太陽は銀河系の中では主系列星の一つで、スペクトル型はG2V(金色)である。
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ビルマ戦線
第二次世界大戦中連合国は、インド、東南アジア経由で蒋介石の中華民国国民政府に対し、さまざまの支援を行っていた。援蒋ルートと呼ばれるこれら補給路の内、ラングーンから雲南省への陸路はビルマ・ロードと呼ばれていた。この遮断を目的に大日本帝国は、イギリス連邦、中華民国、アメリカ合衆国、そして最後にはビルマとも戦火を交えた。
東南アジアの日本陸軍最高指揮官は南方総軍寺内寿一元帥。南方総軍はビルマからニューギニア、フィリピンに至る広範囲の南方戦線を管轄していた。
侵攻作戦
日本軍のビルマ侵攻作戦は、飯田祥二郎中将旗下第十五軍によって遂行された。
太平洋戦争が始まるやビルマ南部テナセリウム地方に進出した第十五軍は、メルギー、タボイの飛行場を奪取。1942年1月には竹内寛中将率いる第五十五師団基幹の主力部隊が、タイのラーヘンからコーカレーク峠を越えビルマに侵入。直ちに西進を開始した。迎え撃つ英印軍はインド第17師団基幹。しかしこの部隊は急造編成で、装備、訓練共に十分ではなく、サルウィン川河口、モールメインまで一気に押し込まれた。17師団はここで数日持ちこたえたが、川に阻害され補給を受けられず、ついに1月31日モールメインを放棄。更に西のシッタン川に向け後退を始めるが、日本軍の空襲に退却行動は滞った。シッタンに先着したのは、ジャングルを突破してきた桜井省三中将旗下第三十三師団だった。三十三師団は直ちにシッタン鉄道橋の確保に乗り出した。この脅威に17師団は2月22日、集結に遅れた味方を対岸に置き去りにしたまま橋梁を爆破してペグー方面に退却した。
その後イギリス第7機甲旅団などの増援を得た英印軍は反撃を試みるが、進撃する第十五軍の勢いを止めるには至らず、次々に拠点を落とした。首都ラングーンでは、英空軍と、アメリカ合衆国義勇軍「フライング・タイガース」が日本軍の空襲を何とか防いでいた。しかしテナセリウムの飛行場を得た日本軍航空隊の攻撃が、首都近郊の連合軍飛行場に及び始めると、その防空能力も低下した。英印軍は3月7日ついに港湾設備を破壊してラングーンを脱出。日本軍はシンガポール飛行場奪取以降、航空輸送力を既に増加させており、首都の海運、鉄道拠点を手に入れたことでその補給線は更に強固になった。一方、ラングーン喪失により陸、海、空すべての補給路を寸断されたイギリスに広域戦線を維持する力はもはやなく、ビルマ全面放棄は避けられなくなった。こうして始まった連合軍の撤退は、多数の民間人避難民を伴ったため、各地で大混乱になった。
北ビルマには蒋介石主席旗下中国国民政府軍が援軍として進出していた。しかし中国軍は日本軍を食い止めるどころか、その進撃を遅らせることすらできずに潰走した。中国軍のほとんどはサルウィン川を越えて雲南省に撤退したが、退路を断たれた一部は、米軍ジョゼフ・スティルウェル将軍と共にインドへの撤退を余儀なくされた。ビルマ戦線の中国軍は、その後兵力の回復に努め、米軍により再装備、再訓練された。
赤:日本軍 青:連合軍 二重丸:軍団以上の部隊 丸印:師団相当の部隊 星印:旅団以下の部隊 A:軍 D:師団 B:旅団 R:連隊
KOW:ノックアウト勝ち KOL:ノックアウト負け WOP:判定勝ち LOP:判定負け
第一次アラカン作戦
1942年から43年までビルマ戦線の連合軍は、中途半端な作戦しか展開できなかった。中東や北アフリカではドイツ軍が暴れていた。イギリスは既に多方面に戦線を抱えており、ビルマで即時反攻する余裕はなかった。従って当面のところ本国に近い戦線に集中せざるを得なかった。ロンドン、ワシントン両政府で取りかわした「ドイツ優先」政策も影響した。
それでも42年から43年の乾期、イギリスはふたつの作戦を実行に移した。最初は後に「第一次アラカン作戦」と呼ばれる小規模な反攻だった。アラカンはベンガル湾に面した地方で、無数の河川が縦横に走る。代表都市アキャブには重要拠点の飛行場があった。マユ半島及びアキャブ島奪還を目的にこの地に攻め込んだイギリスは、最初から指揮系統に問題を抱えていた。ウィリアム・スリム中将の第15軍団は、東部軍のノエル・アーウィン中将によって、戦闘序列から外された。その一方で、単なる前線師団指令部に手にあまるほどの用兵が委ねられるといういびつなものになっていた。
1942年12月、マユ半島を南下したインド第14歩兵師団は、先端までわずか数マイルに迫りながら、ドンベイクで日本軍小部隊に止められる。第三十三師団が前もってここに掩蓋陣地を張り巡らせていたのだ。英印軍は戦車支援もないまま強固な陣地に正面攻撃を繰り返し、その都度多数の死傷者を出して押し返された。その間、日本軍には中央ビルマから第五十五師団の援軍が到着。4月3日、棚橋真作大佐率いる歩兵第百十二連隊が、連合軍が踏破不能と判断した湿地、山岳地を突き抜けてインド第14師団の側面を急襲。指令部までも蹂躙され甚大な被害を受けた英印軍は、遅ればせながらスリム中将を指揮系統に投入し、戦線の立て直しを図った。押っ取り刀のスリムは、ブチドンの南に防衛線を張り直して持ちこたえようとした。しかしスリムもまた第三十三師団の攻撃を防ぎきれず、英印軍は結局インド国境まであえなく押し戻された。この一連の戦闘は日本側では公式には「三十一号作戦」と名付けられ、一般的には「第一次アキャブ作戦」と呼ばれている。
第一次チンディット
二番目の反攻作戦はインド第77歩兵旅団によるものだった。「チンディット」と呼ばれるこの部隊は、オード・ウィンゲート少将に率いられ諜報活動、後方撹乱を目的に日本軍占領地奥深くまで潜入した。この作戦は当初、大規模反攻の一環として計画された。しかし肝心の反攻作戦が輸送力不足で頓挫してしまい、チンディット単独の作戦に戦略的意味はなかった。それでもとにかく実行された。約三千の兵が小部隊に分かれてビルマに潜入し、第三十三師団の後方連絡線に被害を与え、軍事情報を収集した。チンディットは、各地で日本軍に掃討され多くの犠牲者を出し、作戦は勝利とはいい難い結果となった。しかし、ジャングルでも航空機による補給が可能なこと、またそれがあればイギリス兵、インド兵も日本兵同様ジャングルで十分生存、移動、戦闘できることを証明した。
転換点
1943年8月、連合軍は全東南アジア戦線の統合指揮を担当する「東南アジア戦域軍」を新設し、全ビルマ戦線の管轄を引き継がせた。イギリス第14軍は既に兵力を回復していた。攻勢はいつでも可能だった。連合軍補給線も強化されていた。戦争開始時一日600トンに過ぎなかった北東インド鉄道の輸送力は、1944年10月には一日4,400トンにまで引き上げられていた。英空軍は既に日本軍航空隊に対する数的優位を確立しており、連合軍の戦略の幅は広がっていた。
