太陽は銀河系の中では主系列星の一つで、スペクトル型はG2V(金色)である。
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1.【書評】エフロブ「買いたい新書」の書評に、三上延「ビブリア古書店の事件手帖」を取りあげました。JR鎌倉駅北側にある架空の古書店「ビブリア」が舞台の、古書にまつわる4つの話から成り立っています。
副題が「栞子(しおりこ)さんと奇妙な客人たち」で、店主で若い女性の篠川栞子がシャーロック・ホームズ、俺こと五浦大輔がワトソン博士という格好。梶山季之「せどり男爵数奇譚」を読まれた方なら、にやにやしながら読めるでしょう。
「ビブリア古書店」に出てくる1冊が350万円という太宰治「晩年」のアンカット判(但し復刻本)の「道化の華」のページを切って読みました。厚手の和紙に印刷してあり、紙の腰が固いので西洋のペーパーナイフでは切れず、カッターナイフが必要でした。
昔の人は、この「まだ誰も読んでいないページを切る」ことに無上の喜びを感じたそうですが、私には面倒なばかりです。それがこの「晩年」の最初の短編「葉」のページが切ってあるだけで、他がぜんぜん切ってない理由でしょう。
中味は作中人物、大場葉蔵こと太宰治が銀座のバーの若い女と鎌倉袖ヶ浦で投身自殺を図り、女は死んだが葉蔵は助かり、青松園という鎌倉の結核病院に収容される。入院してから退院までの、付き添い看護婦や尋ねてきた友人たちや兄とのやりとりなど、一時の交流を淡々と書いた、随筆とも物語ともつかない、駄作である。
退院の前日、看護婦の真野に誘われて、病院の裏山に富士山を見に登るが、曇っていて見えない。こうして「冨士を見たい」という希望を抱いて、葉蔵は退院する。自殺幇助剤は、兄が動いてくれて起訴猶予になるだろうと、楽観している。
わずかに、後年の冨士のモチーフがこの時に着想されたのだとわかるのが、収穫である。
2.【続タトゥー】近藤先生から
<子供の頃、口のまわりに入れ墨をしたおばあさんを見た記憶があります。
勿論日本人です。それにお歯黒はチョイチョイ見ました。子供ながらに色気を感じた記憶があるのです!
入れ墨は兵庫県または愛知県での記憶だと思います。お歯黒は愛媛でも結構ありました。昭和一桁か、二桁の初めの頃の話です。>
というコメントを頂いた。
昭和10(1935)年のことだと仮定すると、明治4([1871)年の「禁止令」から64年後のことになります。アイヌの場合、女の子は5歳で入れ墨を初め、毎年入れる範囲を広くしたようです。
琉球の入れ墨のことが柳田邦男「海南小記」(角川文庫)所収の「いれずみの南北」という小文に少しだけ書いてありました。
柳田は、入れ墨の風習と女が額に紐を掛けて荷物を運ぶ(頭の上に載せるのではなく)風習とは、相関があり、ハチジという入れ墨の風習とイタダキという額にかけた紐で荷を運ぶ習慣は、沖縄、奄美諸島にはあるが、奄美大島が北限でトカラ諸島南端の宝島には入らなかった、と述べています。
入れ墨を意味する「ハチジ」という音は、「針突き」(ハッツキ)の転音だろうとしています。
柳田の九州・沖縄旅行は1920年のことで、「昔は小学生で入れ墨をした生徒がいたそうだが、今は老女の間にだけ見られる」と書いています。この時、彼は45歳ですから「老女」とは60歳以上の女のことかと思います。
近藤先生が見かけられたのが、それから15年後だとすると、ほぼ話は合うと思います。
なお、柳田は宝島、悪石島で見かけた手背に入れ墨をした女は、いずれも奄美大島か、沖縄糸満出身の女だったと書いています。それにしても、バードの観察と記載に比べると、絵も写真もなく記載に具体性が乏しく、学問的レベルは相当下です。
