墨(添付3)くらいに、印象的なものをして、せいぜい伝統を守ってもらいたい。(「Lands
and Peoples Vol.5」, Grolier, 1964, p.381より)
ただそれは自分たちのコミュニティーの中だから許されるので、日本では日本の慣習に従うのが当然だろう。
水着を着て、頭巾をかぶり、温泉に入ったらよかろう。温泉では裸で入湯できるからと、海水浴場で同じことをしたら、公然わいせつ罪で逮捕されるだろう。
毎日の森記者にはもっと勉強して貰いたい。
-- 難波紘二
鹿鳴
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1.【修復腎】1)光文社「FLASH」9/24号を高橋さんからお送り頂いた。感謝します。9/13/ 2013:
「悪徳医師のレッテルを貼られて7年、いまや世界が称賛する 腎移植の達人:万波誠医師のオペ、誌上中継!!」とタイトルが表紙に載っている。5頁の特集で、写真も記事もよい。少し風向きが変わってきたようだ。7年前は「悪徳医師」でなく「悪魔の医師」と書かれた。
しかしヌード写真が袋とじになっていて、これはもう頁を切る気にもなれない。歳だな。
2)本の泉社から、青山淳平「小説・修復腎移植」が贈られてきた。お礼申し上げます。
帯に不肖私の推薦文も入っています。(添付1)
東大医学部がある本郷の医書出版社からですから、医学部関係者の意見も事前に聞いての出版だと思います。これも風向きが変わった兆しかと思います。
「小説」ですが、事実調べはきちんとされていて、人物が仮名である以外は、NF小説に近いです。ことに、宇和島の関係病院の監査を陣頭指揮し、後に収賄で逮捕され、有罪となった住友克敏厚労省特別監査官が、影の重要人物として物語に組み込まれており、ミステリーの要素もあり、面白いと思います。本体価格1,800円ですので、どうぞお求めになり、周囲にも推薦をお願いします。
メディアの書評担当や文化部の方にも、ぜひ取りあげて頂きたいと思います。
これで高橋さんの本が出た後、徳洲会が「先進医療再申請」を行うなら、厚労省も学会も今度は無視できなくなるでしょう。移植学会元理事長田中紘一は三井商事がスポンサーで、シンガポールで「臓器移植病院」をやっているらしいが、それこそ「医の倫理」に悖るのではないか。でも何だか情けない。
修復腎移植を公認すれば、少なくとも年間2,000個の移植用腎臓が確保でき、国内の腎不全患者を救えるのです。あと一踏ん張り、頑張りましょう。
2.【風刺画】管官房長官が「抗議する」と怒っているフランスの風刺週刊誌「カナール」の風刺画がこれだ。
http://www.thelocal.fr/20130912/japan-outraged-by-french-fukushima-cartoons
福島原発を背景にして、手が3本と足が3本のよぼよぼ力士が取り組み、放射線防御衣とガスマスクを付けた少数の見物人と中継のアナウンサーが1人いる。「丸に逆三菱」は放射能を表す国際サインだ。
東京では放射線のため急速に日本人の老化が進み、7年後にはこんな若者も出てくるだろう。各国の参加ボイコットが相次ぎ、競技中止の種目が多くなり、急遽相撲を加えたら、力士はこういうのしかいなかった。見物の客もいなくて、まあこんな具合になるだろうという、日本政府による「福島原発」処理の遅れを皮肉った痛烈な風刺画だ。
ロイターが報じたから、今頃は世界中に知られているだろう。よくぞ描いてくれたと言いたい。風刺画は落書と並んで、昔からどの国でも、真正面から権力を批判できない時の、民衆の対抗手段だ。日本政府が本気で抗議すれば、「火のないところに煙は立たない」と思われるに決まっている。明治日本を描いたフランスの風刺画家ビゴーは「仕事と楽しみが両立する男」という題で風呂屋の三助を描いている。(添付2)これを載せた「東京芸者の一日」(明治24年)は別に発禁にならなかった。(図は岩波文庫:清水勲編「続ビゴー日本素描集」p.73より)明治の政治家は「騒げば不利になる」とちゃんと知っていた。いまや貴重な風俗資料だ。
1986年の岩波文庫「ビゴー日本素描集」はこの絵をカットしている。ビゴーの原本復刻本にはちゃんと含まれている。1992年の「続ビゴー日本素描集」になって、やっとこの絵が収録されたわけで、編者の見識が問われよう。
「断腸亭日乗」を残した永井荷風がビゴーのファンだったことを、つい先日まで知らなかった。関東大震災の後で、荷風が日記に書いた文章は「風刺」だと考えると納得がいくので、以下に紹介しておく。解釈は各自にまかせる。10月3日、震災の1ヶ月後だ。
「帝都荒廃の光景、哀れというも愚かなり。