1943年後半、東南アジア戦域軍設立と同じころ、日本軍も陣容を整えていた。最高指揮官河辺正三大将の下「ビルマ方面軍」指令部が新設された。ビルマ方面軍は、南部戦線統括のため桜井省三中将を長に第二十八軍を編成し、中央ビルマ戦線担当の第十五軍と共に、その傘下に収めた。十五軍の司令官には牟田口廉也中将が着任した。牟田口は、長きに渡る日中戦争の発端となった盧溝橋事件の中心人物だった。太平洋戦争開戦以降はシンガポール陥落などの華々しい勝利に貢献しており、更なるインド侵攻作戦を熱望し、実際に計画していた。ビルマ方面軍は当初この作戦を無謀と判断し却下した。しかしシンガポールの南方総軍、東京の大本営は共に牟田口支持に回った。日本軍がインドに侵攻すればイギリスの支配体制崩壊は必定、とインド国民軍最高指揮官チャンドラ・ボースが東条英機首相を説得していたことが背後にあったといわれている。こうしてインド、インパールへの侵攻計画、「ウ号作戦」は認可され、直接攻撃を担当する前線師団指令部がこぞって作戦に不信を抱いているにも関わらず、実行に移された。
第二次チンディット
蒋介石中国軍支援のため、インド、レドから雲南に至る陸路、いわゆる「レド公路」を開通しようと、ジョゼフ・スティルウェル将軍は北ビルマへの反攻を計画していた。チンディットは旅団から師団へ強化され、新たにインド第3歩兵師団と改名されていた。スティルウェル旗下米中連合軍の作戦支援のため、チンディットはインドウ地方で日本軍補給路を撹乱、破壊することになった。これが「オペレーション・サーズデイ」である。1944年2月5日レドを発った傘下の第16旅団が後方地帯潜入に成功すると、チンディットは3月初旬アメリカ合衆国空軍第1航空総軍の協力で空挺作戦を行い、三個旅団を日本軍背後にグライダーで降下させた。
北ビルマ1943~44年
ミートキーナ、モガウン付近に攻勢をかけるため、スティルウェル指揮下の中国軍第38師団は1943年10月、レドからシンビヤンに向け進撃を開始した。フーコン谷地進出後、日本軍第十八師団の防衛拠点に遭遇すると、フランク・メリル准将の「マローダーズ」部隊がジャングルを抜けて日本軍陣地の側面を突いた。これは開戦当初日本軍が用い成果を収めていた奇襲戦法だった。
雲南前線の中国軍も攻勢に転じていた。1944年4月、四万に迫る兵がサルウィン川を渡ると、数日の内に十二個師団七万二千の中国軍が第五十六師団に襲いかかった。北西に米中連合軍、北東に国民政府雲南遠征軍を迎え、北部戦線日本軍は二方面同時の戦いを強いられた。この統括のため、44年4月、本多政材中将を長に第三十三軍が設けられ、十八、五十六の二師団が傘下に入った。
スティルウェルの中国軍が戦果を重ねている内に、マローダーズは44年5月17日、ヒマラヤ山脈を越える空路の中継地として重要なミートキーナ飛行場を奪還した。こうしてスティルウェルは長期戦略の序盤を成功裏に終えた。
第二次アラカン作戦
アラカン戦線では、フィリップ・クリスティソン中将率いるインド第15軍団がマユ半島に進出。1944年1月9日インド第5師団にモウガンを占領させると、15軍団はモンドウとカラパンジン谷地をつなぐ鉄道トンネル確保に乗り出した。しかしこの前線で先制攻撃したのは、今回も日本軍だった。ビルマ方面軍はインパール侵攻に先立って、アラカンの第二十八軍に「ハ号」と命名された陽動作戦を準備させていた。英印軍の後方に潜入した第五十五師団の精鋭部隊は、インド第7師団を背後から急襲し、シンゼイワ盆地の指令部に迫った。しかし戦局は前回のアラカン戦と全く違ったものになった。英印軍は「アドミン・ボックス」と呼ばれる方法で陣地を円形に張り巡らせ、航空機による補給を受けながら前線を堅持した。2月5日から23日まで続いたこのアドミン・ボックスの戦いで、桜井徳太郎少将率いる第五十五歩兵団は、第7師団の指令部を集中攻撃した。指令部は後方勤務の兵が守っているだけだったが、戦車の支援を受けた守りは固く、結局崩すことはできなかった。英印軍兵士は訓練されていた。日本軍得意の潜入、包囲戦法に際して以前のように恐慌に陥り潰走することはなかった。敵物資収奪を前提にした日本軍の補給計画はたちまち破綻し、兵は飢餓にも苦しめられた。やがて、インド第5師団の援軍がアドミン・ボックス守備兵救出のためナケドウク峠を越えシンゼイワに到着すると、日本軍は封鎖を解いて後退せざるを得なくなった。この一連の戦闘は日本では「第二次アキャブ作戦」と呼ばれることが多い。両軍の死傷者数は大体同じだが、大局的には日本軍にとって手痛い敗北となった。
赤:日本軍 青:連合軍 二重丸:軍団以上の部隊 丸印:師団相当の部隊 星印:旅団以下の部隊
A:軍 D:師団 B:旅団 GALAHAD:米軍5307混成部隊 WOP:判定勝ち LOP:判定負け
インパール作戦
牟田口廉也中将旗下第十五軍(十五師団、三十一師団、三十三師団)指令部は、インパール攻略にはレジナルド・スクーンズ准将旗下第4軍団前衛師団の孤立化、粉砕が必要と考えていた。またディマプールからインパールへの敵の補給路を断つため、佐藤幸徳中将の第三十一師団に中継地コヒマを占領させる手はずを整えていた。野心家の牟田口はさらに三十一師団にディマプールを攻略させようとまで考えていた。ディマプールを制圧すれば、日本軍は山岳国境地帯を抜けて、北東インドのほとんど全域に攻勢をかけられる。インド国民軍部隊を攻撃に投入し、国内で反乱を惹起させることも可能になる。鉄道拠点を押さえれば、連合軍の対中支援ヒマラヤ越え空路を支える飛行場への陸上連絡路を断ち、同時にスティルウェル将軍配下北部戦線米中連合軍の補給線を断つこともできるのだった。
作戦発令と共に、日本軍は3月8日チンドウィン川を越え進撃を開始。新たに第14軍司令官に着任したスリム中将の指示により、第4軍団前衛は予定の退却に移った。インド第20師団はインパールまで遺漏なく下がったが、インド第17師団は急進してきた柳田元三中将の第三十三師団に退路をふさがれた。それでも17師団は、C-47ダコタ輸送機を駆る英米両空軍の空中補給部隊やインド第23師団の支援を受け、日本軍の封鎖を次々に突破しながらインパールを目指した。こうして両師団は4月4日までにインパール平野にたどり着いた。その間、インパールには山内正文中将の第十五師団が迫る。インパール基地を守備していた唯一の兵力、インド第50空挺旅団は前哨基地サンジャックで、コヒマへの道中にあった三十一師団の左突進隊、宮崎繁三郎少将率いる歩兵第五十八連隊と衝突し、手ひどい打撃を被った。南からは三十三師団と共に山本支隊(第72独立混成旅団)が陽動攻撃をかけていた。山本募少将率いるこの部隊は重砲多数を持った強力なもので、配下にはこの前線で唯一の戦車連隊まであった。しかしこの南からの攻撃は既に活力を失っていた。