なお、お歯黒はトカラ七島では、女が13歳になった年の5月に、一回だけ付けるそうで、女になった印だそうです。口の周りに入れ墨をすることは、柳田の文には見あたりません。
バードの本には、「口の上下に幅広く帯状に入れ墨をしているばかりでなく、指関節にも帯状に入れ墨をし、手の裏には精巧な模様をつけている。」(p.296)と書いています。(アイヌの口の入れ墨の写真を探したが見つかりません。添付1はバードの旅行記に載っているアイヌ女性の手の入れ墨です。)
小シーボルトはバードより少し先に、やはり北海道流沙郡平取のアイヌ村に調査に入っています。彼の「小シーボルト蝦夷見聞記」(東洋文庫)によると、「アイヌの入れ墨は女だけに行われ、まだ7,8歳の女の子の上唇のすぐ上に、小刀で横に多発性に傷をつけ、そこに煤を刷り込むところから始まる。口ひげみたいになるが、両端が口角部で上に向かう。口の周囲の入れ墨が済むと、手背と前腕の入れ墨が行われる。女が結婚するともう入れ墨はしない」と書いてあります。(p.41-41)
なお本書訳注によると、明治の「入れ墨禁止令」は最初が1871年10月、実効性がないので、1876年9月に摘発と懲罰を科すことに禁令を改めたそうです。
沖縄に口囲に入れ墨する風習がなかったとすれば、先生が見られたお婆さんは1876年に、「入れ墨禁止令」が強化される前に、入れ墨をされたアイヌだったのだと思います。1871年生まれだったとすると、口の周りだけ入れ墨して、手にはできなかったということも起こりえたと思います。
入れ墨はM.モネスティエ「図説奇形全書」(原書房)にも章があり、「人工的奇形」に分類されています。職業的には水夫、兵士に多く、変わったところでは見世物芸人になるために全身に入れ墨をした、という例もあるそうです。添付2は、「人間シマウマ」と呼ばれたグレート・オミという芸人で、全身に黒帯状の縞を入れ、ロンドンの有名な彫り師が担当し1922年にデビュー、45年に引退したといいます。ここまで徹底した入れ墨は見たことがありません。オミが有名になったのは、「知識人の大ブルジョア」の息子だったからだ、とも書いています。
今回、「小シーボルト蝦夷見聞記」の原田信男「解説」を読んで、蝦夷のアイヌ語地名に漢字を当て、日本語にしたのが松浦武四郎だと知りました。
また伊波普猷「古琉球」(岩波文庫)を読むと、元来、南九州と沖縄の地名はアイヌ語とほぼ同じだとあります。ところが金田一京助「ユーカラ」(岩波文庫)には、知里幸恵「アイヌ謡集」(岩波文庫)とちがい、アイヌ語のローマ字表記が載っていない。金田一が勝手に日本語訳をしている。これでは言語学の資料としては使えない。索引もない。
鳥居龍蔵「ある老学徒の手記」(岩波文庫)で、彼は「琉球の土器には、台湾のヤミ族と同じものがある」と述べ、アイヌとのつながりも考えています。医学的には遺伝子とHTLV-1の分布から、沖縄=南九州=紀伊熊野=アイヌとのつながりは、ほぼ実証されています。
そういう点から、アイヌ語、沖縄語と記紀、万葉集以前の古代日本語の関係は再考されるべきだと思いますが、肝腎のアイヌ語ローマ字表記テキストがなくては、素人には手が出ませんね。
「アイヌ謡集」のようなアイヌ語と日本語の並記がしてあれば、アイヌ語の解読は「ロゼッタストーン解読」より容易です。
例えば、
Menoko=女
Kamui=神
Pito=ヒト
Wakka=水
Pirka=清い
Pirka-wakka=清流
Sake=酒
Pirka-sake=美酒(清酒)
Ainu=人間、アイヌ
Ainu-pito=アイヌ人
Utar=複数を表す語尾(我ら、たち)
Ainu-utari=人間たち(アイヌ民族のこと)
Kotan=村