されど、つらつら明治以降、大正現代の帝都を見れば、いわゆる山師の玄関に異ならず。
愚民を欺く、いかさま物に過ぎざれば、灰燼になりしとて、さして惜しむには及ばず。
近年、世間一般、奢侈驕慢(しゃしきょうまん)、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧みれば、この度の災禍は実に天罰なりというべし。何ぞ深く悲しむに及ばんや。
民は既に家を失い、国帑(こくど=国家財政)また空しからんとす。
外観のみを修飾して、百年の計をなさざる国家の末路は、即ちかくのごとし。
自業自得、天罰覿面というべきのみ。」(現代仮名づかいに変換)
遠近効果という。東京人には東京都と福島が別ものと見えるのだろうが、西日本の広島からは一緒になって見える。ましてヨーロッパやアフリカや南米からは、日本は点のようにひとつに見える。離れていた方が事態が客観的に見えることもある。
愛宕下から江戸見坂を上り、工場による空気の汚染がなくなったため、愛宕山の頂上から房総半島が手に取るように見えるのを知った荷風は、瞬時にして明治以来の国家建設に重大な欠陥があったことを悟った。やはり大した人物である。震災後、ここまで考えた人は、私の知るかぎり、後藤新平が他にあるだけだろう。
熟読されたら、9月1日に「断腸亭日乗」に触れた新聞はあっても、この一節を引用したメディがなかった理由がわかるだろう。1970年代公害が激しかった頃、「東京に三代住むと馬鹿になる」と言われたことがある。今や東京人の多くが三代以上にわたり、東京に住んでいる。総理大臣からしてそうだ。「国帑強靱化」というが、空念仏ではないか。国帑は破綻している。
せめてメディはやり場のない庶民の怒りを、痛烈な風刺でやわらげるべきだろう。
AFP記事の末尾にはこう書かれている。
<Unlike
many European countries, Japan does not have a vigorous tradition of
satire. Its cultural emphasis on the importance of social harmony also
discourages public ridiculing of
others.>(欧州諸国と異なり日本には強烈な風刺の伝統がない。社会の安定に重点を置いたその文化はまた、他者を公然と笑いものにすることを抑制する。)
昔、右翼の「風の党」を「虱(しらみ)の会」と書いて山藤章二が風刺画を「週刊朝日」に描いたら、怒った党首が朝日本社の社長室でピストル自殺するという事件が起こった。http://ja.wikipedia.org/wiki/山藤章二
これなど日本右翼の精神的狭量さを示している象徴的な事件だ。以来、新聞も雑誌も政治マンガがちっとも面白くなくなった。風刺マンガよ復活せよ。
3.【てれすこ】文科系の学問は「行きつ戻りつ」していて、進歩がない。文学にはセンスが第一と思っていて、それ自体は正しいのだが、方法論が科学的でないからだ。落語「てれすこ」の原話が無住一円「沙石集(しゃせきしゅう)」8巻16章にあるとWIKIにある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/てれすこ
そこで岩波文庫「沙石集(上・下)」(筑土鈴寛校訂)を確かめた。前に読んだ時の記憶がない。
この本は昭和17年初本で、所持本が1997年三刷りだから、ほんど売れていない。
解説に無住一圓(1886〜1972)とあり、「二十世紀に死んだ人?」とまず驚く。これは「皇紀」である。だから1600を引かないといけない。鎌倉時代の人だ。あの岩波がこんな本を今でも売るくらいだから、改版のコストが出ないのだ。
問題の巻と章には該当文がない。下巻の後に 「説話索引」が載っているが「人名、事項索引」がない。巻末から本文頁を逆向きに繰ったが、どの巻にも載っていない。ネットで「沙石集」テキストを調べたが、ここにも「8巻16章」がない。
「くくるくつ」、「ひひりひつ」で検索すると、WIKIの記載かその受け売りにたどり着く。「文庫解説」を読むと、底本は京大所蔵本(10巻10冊、うち第7巻欠)とある。しかし目次には第七巻があるので、文庫に欠巻はないはずだ。
が、「写本のみにあって、流布本(版木本)にない説話は、拾遺として巻末に収めてある」と書かれていた。「拾遺」を普通の読者は読まない。念のため拾遺を読むと「米沢文庫写本巻七10章」に「魂魄(こんぱく)の俗事」というのが1頁半(下巻p.272-73)分あり、それが原話だった。これは元写本である。
手元に原本があるのに、ここまでたどり着くのに木曜日の午前中を費やした。何たる時間の浪費!文系の文献調べの何たる生産性の悪さ!