十五、三十三の両師団がインパール包囲を始めたころ、三十一師団はインパール・ディマプール道に到達。佐藤師団長はディマプール侵攻には移らず、コヒマ周囲の丘陵地帯占領に専念した。佐藤、柳田、山内の三師団長は、あまりに補給を軽視した十五軍の作戦指導に始めから強い疑念と不安を抱いていた。獲得不可能な目標に猪突猛進する気はなかった。進軍を止めた三十一師団は4月5日集落一帯を包囲し、コヒマの戦いが始まる。丘頂上に構築された砦を巡り壮絶な争奪戦が展開された。戦闘は地区行政官のテニスコート付近で激しさを極めた。英印軍の勝利に終わるこのテニスコートの戦いは、全ビルマ戦況の転換点となる重要なものになった。4月18日、支援に駆け付けたインド第161旅団が守備隊を救出。日本軍は既に守勢に転じていたが壕を掘って粘り強く抵抗した。コヒマ戦局は長期化の兆しを見せていた。
インパールの戦いも4月に入り、戦局は日本軍にとって非常に厳しいものになっていた。インパール平野への数方向からの攻撃はいずれも英印軍防衛線に跳ね返された。インパール北に停滞した十五師団に対して、スリム中将が反攻を始めたところで雨期が訪れた。豪雨と泥濘が両軍の動きを妨げた。文字通り泥沼化した戦場で、日本兵の耐久力は尽きようとしていた。三十一、十五の両師団は
戦闘開始以来満足な補給を受けておらず、兵は飢餓に見舞われていた。佐藤師団長は牟田口軍司令官に対し、このまま無補給状態が続けば、三十一師団は5月末をもってコヒマから撤退すると一方的に通知する。師団長の無許可撤退など日本陸軍にとっては前代未聞だった。佐藤は実際撤退を命じ、宮崎少将率いる独立分遣隊を遅滞行動のためインパール・ディマプール道周辺に残すと、全軍を反転させた。後楯を失った十五師団は孤立した。兵は何とか食料を徴発しようと陣を離れさまよい歩くまでになり、もはや満足に戦える状態ではなかった。山内師団長は責任を問われ解任される。しかしこの人事刷新には何の効果もなかった。英印軍の反撃は勢いを増し、ついに6月22日、進撃する第4軍団とモンタギュー・ストップフォード中将旗下第33軍団の尖兵部隊同士がインパール・ディマプール道上109マイル地点で落ち合った。こうしてインパールの包囲は解かれた。
赤:日本軍 青:連合軍 二重丸:軍団以上の部隊 丸印:師団相当の部隊 星印:旅団以下の部隊
A:軍 D:師団 B:旅団 IMB:独立混成旅団 R:連隊 KOW:ノックアウト勝ち KOL:ノックアウト負け
作戦成功の望みはなくなったにも関わらず、方面軍最高指揮官河辺正三大将と牟田口は攻撃命令を出し続けた。第三十三師団正面に兵力を集中し何とかインパールに突入させようとした。三十三師団は、更迭された柳田に代わった師団長田中信男中将の厳しい指導の下、攻撃を繰り返すが、死傷者を出し過ぎ、インパールどころかその南のビシェンプールを抜くことすらできなかった。6月の終わりには、もはや何の進展も期待できなくなった。7月初旬ついに方面軍は作戦中止を決定。困憊した将兵は、チンドウィン川までの苦難に満ちた道を下がった。
インパール作戦は当時の日本陸戦史上最大の敗北となった。約一万七千五百の連合軍側死傷者数に対し、日本軍側は戦死者一万三千五百名を含む五万五千にまで及んだ。多くは退却中の飢餓、病気、疲労によるものである。失意の牟田口は方面軍から外され、不面目にシンガポールへ去った。第十五軍司令官の座は新たに、片村四八中将が占めた。佐藤中将は精神錯乱と見なされ軍法会議への起訴は見送られた。陸軍の醜聞になることを恐れた河辺大将、寺内元帥の計らいである。その河辺もまた方面軍最高指揮官の任を解かれた。後任は陸軍省次官だった木村兵太郎中将。木村は怜悧な戦略家ではあったが、闘将というよりはむしろ兵站学の専門家だった。そのため武闘派の田中新一中将が参謀長に就任した。この時期は師団長、参謀の解任、配置転換が相次いだ。
アラカン戦線1944~45年
新指揮官木村は方面軍既存戦力の貧弱さを改めて認識した。日本軍が敵の追撃を食い止めるにはチンドウィン川沿いに防御線を引くのが常套で、それは英印軍も予測していると踏んだ木村は、敵の作戦計画を混乱させることに活路を見い出そうとした。チンドウィン川守備の代わりに当座しのぎの三作戦が作成された。第十五軍にイラワジ川左岸を守らせる「磐作戦」。第二十八軍にイラワジ川下流、アラカン防衛を命じる「完作戦」。そして第三十三軍をバーモ、ラシオ地区に下げインド中国間レド公路の開通を妨害させる「断作戦」である。
アラカンでは、雨期が終わるやクリスティソンの第15軍団がアキャブに進出。日本軍は1944年12月31日既にここを撤退しており、要衝アキャブはあっけなく奪還された。15軍団は西アフリカ第82師団に南下中の日本軍を海岸伝いに追撃させるかたわら、挟撃のため水陸両用作戦部隊を出動させた。上陸作戦はイギリス奇襲旅団が担当した。1945年1月12日、第42旅団がミエボン半島南東岸に上陸。22日には第1、第3旅団がデイボン・クリークの砂浜に上陸。海岸を固め内陸に進撃するとすぐにカンゴウで激しい戦闘になった。この海岸堡周辺の攻防戦は苛烈な白兵戦に発展し、危機を認識した日本軍は、第五十四、第五十五師団からありったけの兵力を投入した。29日になってようやく戦局を好転させた奇襲旅団はカンゴウを奪取。一方、ミエボン半島上陸部隊も、カンゴウ方面に進撃してきた西アフリカ第82師団との合流に成功していた。挟撃された日本軍は算を乱し、無数の戦死者と重火器のほとんどを残して退却した。海岸地帯を制圧した連合軍は、攻撃の手を緩めなかった。港湾設備を合せ持つ航空基地を建設するため更にチェドバ島、ラムリー島の攻略に乗り出した。日本軍が撤退していたため、チェドバ島は無血占領できたが、ラムリー島では日本兵特有の頑強さを持つ守備隊の抵抗に会い、攻略には六週間を要した。
北ビルマ1944~45年
1944年末から蒋介石は、中国国内での日本軍の新たな反攻に対処するため、ビルマ戦線中国軍を帰国させるよう度々要求していた。そのためダニエル・サルタン中将指揮下の米中連合、「北部戦域軍」の作戦は妨げられていた。それでもサルタンは第三十三軍に対して攻勢をかけ始めた。中国軍三個師団と「マーズ旅団」として知られる米軍が、ミートキーナからバーモへ進撃。日本軍は数週間に渡って抵抗したが、12月15日バーモはついに陥落。サルタンの米中軍は1945年1月21日、国民政府雲南遠征軍との連絡に成功。戦況はいまだ不安定ではあるが、レド公路はここに開通された。続いて3月7日、ラシオを奪還すると、追撃戦による損耗を恐れた蒋介石は、これ以上中国軍を南下させないようサルタンに要求した。またその必要性も薄らいでいた。このころ既に北部戦線の日本軍への補給線は第14軍によって断ち切られようとしていた。ついに戦線を放棄した第三十三軍はイラワジ川沿いに退却を始めた。
イラワジ会戦