Ainu-kotan=アイヌの村
Moshir=国、領土
Ainu-moshir=人間の国、アイヌの土地
Tektui=手
Chep=魚
Chep-utar=魚たち
Kamui-chep-utar=神の魚たち(鮭のこと)
ゴチの部分は、日本語と同じ単語です。また造語法は「飛行機」を「天翔るからくり」と大和言葉でいうように、基礎語をそのまま語頭に重ねており、漢字造語のように「抽象化と圧縮」がない点で、古代日本語と同じです。
大野晋「日本語の源流を求めて」(岩波新書,
2007)を読みなおしましたが、大野説では縄文時代に、西日本でポリネシア語族の一つが使われていた。そこにタミール語が到来して「大和言葉」が作られた。それが北東及び西南に広がった。東北、北海道のアイヌ語や南九州、沖縄の隼人語との関係があいまいです。ことに隼人語をポリネシア語(オーストロネシア語)としながら、アイヌ語については、何も述べていない。
これは前3,500年頃に、台湾で外洋航海用のダブル・アウトリッガー・カヌーが発明され、古モンゴロイド系の民族がフィリピン、ボルネオ、インドネシア、マレー半島へ、またハワイ、イースター島、ニュージーランドを含むポリネシア諸島に拡散をはじめ、それに伴いオーストロネシア語が各地に広まったという、最近の比較言語学と考古学の知識が取り入れられていない。
また言語年代学という統計的手法が用いられておらず、定性的手法しかない。
(Cf. J.ダイアモンド「銃・病原体・鉄」, 草思社文庫, 2012)
タミール語はインド南部とスリランカ北部の稲作地帯で話されている言葉で、もしタミール語を話す人々が日本に渡来したのであれば、どうして途中に彼らの遺跡や言語が残っていないのか、説明がつかない。
栽培イネはアフリカにはグラベリマ、インドにはサチバ・インディカ、日本にはサチバ・ジャポニカがあり、別種である。それぞれ独自に栽培種になったものだ。ジャポニカの故郷は南中国だ。
台湾を出たオーストロネシア語が、セイロン島に入り、そこから南インドのタミール地方に広まったということも考えられると思う。
その場合、日本の縄文時代の終わり頃の言語は、オーストロネシア語だったことになる。だからアイヌ語と琉球・隼人語に類似性があるということになるだろう。その後、朝鮮半島から弥生人が九州北部に到達し、そこから東に進み、本州中央部を占めるようになったので、アイヌ語と隼人・琉球語が分離されたと考える方がより矛盾が少ない。これはHLAやHTLV-ウイルスの分布とも一致している。
征服者が少数だった場合、言語学的には原住民の言葉が主流になり、征服者の言葉は部分的にしか残らないことは、12世紀の「ノルマン征服」の結果、古英語が中世英語に変わったが、激変はなかった例をみればわかる。折口信夫「死者の書」に奈良時代、上流階級と庶民の言葉が違っていて、意思疎通が難しかったことが書いてあるが、そういう時代が英国にもあった。
3.【夢】昨夜、11月に開かれる「偲ぶ会」のために、亡くなった友人の「想い出」を原稿用紙3枚に綴った。例によって写真や出版物を調べ、記憶を確かめながら書いたので、一時的にワーキング・メモリーが沢山蓄積されたのだろう。
今日、昼食後にちょっと昼寝をしたら、3時間も眠ってしまった。レム睡眠2サイクル分だ。
目覚める直前に、その友人に博多で会って会話する長い夢を見た。場所は博多駅の筑紫口にある空中回廊の広場のような所だ。
死病に取り付かれる前の顔をしていて、ちっとも歳とっていなかった。死んだ人と話しているとも気づかなかった。
話の内容も克明に覚えているが、それは書かない。
目が覚めて仕事場にもどり、これが「胡蝶の夢」かと思った。