で、落語「てれすこ」の原話はこうなっている。(概要)
「ある公卿の屋敷へ雇ってほしいと男がやってきた。何ができるか尋ねたところ、力仕事などはだめだが<一切智者の判官代>というあだ名があり、いろんなことを良く知っていると答えたので、これは大事な男だと召し抱えた。
播磨の国司に任じられた際、この男「判官代」を連れて赴任した。
明石の海岸で大網を引かせたら、目も口もない、ぬるぬるとした生きものが揚がってきた。
漁師も他の人々も見たことがないという。「判官代」に尋ねたら『くくるくつ』ですと答えた。 国司は日誌にこの妙な生きもののことを記入させた。
4年の任期が終わり都に戻り、同輩と語らっている内に、明石浦での妙な生きものの話が出た。みな信じないので、干物にしてあったのを見せたが、誰も見たことがないという。先国司も名前を忘れた。日誌を探させたが出てこない。
再び「判官代」を召しだし、名前を聞いたが、前にも適当にしゃべったので、本人も前の名前を思い出せない。見れば、からからに干からびているので、『ひひりひつ』と出まかせを言った。
ところが、間もなく日誌が見つかり、そこには『くくるくつ』とあった。
日誌を読み上げた先国司が、前の名前と違うではないか詰問すると、
『あれは生のときはくくるくつと言いますが、干物になるとひひりひつと申します』と答弁した。
なるほどそうか、そういうこともあるだろう、と一同が納得した。」とある。
「鬼九郎には似ず、魂魄人なりけり。」と結んでいる。
鬼九郎というのは、前章に出てくるつまらない人物のこと、魂魄人というのは、「ガッツのある人」という意味で、男の度胸とウィットを誉めている。
この原文を見ると、生ものと干物で名前が違うのは、鎌倉時代に他にもあったのだろう。
イカ=スルメ
卵巣=数の子(ニシン)
卵巣=からすみ(ボラ)
などがそうだろうか…
文庫本の後に毎日「余録」(04年9月11日)の切り抜きが挿んであった。
「沙石集」から「医師の薬を用いるに、下医は毒を毒となし、中医は毒を毒につかい、上医は毒を薬に用う」が引用してある。引用箇所を確認しようと挿んだまま、調べるのを忘れていた。これもざっと調べたかぎりでは引用箇所が見つからない。そう決めつけるには、また半日かかるだろう。
「上医は国を癒やし、中医は病人を癒やし、下医は病気を癒やす」
というのは、何かで読んだことがあるが、余録子の引用箇所は知らない。ご存じの方はお教え願いたい。
ともかく本は索引(人名、事項)を充実し、引用者は引用箇所がチェックできるような引用をしてもらいたい。知的労働の生産性はそれにより格段に向上する。
-- 難波紘二
鹿鳴荘病理研究所
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2008/07/01 - 投稿 1 件 - 1 人の編集者
昭和十九年(一九四四)初頭から米の
がある。それは信長の行動を記さなければ彼の伝記が書けなかったということである。彼の行動は信長の意思によって制約されていた。彼は信長の命のままに動いていた。これは淋しいことである。完全に独立した人格の樹立。それの企図が同時に死であった彼である。光秀がこのような悲しい運命をたどらなければならなかった社会、この封建社会が自由社会にまで発展するには、三百年の長い時日を要したのであった。著者紹介へ
*)よく知られるように、前田利長に対する挑発は利長が見破ってこれに乗らず、ついで会津の上杉景勝に対する挑発には景勝がひっかかり、会津遠征が号令、発動された。関が原の戦いはこの景勝征伐に触発された三成の反抗から起こった。
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