スリムは最初チンドウィン、イラワジの二大河川にはさまれたシュエボ平地に全軍攻撃をかけようとしていたが、日本軍が既にイラワジ対岸まで後退していると知ると、スクーンズの第4軍団をパコック付近で渡河させ、日本軍兵站中心地メークテーラ急襲に向ける戦略に出た。その一方、ストップフォードの第33軍団には予定通りシュエボ平地を進ませた。シュエボの先にはビルマ第二の都市マンダレーがある。無線通信の偽装工作で日本軍には両軍団共マンダレーを狙っていると思わせた。33軍団は、予定通り1月から2月にかけてマンダレー近くに渡河点を占領。首尾良く日本軍予備勢力を引き付けた。ビルマの制空権は既に連合軍の手中にあった。日本軍は自由に飛行機を出撃させることができず、パコックへ大兵力が進撃していることを察知できなかった。第4軍団を先導するインド第7師団は2月末、パコック近くのニャングに渡河点を確保。この時すでに機械化されていたインド第17師団は、インド第255機甲旅団と共にイラワジを越えメークテーラへ突進した。乾期の中央ビルマは砂漠のような平原に変貌する。この地では、機械化部隊の移動速度は、不意を突かれた日本軍指令部参謀たちよりはるかに優った。3月1日メークテーラに到着した部隊は四日間でここを落とした。粕谷少将率いる日本軍守備隊はにわか仕立てに過ぎなかったが、それでも決死の抵抗を見せた。戦いは壮絶さを極めた。航空爆弾を抱えたまま壕に伏せた何人もの日本兵が、真上を通過する敵戦車に対し自爆攻撃を行った。守備隊を救出しメークテーラを奪還しようと周辺から援軍が駆け付けてくると、戦いは更に激しさを増した。日本軍は八個連隊を迎撃戦に投入したが、なお数が足りなかった。また五個に及ぶ師団(二、十八、三十三、四十九、五十三)から寄せ集めたので、連携がうまく取れなかった。第三十三軍指令部にこの重大局面の指揮が委ねられたが、収拾を付けられるものではなかった。月末までに多くの死傷者を出した日本軍は、火砲のほとんどを失いピャブウェに後退した。
日本軍がメークテーラ周辺の戦闘に引き付けられている間、第33軍団はマンダレーを攻めていた。インド第19師団が市内に突入したが、日本軍守備隊は旧王宮の城塞「フォート・デュフェリン」に立てこもり激しく抵抗。凄惨な市街戦は3月19日夜、生き残った日本兵が堀の排水溝から脱出するまで一週間続いた。マンダレー奪還によってインドから中国への陸上連絡路はより安全なものになった。大損害を被った片村中将の第十五軍は小部隊に分かれ、それぞれにシャン高原へ後退した。
ペグー会戦
雨期が来ると部隊の移動は非常に困難になる。スリムは乾期の間に何とかラングーンを奪還しようと試みていた。桜井中将旗下第二十八軍の頑強な抵抗に会いながらも、ストップフォードの第33軍団はイラワジ河沿いを南下していた。その間スクーンズの第4軍団は、ピャブウェ周辺で遅滞行動に出る第三十三軍残余勢力と戦闘中だった。インド第17師団は、有力な日本軍防御陣地に動きを止められると、戦車隊と機械化歩兵部隊を迂回させ背後からこれを強襲、粉砕させた。ピャブウェの戦い以降、17師団はインド第255機甲旅団の先導でラングーンへの主要道を突き進んだ。続いてピンマナの日本軍を急襲し、街と橋を素早く確保した。この戦闘で第三十三軍は不意を突かれ、指令部までもが蹂躙された。本多軍司令官と参謀たちは命からがら脱出したが、部隊は四散してしまい、しばらく掌握不能になった。
一方、シャン高原に逃れた片村の第十五軍は、第五十六師団によって補強され態勢を立て直していた。十五軍はトングーに移動しラングーンへの主要道を封鎖することになった。しかしイギリスの息がかかったカレン族ゲリラに阻害され、行軍は度々滞った。結局、第4軍団を先導するインド第5師団が先んじてトングーを占領。続いて先鋒を引き継いだ17師団は4月25日ラングーン北64キロの街、ペグーで日本軍後衛部隊と衝突。方面軍最高指揮官木村は、ラングーンの後方勤務兵を中心に海軍陸戦隊や民間人まで投入して第百五独立混成旅団を編成し、ペグーを守らせていた。百五旅団は英印軍の進撃を少しでも遅らせようと、航空爆弾や高射砲などあらゆる武器をかき集め、最後には刺突爆雷による自爆攻撃まで繰り出して闘ったが、4月30日までにすべて排除された。このころスリムが恐れていた雨期が到来した。
赤:日本軍 青:連合軍 二重丸:軍団以上の部隊 丸印:師団相当の部隊 星印:旅団以下の部隊
NCAC:北部戦域軍 A:軍 C:軍団 D:師団 B:旅団 IMB:独立混成旅団
KOW:ノックアウト勝ち KOL:ノックアウト負け
ラングーン陥落
英印軍は当初、第14軍のラングーン攻略に先立って、海からの補給線を確立しておくため第15軍団をベンガル湾から敵前上陸させる「オペレーション・ドラキュラ」という作戦を立てていたが、資材、輸送力の不足により、決行を見送っていた。スリムは日本軍に雨期の間首都を死守されることを恐れていた。そうなれば第14軍は補給に深刻な問題を抱えることになる。陸上連絡路は延び切っており、部隊への補給は最寄りの飛行場への航空輸送が頼りだった。来るべき豪雨は飛行場の機能を低下させ、その航空輸送さえ困難になるだろう。そこでスリムは、棚上げになっていたオペレーション・ドラキュラを至急再開できないかと上層部に打診していた。
しかし木村は既にラングーン放棄を決定していた。4月22日から多くの部隊が海路で脱出を始め、少なからず英海軍潜水艦の好餌となった。木村ほか方面軍指令部は陸路、モールメインに退いた。まだ生き残っていた第百五独立混成旅団がこの退却の殿軍を務めた。
5月1日、エレファント・ポイントに降下したグルカ落下傘大隊がラングーン河口に残った日本軍後衛を排除。翌日上陸したインド第26師団がついにラングーンを占領。5月6日、南下してきたインド第17師団と、26師団の尖兵同士がラングーン北45キロのレグで落ち合った。
シッタン突破
ペグー山系はイラワジ川とシッタン川にはさまれた丘陵地帯で、一面のジャングルにおおわれている。
アラカンから退却し、第33軍団を迎え撃っていた桜井の第二十八軍は、ここに追い詰められ立てこもっていた。二十八軍は方面軍に合流するため
敵中突破作戦を計画していた。ペグー山系を抜け、シッタン川を渡り、モールメインを目指すのである。木村はこの突破作戦援護のため、今や一個連隊程度の兵力になり下がった第三十三軍に、シッタン川を越えて牽制攻撃をかけさせた。7月3日、命令通り本多の三十三軍は、シッタン川の屈曲部に陣取ったインド第89旅団に逆襲をかけた。互いの名誉をかけたこの戦いは、雨期の真最中胸まで達するほどの濁水の中で行われた。一進一退の攻防の後の7月10日、両軍共に後退した。
だが本多の攻撃は結局時期尚早だった。二十八軍の突破作戦準備がようやく完了したのは、7月17日になってからだった。さらに悪いことに、英軍は斥候中に戦死した日本軍将校の遺体から作戦計画書を入手していた。暴露された作戦は当然悲惨な結末を迎えた。部隊は随所で伏兵の攻撃を受け、集中砲火を浴びた。その上、増水したシッタン川を間に合わせの竹製筏に頼って泳渡する際、何百もの兵が渦巻く濁流に飲み込まれて溺死した。3月にはアウン・サン将軍率いるビルマ国民軍が日本軍に反旗を翻していた。日本軍落伍兵はビルマ人ゲリラとも戦わなければならなかった。この敵中突破作戦だけで、二十八軍は全兵力のほぼ半数に及ぶ一万名近い犠牲者を出した。混迷の状況下、1945年8月15日に日本に降伏したことす
いうちから ...