机に向かい、政治評論家岩見隆夫の「サンデー時評」(「サンデー毎日」9/22号)が亀井静香の「京都遷都論」(天皇が京都へ還る)を取りあげているのを読みなおし、ふと1970年代後半に作られたミュージカル「太平洋序曲」(Pacific
Overture)を思い出した。ワシントンD.C.のケネディ・センターで観劇した。
ペリー艦隊が浦賀にやってきて、幕府に開国を迫る話をもとにしたものだ。映画「砲艦サンパブロ」で中国人船員を演じた日系のマコ若松が、主役の井伊直弼か誰かを演じていた。幕府が何か決定をする前に、使者が京都に走る。天皇がそこにいるからだ。
使者は何度も江戸と京都の間を往復する。その伴奏音楽も憶えている。
が、天皇は劇中では人間ではなく、何枚も重ねた座布団の上に座る小さな操り人形だった。
明治天皇(1852〜1912)は践祚(即位)した時(1867)15歳の少年だった。「ぐずぐず言うのなら、元の貧乏な地位に戻しますよ」と明治になって、岩倉だか大久保だったか、元勲が言うことを聞かない天皇をおどしたという話もある。要するに薩長と一部の公家が、天皇を政治的にあやつっていたのである。
そういう史実を知って観ると、このミュージカルは日本の天皇に対する痛烈な皮肉になっていた。1976年は「米独立200周年記念」の年で、前年に天皇皇后が初訪米した。
これに合わせて、こういうミュージカルを上演するのだから、「西欧社会における風刺の伝統」というのは相当なものだ。
この時の首相は三木だが、ワシントンの日本大使が米政府に抗議したという事実はない。安倍首相もフランスのたかが一雑誌「アヒル」が載せたマンガぐらいで目くじらを立てていては、器量のほどが問われよう。
オリンピック誘致成功を契機に、東京は都市の改築をするらしい。だが一極集中構造を解消しないで、このまま巨額の資金を投じてどうなる。30年以内にまた大地震が起きる確率はきわめて高い。寺田寅彦が「断水の日」で論じたように、ガスも電気も水道も地下鉄もストップしたら、東京の都市機能は麻痺する。暮らしも成り立たない。人口が多いだけに、地方からは救援できない。東京人は「みんな死ぬから怖くない」ようだ。
3・11以後、東京から西日本に立ち去った人もいる。収入が三分の一に減ったそうだ。
私は常々「東京では人は実力の3倍に評価される」と言っているから別に驚かない。本省の国家公務員だと、東京では2割の手当がつく。地方に出ると同額の「僻地手当」が出る。つまり地方採用と本省採用では、給与が違う仕組みになっている。民間でも同じようなものだろう。
三橋貴明「疑惑の報道」(飛鳥新社)を読むと、元NHK経理部の職員が「平均年収は1700万円」と証言している(P.153)。チャンネル桜の水島は、NHKの「平均給与は約1190万円プラス福利厚生費」と述べている(P.259)。元毎日常務取締役河内卓の証言だと、民放には「年収2000万円のテレビ局職員」がゴロゴロいるという(P.82)。
地方は物価は安いし、空気も良い。家も安い。私の住む町ではダム湖を望む一等地の土地75.3坪と2階建て住宅(築12年、リフォーム済、建坪41坪)を、税込み1,650万円で売り出している。「レイクヒル」という住宅団地で、郵便局、ヤマト運輸、町役場、道の駅、公園が歩いて3分のところにある。
この町は、町の真ん中にダム湖があるという面白い構造をしている。湖を取りまいて、いろいろな集落や果樹園や学校がある。
湖に突き出した丘を削ってできたのがこの団地だ。団地のはずれに墓地があり、そこの東屋から湖面がよく見えるので、気に入って墓地を買った。ピクニックにもってこいだ。
アメリカでは普通の労働者の2年分の年収で家が買える。その家は百年住宅だから、値が下がらず、引退したらまた売って、フロリダかハワイに家が買える。