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1.【核と私】私が生まれた家は、広島の爆心地から1.5キロのところにあった。
舟入本町電停そばに作られた救護所の光景は、小倉豊文「絶後の記録」に描かれていることは、前に指摘した。
父の従兄が陸軍の兵器を製造する会社を経営していて、東京から芸備線沿線に工場のひとつを移した。その従兄から戰争の実態を知らされ、小学校教師を辞めて父はその工場の事務長になった。たぶん従兄は、父を口説くのに「広島は危ない」という情報を切り札にしたのであろう。
一家がその町に疎開したので、運よく助かったのである。
1.5キロ地点では、ガンマ線を21.6ラド、中性子を10.1ラド浴びたとされている。合計31.7ラドだ。シーベルトに直すと0.32Svだが、これは爆発時の数値で残留放射能の影響は入っていない。あの町に住み続けていたら、立派に「被曝者」になっていただろう。
「核の平和利用」が叫ばれ、読売の正力松太郎が中心になって原子力発電を推進した頃は、それが正しいと信じていた。実際に、高校の同級生には東大原子力工学科に進んだ男もいる。が、スリーマイルズ島事故とチェルノ事故の後では、「原子力の制御は不可能だ」と考えを変えた。物理学を買いかぶっていた。
核兵器と同じように原発は悪である。どちらも全廃しか人類が生きる道はない。
9/12の米NBCは9/10「毎日」記事を引用して「福島避難は地震津波より多くの人を殺した」と述べている。
http://worldnews.nbcnews.com/_news/2013/09/10/20420833-fukushima-evacuation-has-killed-more-than-earthquake-and-tsunami-survey-says?lite
私も読んだ記事だが、内容の意味を見落としていた。日赤の調査によれば原発事故のため避難させられた人約30万人。東海大地震津波による全国の死者は約16,000人。内福島県民が1,599人で約1割。「毎日」の調査によれば、「避難関連死」は約1600人と地震津波に匹敵するか、それを超えるという。
http://mainichi.jp/select/news/20130819k0000e030145000c.html
http://mainichi.jp/english/english/newsselect/news/20130909p2a00m0na009000c.html
「消耗死」、「孤独死」、「自殺」が多いとある。
仮に福島原発メルトダウンによる強制避難措置がなくても、原住地で死亡していたかもしれないので、避難以前の死亡率との比較が必要だ。それができるのは、死亡小票にアクセスできる公衆衛生学者か、厚労省の役人だけだろう。ぜひきちんとした死亡数および死因統計を作成してほしいと思う。
あの原爆投下後だって、各大学は「調査団」を派遣して、病理解剖にも当たっている。
しかし、福島原発メルトダウンがなければ、住民が2年半以上にわたり避難する必要がなかったことは事実だ。
福島民報「福島と原発」を読むと、国はや東電は「原発は安全」といいながら、県や原発周囲の町村に、膨大な補助金や寄付を行っていたことが明らかになった。
危なくないのなら、営利会社がなんでこんなにも金をばらまくのかわからない。
そのうえ「廃炉経費」が内部備蓄されていないことも明らかになった。作る経費と運転経費だけで、電力料金を計算して「一番安い電力」と主張していたわけだ。
8/19「毎日」が英国ウェールズ州のトロースフィニッド原発(1965運転開始,
91運転停止=26年間)の廃炉作業をレポートしている。95年に燃料を取りだしたが、肝腎の放射性廃棄物の最終処分場が決まらず、原発の解体撤去は早くて2083年になるという。今から70年先だ。事故を起こしていないこの原発で解体まで100年かかるのだから、3基がメルトダウンした福島第一は「永久に解体できない」と思った方がよいだろう。
この特集記事によると、世界で廃炉が決定している原発は全部で132基あるが、まだ廃炉に成功した国はないようだ。どの国も「壊すことは考えていなかった」そうだ。先のことをまったく考えなかった点では核兵器と同じではないか。
核兵器は核力を爆発力として利用し、敵を壊滅させようというコンセプトから生まれた。その残虐な威力を目の当たりにして、物理学者は良心の呵責から核力を制御し電気を生むものとして原発を考えた。どちらも予備実験を重ねることなく、いきなり本番だった。
少なくとも事故を想定した廃炉実験は行われていない。
東電はこれまで福島第一原発4基の廃炉作業に1兆円を投じたそうだ。これから何兆円かかるか誰も予測できない。廬溝橋事件が発生した時、これが日中戦争に発展し、さらに太平洋戦争にまで拡大するとは誰も予想しなかった。あれと同じで、東京人がオリンピック建設ブームに沸いている間に、福島に労働者が集まらなくなり廃炉コストは上昇し、作業が遅れ、ある日気がついたら、東京の地下水が汚染されていて、「オリンピック返上」ということも起こりかねない。
「福島はコントロールされている」と国際社会にスピーチした手前、政府は1,000兆円を超す国債の上に、さらに50兆円くらい福島に投じざるをえないだろう。国民医療費は年間40兆円近くになった。国の歳入に匹敵する。GDP(約600兆円)の200%を超える公的負債を抱える日本は、「世界負債国オリンピック」NO.1である。2位以下を大きく引き離している。
医療保険制度は破綻寸前、国家財政も破産寸前、東北3県から2年半で10万4,000人が立ち去った。これからも人口流出は続くだろう。
今の日本は、高く積み上げた積み木の塔のようなもので、負のエントロピーがきわめて大きくなっている。原発にしろ、経済政策にしろ、領土問題にしろ、国際金融にしろ、一手間違えて、ブロックを抜くのに失敗すると、ガラガラと崩れかねない。
恩師の追悼集を読んでいて、「発言すべき時に発言しないのは卑怯ですね。」という、旧制松本高校ドイツ語教師手塚冨雄の言葉が中日新聞「「今週のことば」に引用されているのを知った。ゲーテ「ファウスト」やシュティフター「石さまざま」の翻訳で知られる人だ。(添付1)
「4.5.17稿」とあるのは、平成4(1992)年5月17日の執筆ということであろう。「体言止め」を用いているのは、新聞社の原稿用紙は字数が少ないからだ。
それはともかく、この手塚の言葉の意味はよくわかる。恩師は生涯それを実行した。私もそれにならいたいと思う。
私にとって、当面、一番重要なことは、「修復腎移植」を公認させることである。2006年からこれに取り組んでいる。福島はその後に起きた。
重要度は後者が上かも知れないが、だからといって身はひとつ、二つのことは実行に移せない。だからせめて、発言だけでもと思っている。
幸い、あるルートを通じてこの間の福島問題についての、私の発言が政府の中枢部に届くことになった。効果があるかどうかはわからない。
他方、私は「環中国包囲網」を提唱していて、20年計画で10兆円を投じて、中国周辺国に日系工場を移転させ、周辺国からの民主主義により中国を自壊させよ、と提言している。
福島を放置し、オリンピック誘致に血眼になり、シリア軍事介入問題で、真っ先に米国支持を打ち出した安倍首相を、軽率で愚かだと思っている。元々、第一次小泉内閣の時に「拉致問題」で登場した人物だ。政治家には信念と一貫性がないといけない。人気取りはよくない。
2.【語源】1)「イカとスルメ」のたとえについて、「スルメイカ」の刺身もあるというご指摘を頂いた。
私は中国山地の山奥育ちなので、子供の頃スルメは食ったが、イカの刺身など食べた記憶がない。
プラムとプルーンの関係と、生と干物の名称の違いとして説明した時に、ついそう書いた。
が、これは解剖学者養老孟司の「バカの壁」だったかにあった、「スルメを見てイカがわかるか」という生理学や臨床からの解剖学に対する批判を意識して書いたものだ。
三省堂「新明解語源辞典」ではスルメの語源は「不明」としているが、「鯣(するめ)」を「スルメイカを開いて内臓を除き、乾かした食品」と説明し、「和名抄」に「須流米」という表現で出てくるが、「小蛸魚」と同義語になっており、イイダコのことではないか、ともいう。「岩波古語辞典」に載っていないのは、スルメが今も生きている言葉だからであろう。
軟体動物頭足類のタコとイカはよく混同され、関東の「凧揚げ」を関西では「イカ揚げ」という。平べったい胴と長い足があるから、どちらかというと「イカ揚げ」だろう。
イカ(烏賊)は古語辞典にあり、「和名抄」に「播磨風土記」からの引用があり、烏賊間川の地名由来として、「川に烏賊がいるので烏賊間川といい、伊加麻と読む」と説明しているという。(現存「播磨風土記」には、この部分が欠損。)
「和名抄」は931〜937に源順が編纂した百科事典だから、平安中期に「烏賊」という言葉があったことは間違いない。
「するめ」の方は、「言継卿記」(1569)に「礼にするめ一連持ち来たる」とあるのが、初出だそうだ。
古典落語にも、生魚と干し魚で名前が変わることを利用して、奉行に一杯食わせる男の話がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/てれすこ
要するに、イカも語源不明だが「烏賊」という漢字は「和名抄」にいうごとく「南越志」の「水面に浮いて死んだふりをし、烏(カラス)をおびき寄せてこれを巻き取って食べる」というところから、来たものであろう。「鯣」の方は和製当て字という。本来の鯣はウナギの意味だそうだ。
「北隆館・新日本動物図鑑(軟体動物)」を見ると、イカ約40種が載っていて、多くが食用になるが、刺身はスルメイカ、ソデイカ、スルメはケンサキイカが1位とあった。なおイカは動物学的和名と市場名、地方名が異なるものが多い。
(間違いがあったら水産業の向田さん、ご指摘ください。)
2)もうひとつ、研究熱心な開業医の後輩から、
<◆ 回帰熱(再帰熱)―外国語の名称
> 英語:relapsing fever
> 独語:Ruckfallfieber
> 仏語:fievre recurrente
> 羅語:febris recurrens
おもしろいことに気付いた。語源は同じだろうに、なぜ、fever(英)、fieber(独)、fievre(仏)、febris(羅)と、v
であったり b であったりするのだろうか? ラテン語がもとだとすれば、英語、仏語はなぜfever、fievreになったのであろうか?>
という質問を受けた。つまりラテン語のfebrisの「B」音は、なぜ英仏語で「V」音に変わったかという問題だ。
確かに「熱」は
>イタリア語: febbre
>スペイン語:fiebre
>ギリシア語: pyretos
である。ギリシア語のpyro-という語幹は、医学用語としては:
>pyrogen(パイロジェン)=発熱物質
>pyromania(パイロマニア)=放火魔
>pyrosis(パイローシス)=胸やけ
などに用いられている。ギリシア語はphyretosとも綴るので、これはラテン語 febrisと語源が同じだと思われる。
だが、フランス語では「熱のある(英語: feverish)」をfebrileとも綴る。(別表記はfievreuse)。
12世紀以前の「古英語」で、すでに「fefer」という綴りだったことがわかっているので、問題はラテン語を含む「ロマンス語(ローマの言葉)」がfeb-というB音を語幹にふくむのに、なぜ「ゲルマン語」に属するドイツ語でB音、英語でV音になっているのか?(フランス語にはB音もある。)という問題だと思われる。
ドイツ語の場合、「標準語」が成立したのは19世紀になってからで、長い間「低地(北部)ドイツ語」と「高地(南部)ドイツ語」が共存していました。明治以前に東日本と西日本の日本語が違っていたようなものです。
現代ドイツ語は、基本的に高地ドイツ語が元になっています。アングロサクソンは低地ドイツ人だったので、恐らくfeferという古英語は低地ドイツ語由来だと思います。
高地ドイツ語は学問の言葉で、ラテン語の影響を強く受けています。これがラテン語起源のFieberが標準ドイツ語に残った理由と思われます。
フランスは古代「ガリア」と呼ばれ、元ケルト人の土地ですが、ローマに追われて、多くがブリトン南部に移住しました。5世紀にアングロサクソンの侵入を受け、逆にフランスに戻ります。フランスのブルターニュ地方は彼らが居住し、後にノルマン人(バイキング)が侵入した土地です。ノルマンジーという海岸もあります。
1066年に彼らがブリテン島を征服、「ノルマン王朝」が始まります。
こういう歴史があるので、現代フランス語にはケルト語、ロマンス語(ラテン語)、低地ドイツ語、英語などが混じっています。
ドイツ語の「halb=半分」は英語で「half」になり、スペルがBからFに変わります。音はpからfに変わります。
次ぎにBがVに転訛する問題ですが、f音はv音に容易に転訛します。(英語では単数のcalf=仔牛は、複数だとcalvesになる。)ドイツ語のVは固有語の場合、ほとんど常にFと発音されます。(例:Vater=父、Vogel=鳥:
英語のバード、Volk=民族: e.g.フォルクスワーゲン) B = F =V
の転用は、綴りでも発音でも、印欧語の場合、わりに起こっているようです。
長々と書きましたが、ロマンス語の中で一番ラテン語が残っているのがイタリア語で、フランス語は英語と共通語が多く、最後に標準化されたドイツ語には、ラテン語の影響が強かった「高地ドイツ語」が多く入っているというのが、feverのスペルが英語、フランス語では、ラテン語
febrisと異なる理由だと思います。
Cf. H. ヴァルテール「西欧言語の歴史」, 藤原書店、2006
3.【化粧】土曜日の夜、広島駅からJR岡山行きに乗った。帰宅する客でいっぱいで、席は満席。かなりの乗客が立っていた。車両の前方にある優先席の位置に移動したら通路両側にある、8席とも若い女性6名とオバタリアン2名が占めている。こちらが近づいても知らぬそぶりで、中には「寝たふり」をしているのもいる。進行方向左手の4席は、中学か高校か、ともかくヤングの四人組が占めていてうるさいし、ケータイを取り出して電話したり傍若無人だ。
あいにく周囲に優先席に座らせたいお年寄りなどがいなかったので、黙って見ていたが、癪に触るのでばっちり撮影した。隠し撮りはお手のものだ。途中で右側の客が降りたので、通路側に坐ったら、対面の二人のオバタリアンが降りて、その後に立っていた若い女が座った。身長155センチくらい、体重は60キロはある。胴回り100センチ。脚は丸太状。顔はブス。
これが坐るやいなや、延々と化粧をはじめた。コンパクトを眺めて、眉を引いたり、アイシャドウを入れたり、おしろいを塗ったり、30分以上も自己陶酔の境地を続けた。粉で汚れた手をシートでふき、バッグから濡れティシューを出して、シートをクリーンするのかと思いきや、自分の手をふいた。シートは汚したまま。世にも珍しい見世物をじっくり見た。
ついで、何か平たい箱をバッグから取りだし、蓋を開いて、指先に何かを載せた。何とこれがコンタクトレンズ。右手の指先に載せ、左手で目蓋を開くようにして両眼に入れた。コンタクトは多くは近眼用だから、本でも読むのかと思ったら、「化粧用」らしい。何もしなかった。
「電車の中で化粧する女」が問題になったのは10年くらい前だ。その頃、東京の山手線内で出くわし、好奇心で写真撮影をした。
今はこんなローカル線でも見られるようになった。こういう連中は、自己陶酔の塊だから、周囲に注意力が働かない。盗撮されても気づかない。盗まれても殺されても気づかない。
カネボウの化粧品で白斑症が起こると、メディアが騒いでいるが、化粧品で素地より美しくみせて、男を欺こうという根性がおかしい。本当の美人には化粧品はいらない。クレオパトラはせいぜいアイシャドウ。ベルリン博物館にあるネフェルティティ像はろくに化粧もしていない。鼻ペチャで、一重まぶたで、浅黒いのが塗りたくっても魅力が出るわけはない。
皮膚の黒色はメラニンによる。これを外から漂白しようとしてもそれは無理。皮膚の最外層は「角化層」で水を通さないからだ。
メラニンは真皮乳糖層のメラニン細胞で合成され、表皮の細胞に受け渡される。メラニンはアミノ酸トリプトファンから合成される。下垂体から出るMSHというホルモンにより、メラニン合成は促進される。
色白になるには、メラニン合成を抑制しなければだめだ。化粧品にそういうものはない。あれば医薬品となり薬事法が適用される。美しくなりたかったら、まず知識を持つことだ。バカにつける薬がないと同様に、ブスにつける化粧品もない。
いうちから ...
マニラ・マバラカット・コレヒドールの戦跡を訪ねる:3日目 (マニラ) 明石DS ...
4travel.jp › 海外 › アジア › フィリピン › マニラ › マニラ旅行記
2012/04/03
- マニラでの明石DSさんの旅行記です。日本最大級の旅行クチコミサイト フォートラベルが運営。朝焼けの早朝6時過ぎ
30階からの眺めは素晴らしい! //////////////////////////////////////// 3日目:2月7日(火):晴
マバラカットへ ...