日本でも政治家がきちんと国家百年の計を立てていれば、ちゃんとそうなるはずなのに、荷風が嘲笑したように「山師の玄関」をつくろうとするから、そうならない。関東大震災、東京大空襲と天変地異のたびに、「玄関」を作り直している。
このIT時代に、通勤などに無駄な時間を使い、「通勤手当」などという時代遅れの経費を支払っている。要は発想を転換すればよいのだ。私は通勤時間が無駄だから、大学に近い現在地に居を移した。原野だから広い土地が買え、そこに定年後の仕事場も作れた。
40代で、病院から大学に移ったら年収が半分になった。それでも何とかやりくりして、子供2人は留学もさせた。ただ一旦上げた生活レベルを落とすのは、並大抵の覚悟ではできない。
一家の経済も国家の経済も同じで、収入を増やすよりも支出を減らせば、自然にストックができるものだ。案ずるに及ばない。
東京人には都落ちを薦めたい。
4.【間抜け】「間」とは本来は空間的スペースのことだ。だから部屋を間という。芝居や落語ではセリフとセリフの継ぎ目の間隔をいう。音楽では休止符による楽節や楽章の切れ目をいう。(「広辞苑」、「国語大辞典」)
「間」は聴き手に最大効果を与える空白時間として経験的に認識されてきたものだが、ちゃんと大脳生理学的な意味がある。
「間」は、0.5秒前後が望ましい。なぜなら耳から入った音が大脳の聴覚中枢に伝えられ、そこで処理されて前頭葉に伝えられ、意味として理解されるか、感動として理解され、意識として立ち現れるまでに(個人差があるが)、およそ0.5秒かかるからだ。
久しぶりにNHK・TVを見たらNスペで「消費税」問題をやっていた。アナウンサーと政治家の甘利以外は、しゃべり方が「間抜け」であきれてしまった。きっと演説も大学での講義もしたことがないのであろう。客寄せの講演会では、聴衆は講師の着衣とかネクタイを見ていて、ろくに話を聞いていないから、それでよいのである。
テレビのゲストの話は、「、」が来るべき所で間をおき、「。」のところで間を置いていないから、「立て板に水」式のしゃべりになる。発音も下手で、何を言っているのかさっぱり判らない。小泉純一郎が天才的だったのは、短い決めぜりふを美事な間を置いてしゃべったからだ。「ワンフレーズ・ポリティックス」という批判も、ポピュリズムだという批判もあったが、政治家というものは、リンカーンであれ、ヒトラーであれ、言葉で人を動かさないといけない。
日本語が崩れたのは1974年の全共闘運動以来だ。あの世代の影響を受けた若者に「われわれわぁー」という語尾を上げる独特の発音法が始まった。
もうひとつは関西の「早口漫才」に端を発する、セリフ間にほとんど間を置かないしゃべり方である。漫才ならわかれば笑うし、判らなければ笑わないから、反応がすぐにわかる。が、論理的な理解を要するような話は、これではダメだ。
アナウンサーは発音や話し方について、きちんとトレーニングを受けている。が、出ていたゲストはそういう基本ができていない。あの程度の人物でも東京では通用するのか思わすような、発音としゃべり方、それに中味だった。見ておれず、途中で席を立った。
独立した家計を営むようになってからずっと、NHK受信料はちゃんと払ってきた。大阪での受信料支払い率(不払い率ではない)は25%だそうだ(上記書P.175)。
映画にはオーディションがあるが、NHKにはない。まともな日本語も喋れず、中味のある話もできないような人物を、NHKに出さないでもらいたい。さもなくば、もっと多くの人が対抗措置を取るようになるだろう。三橋本にはテレビからカードを抜き取るだけでよいと書いてある。
-- 難波紘二
鹿鳴荘病理研究所