マニラ・マバラカット・コレヒドールの戦跡を訪ねる:旅立ち前 (マニラ) 明石 ...
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2012/04/03
- マニラでの明石DSさんの旅行記です。日本最大級の旅行クチコミサイト フォートラベルが運営。
はじめにこれは旅行記にあらず。わが能書き也。今までのも同じだ。 思いのままを書き連ねる。同じ事を百篇でも千篇でも。 公開する以上見て ...
マバラカット西飛行場
www15.ocn.ne.jp/~katsuori/kamikaze3.html
2008/05/05 - ここを訪れるのは、昨年9月以来2度目です。水盃が行われた場所へ行く目的でしたが、崖が険しいので止めたほうが良いとのなので、断念しました。私たちが行きたい場所へ面倒なのか、危険を心配いてか、案内して頂けませんでした。
「元祖」と「本家」の争い~~マバラカットの特攻隊慰霊碑|写真家・ノン ...
ameblo.jp/zero21nk/entry-11465175050.html
2013/02/06
- 写真家・ノンフィクション作家「神立尚紀(こうだち・なおき)」のブログ ※禁無断転載-Ameba
神立尚紀(こうだちなおき)写真家・ノンフィクション作家さんのブログです。2013年5月『祖父たちの零戦』文庫化!『一生懸命フォトグラファー列伝』『
...
神風目次へ
神風特攻隊はフィリピンで英雄だった
(2001/1/28up)
現地の「神風特別攻撃隊慰霊祭」で目撃した
「日本軍-もうひとつの真実」
ジャーナリスト 井上和彦氏
サピオ紙面
「意外な慰霊祭がフィリピンで執り行われた。『神風特別攻撃隊慰霊祭』。神風特攻隊が初めて飛び立ったフィリピン・パンパンガ州マバラカットを始めとする3カ所で行われた日本兵への慰霊祭で発見した、フィリピン人の意外な日本人観を気鋭のジャーナリストがレポートする。」
ルソン島地図 濛々と立ちあがる砂埃と共に、日章旗とフィリピン国旗を握り締めた子供達の一団が押し寄せてきた。子供達は、バンバン村を去ろうとする、我々日本人一行に大歓声を上げて「日の丸」を振りつづけるのだった・・・。
平成12年10月25日、フィリピンでは、パンパンガ州マバラカットをメインに、タルラック州バンバン、同州カパスの3か所で、「神風特別攻撃隊」をはじめ戦没者の慰霊祭が挙行された。私は、その3か所すべてをl日で回って歩いたのだが、フィリビンの子供達が会場を去る我々日本人訪問団に日章旗を振ってくれたのは、そのうちのバンバン村でのことだった。東南アジアの国々から、常に戦争の責任を追及されていると思い込んでいる我々日本人にしてみれぱ、かなり意外で嬉しいハブニングであった・・・。
「なぜ日本が戦争に至ったかよくわかる」
慰霊祭のメイン会場になったマバラカットは、首都マニラの北方約80kmに位置し、戦時中には、日本の「神風特攻隊」の飛行基地があった。最初の神風特攻隊がマバラカット飛行場から出撃して56年目にあたるこの日の慰霊祭は、鹿児島県・最福寺の住職・池口恵観氏〈63)らによって執り行なわれた。熱帯の強い日差しが照りつける会場には、池口住職の読経が流れ、あたりは厳粛な雰囲気に包まれた。
この慰霊祭には、特攻隊員の遺族ら日本からの参加者に混じって、フィリピン空軍将校やアメリカ人らも参列し、特攻攻撃で戦死した日本軍人に鎮魂の祈りが捧げられたのである。
慰霊祭にはアメリカからの参加者もあった
慰霊祭にはアメリカからの参加者もあった
慰霊祭の取材にやってきたフィリピン人ジャーナリスト・ジョジョ・P・マリグ氏(25)は語る。「この式典は日本とフィリピンの関係を知るよい機会です。私は先の大戦で戦ったすべての愛国者は”英雄”だと考えています。とりわけその尊い生命を国家に捧げた神風特攻隊員は尊敬すべき”英雄”だと思います。またカミカゼ・アタックを決断した大西瀧治郎中将も本物の”武士”です」
フィリピン空軍軍楽隊の奏でる勇壮な『軍艦マーチ』が、マバラカット飛行場を見下ろすリリー・ヒルの大地を揺さぷった。
かつて大東亜戦争の”天王山”とまでいわれたフィリピン決戦。
圧倒的物量にものをいわせて押し寄せる米軍に、反撃を試みる日本軍に残された手段は、もはや250kgの爆弾を抱えて敵艦に体当たりする特攻攻撃しか残されてい なかった。
昭和19年10月25日、関行男大尉の率いる神風特別攻撃隊「敷島隊」の5機は、ルソン島西部のマパラカット飛行場から出撃し、レイテ湾のアメリカ艦隊に突入していったのである。
この特攻攻撃を皮切りに、終戦までに陸海軍合わせて3375機の特攻機が出撃し、4279名の命が散った。もっとも、特攻攻撃を受けて沈没・損傷した連合軍艦艇は350余隻を数え、連合軍将兵を震えあがらせた。
こうした神風特攻隊も戦後の日本では”戦争の悲劇”の代名詞としてしか語られていない。
ところが、”カミカゼ”を生んだフィリピンではその捉え方がまっ たく違っていた・・・。
式典に参列したダニエル・H・ディゾン画伯(70)は静かに語る。「いまから35年前に私は神風特攻隊の本を読みました。涙がとまらなかった。・・・こんな勇気や忠誠心をそれまで聞いたことがなかったからです。同じアジア人として、このような英雄がマバラカットと私の町アンヘレスで誕生したことを”誇り”に思っています」
1974年(昭和49年)、特攻隊の生き様に感動したディゾン画伯は、神風特攻隊慰霊碑の建立を思い立ち、マバラカット市長に進言した。そして画伯が感銘を受けた『神風特別攻撃隊』の著者である中島正氏(元201航空隊飛行長)・猪口力平氏(元第1航空艦隊参謀)の協力を仰ぎながら、やっとの思いでマバラカット飛行場跡地に慰霊碑を建立することができたのだ。
しかし、残念ながらこの慰霊碑は、先のピナツボ火山の噴火によって喪失してしまったのである。Kamikaze Memorial Society
of Philippines(フィリビン・カミカゼ記念協会)の会長を務めるディゾン画伯の自宅には、自らの手になる「敷島隊」
ディゾン画伯
ピナツボ火山の噴火で埋もれてしまったが、特攻隊飛行場跡の慰霊碑建立に奔走したディゾン画伯(肖像画は画伯の手になる特攻隊員のもの。左上が関行男大尉)
の5人(関行男大尉・谷暢夫一飛曹・中野盤雄一飛曹・永峯肇飛長・大黒繁男上飛)の肖像画を掲げた、「カミカゼ・ミュージアム」が設けられている。
肖像画の前に立ったディゾン画伯は、「関行男大尉」を見つめて再び語りはじめた。「私は、ヨーロッパ・アメリカ・中国・フィリピンの歴史観を様々な角度から検証してみました。その結果、なぜ日本が立ちあがり、戦争に打って出たのかがよくわかったのです。そして日本が、欧米列強の植民地支配に甘んじていたアジア諸国を叱責した理申も理解できたのです」
私の方に向きなおった画伯は右手に拳をつくって語気を強めた。「当時、白人は有色人種を見下していました。これに対して日本は、世界のあらゆる人種が平等であるべきだとして戦争に突入していったのです。神風特別攻撃隊は、そうした白人の横暴に対する力による最後の”抵抗”だったといえましょう」
そしてディゾン画伯は、両手を固く結んで私に託すのだった。
「神風特攻隊をはじめ、先の大戦で亡くなった多くの日本軍人をどうか敬っていただきたい。これは私から日本の若者たちへのメッセージです・・・」
東南アジア諸国の中でも「反日的」と思われがちなフィリピンで、こんな考えを持つ人物に出会うとは思わなかった。
さらに、私にはディゾン画伯の、「私達フィリピン人は白人支配の犠牲者ですょ」という言葉が耳について離れない。
この”疑問符”を取り払ってくれたのは、地元通訳のマリオ・ピネダ氏(73)の証言だった。
「かつて日本の統治を受けた台湾や韓国を見てください。立派に経済的な繁栄を遂げているでしょう。これは日本が統治下で施した”教育”の成果です。・・・・ですが、アメリカの統治を受けたフィリピンでは、自分たちでモノを作ることを学ぱせてもらえなかった。人々は鉛筆すら作ることができなかったのですよ。アメリカが自分達の作ったものを一方的にフィリピンに売りつけてきたからでした」
「軍艦マーチ」を演奏するフィリピン空軍軍楽隊
慰霊祭でフィリピン空軍軍楽隊が演奏したのは、なんと「軍艦マーチ」だった。
”自由””民主主義”というアメリカン・イデオロギーだけでなく、あらゆる”メイド・イン・USA”を世界一と驕るアメリカは、植民地フィリピンに対して愚民化政策を行なっていたというのだ。
そしてピネダ氏は、「フィリピンは今でもアメリカのパペットレジーン(操り人形)ですよ」と呟き、苦笑いを浮かべた。
ディゾン画伯と同じく、ピネダ氏もまた”白人対有色人種”という意外な視点で歴史を見つめていたのである。
アジア人でありながらその多くがスペイン風の名前を持ち、かつては英語を強要されたフィリピン人なればこそ、こうした地球大の尺度を持てるのだろう。
これまでフィリピンが”親米反日的”と思われてきたのは、大東亜戦争でこの地が日米両軍の決戦場となったからにほかならない。日本軍はこの地で約50万人(全戦没者の約4分のl)の将兵を失ったが、戦場となったフィリピンの人々は一般市民を含むl80万人が犠牲となった。
ところが、こうしたフィリピン人犠牲者の多くは、アメリカ軍の無差別爆撃や艦砲射撃によるものだったのである。むろん、この事実を地元の人々が知らないわけがない。
日本人にとってのこうした”初耳”は、数え上げれぱ枚挙にいとまがない。
例えぱ、米比軍捕虜を約60kmにわたり歩かせたという「バターン死の行進」。これは、一般に日本の「蛮行」といわれている。だが、ある地元民は私にこう語った。「実は、日本軍は、米比軍捕虜をサンフェルナンドからカパスまで汽車で護送しています。捕虜達を虐待するために歩かせたように言
われるが、そんなことはない」
バンバン村の子供達が日章旗を振って見送り
バンバン村の子供達は、村を去る日本人慰霊団を日章旗を振って見送った。
また日米の攻防戦が繰り広げられたサマット山頂の博物館には、 日本軍が地元住民に医療処置を施し、友好的な交流があった事実を物語る写真が堂々と掲げられてもいる。
在比邦人何けテレビ局「WINSチヤンネル」のキャスターでウインズ・インターナショナルの社長・水島総氏(51)は、このあたりについて次のように説明する。「フィリピン人は日本で伝えられているような”反日”などではなく、むしろ親日的ですよ・・・。フィリピンの人々は戦争に対しては日本人よりも”リアリスト”です。戦争があれぱ多少なりとも悲劇はあると、現実的な考え方をしています。ですからフィリピンの人々は日本を責めようなどとは思っていません」
異民族の侵略を受けつづけたフィリピン人の痛覚は、ダイナミックな歴史観と確固たる愛国心を生んだ。そしてそんな土壌にこそ”英雄”を敬う気風が育まれたに違いない。事実、この国の国歌にも「誉れ高い英雄達の生まれた国を崇めよ」という一節がある。だからこそフィリピンの人々は、国を守るために生命をかけた神風特攻隊を”英雄”と称えるのだろう。
外国人の日本人観に多大な影響を与え、大東亜戦争における日本の精神的象徴ともいえる神風特攻隊は、フィリピンの人々に敬われ、そしてその勇気が称賛されている。 我々日本人はこうした現実も、認識する必要がありはしないか。
「カミカゼ・パイロットはヒーローです」
同じ10月25日、タルラック州バンバン村でも神風特攻隊の慰霊祭が行なわれた。
この村でも地元住民は村を挙げて日本の慰霊囲を歓迎した。そして、冒頭に記したように、帰路につこうとする我々を子供達は「日の丸」の小旗をちぎれんぱかりに打ち振って見送ってくれたのである。日本人参列者はこの光景に胸を詰まらせていた。頬を濡らす者もいた。
神風パイロットはヒーローと言い切る女子学生達
「カミカゼ・パイロットはヒーロー」と言い切る女子学生達
子供達の「日の丸」行進はどこまでも続いた。式典に参加した地元サン・ロック高校の女子学生達は声を揃える。
「Brave!」(勇敢)
その中の一人が続けた。
「フィリビンにも”英雄”はたくさんいます。ですから私達も神風特攻隊という日本の”英雄”をたいへん尊敬しています・・・・」
引率の男性教師は、「こうした歴史教育を通して、子供達に国を守ることの大切さを知ってほしいのです」と話る。
私は学生達にもう一度訊いた。
「君達は、カミカゼのパイロットを尊敬しているのですね」
エコプラネット・バンブー、日本の竹研究第一人者の渡邊政俊氏を表彰 ...
www.businesswire.com/news/home/20120420005256/ja/
2012/04/20
- (ビジネスワイヤ) --
日本は、世界の竹部門で長く重要な役割を果たしてきました。今月ベルギーで開かれた第9回世界竹会議で、日本の竹研究第一人者の渡邊政俊氏にバンブー・パイオニア賞が授与されました。
渡邊氏の生涯にわたる研究と ...
渡邊政俊 の画像検索結果
- 画像を報告
エコプラネット・バンブー、日本の竹研究第一人者の渡邊政俊 ... - 財経新聞
www.zaikei.co.jp/releases/41320/
2012/04/20 - (米イリノイ州バーリントン)- (ビジネスワイヤ) -- 日本は、世界の竹部門で長く重要な役割を果たしてきました。
京都竹カフェ|イベント報告 - 同志社大学
takecafe.doshisha.ac.jp/events3_17.html
講師: 竹文化振興協会 専門員 農学博士 渡邊政俊先生. 「京都竹カフェリレー講演会」は、竹の文化の造詣に深い講師をお招きし、「京都の伝統文化と竹」を切り口にして身の周りにある(あった?)竹について皆さんと一緒に考える機会として、3回シリーズで開催 ...
竹文化財 - 日本特用林産振興会
nittokusin.jp/wp/?page_id=44
... 竹(きっこうちく)の4種の一次加工材であり、建築、美術工芸、茶華道等の伝統文化を支える素材として欠かせない。 ※ 「原竹材に関する調査報告書」(日本特用林産振興会、平成15年3月による。取りまとめは竹文化振興協会専門員・農学博士 渡邊政俊氏)
屈託のない笑顔で皆は答えた。「もちろんです!だってあの人達はヒーローですもの・・・・」
SAPIO(小学館)2000年12月20日号「PHOTO & REPORT 神風特攻隊はフィリピンで英雄だった/井上和彦氏」より引用
なお、小学館、井上和彦氏より文章・写真の使用許可をいただいております。感謝申し上げます
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マバラカットとは - はてなキーワード - はてなダイアリー
d.hatena.ne.jp/keyword/マバラカット
「マバラカット」とは - フィリピン、マニラの北に位置する、特攻隊発祥の地。
--難波紘二
鹿鳴荘病理研究所
739-2303 東広島市福富町久芳685-7
TEL/FAX=082-435-2216
「病気は自然の実験である」
ファイル
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ら知らず、生存兵の多くはその後も彷徨を続けた。(ウィキペディア参照)
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