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1.【書評】エフロブ「買いたい新書」の書評に 呉善花「私はいかにして<日本信徒>となったか」を取りあげました。
http://www.frob.co.jp/kaitaishinsho/book_review.php?id=1378451287
1956年、済州島に生まれ、1960年代に始まる反日教育と漢字廃止教育を受けた世代です。生まれた場所は「朝日」が持ち上げた詐欺師、吉田清治が著書「私の戦争犯罪:朝鮮人強制連行」(三一書房
1983)で,「慰安婦狩り」をしたと偽証している島の、東端部,表善里村の近く。
彼女は1983年,大学留学のため来日し,1991年に日本に帰化している。岩手県生まれの在日韓国人鄭大均(旧東京都立大学教授)が「在日韓国人の終焉」(文春新書,2001)を書き,「在日よ,日本に帰化せよ」と発言する10年も前のことです。呉善花は「スカートの風」(1990)以来,同シリーズで日本と韓国の文化の違いを紹介して異文化交流に貢献しましたが、旧祖国では不評で、2007年と2013年7月に韓国政府が空港で入国を拒否するという言語道断な措置を目に遭っています。この夏の拒否原因は「韓国併合への道・完全版」(文春新書)の出版にあるのだろう。
本書は現在,拓殖大学国際学部教授である彼女の自叙伝といえよう。題名は内村鑑三の有名な「余は如何にしてキリスト教徒となりしか」(岩波文庫)をもじっている。緑茶を飲む習慣のない韓国人が,マンションの一室に小さな茶室を造り,その隠し扉の奥に神棚と仏壇を置き,両親を偲ぶ空間にしているという。どうしてここまで「日本信徒」
になったのか、その過程を述べたものです。
李御寧「<縮み>志向の日本人」(講談社学術文庫)は1934年生まれ、ソウル大卒のエリート知識人が日本留学後に日本語で書いた日本文化論。韓国版もベストセラーになりました。彼は梨花大学教授(現名誉教授)なので、
済州島の貧しい農村に生まれた韓国人とソウルのエリートでは、人生の軌跡が異なり、ちょうど戦前の朝鮮人来日の事情、あるいは日本人移民の海外渡航の理由が異なるような関係だと分かります。
李御寧の本も、よい本だと思います。
2.【渡航移植】中国での渡航腎移植について、ある暴力団関係者が「日経ナックルズ」記者にこう証言している。
http://n-knuckles.com/street/underground/news000334.html
<――今までに何人くらい中国に連れて行ったのか。
「300人くらいだな。年に50~60人ってところ。これだけ人数が多いから、俺は1割のマージンでもやっていけたわけだ。街金を通して腎臓を売りたいって奴らはひっきりなしに来る。そっちからも報酬で出るから、結構いい稼ぎにはなったな。それに日本人の臓器は結構いい値がつくらしいんだよ。その代わり、買い手から敬遠されるのはフィリピンとか。あそこは麻薬とかで汚い腎臓が多いらしいよ。まあ、こんなところで勘弁してよ。臓器の話は>
「年に50〜60人」というのはドナーとレシピエントを合わせてかと思ったが、記事をよく読むと「売り手(ドナー)」だけの話だ。山谷か西成か場所は不明だが、
ドヤ街の住人の話だろうか。この関係者は6年ほどで300人を中国に連れて行ったと証言している。これが全体の1/10とすれば、少なくとも3000人の腎臓ドナーが中国に渡って、摘出手術を受けたことになる。
「6年前」というと2007年、「宇和島腎臓売買事件」が初めて報道された翌年である。腎臓が金になると知り、「臓器移植法」が実質及ばない中国にドナーを連れて行き、腎臓を摘出させるのである。この男はドナー専門で、レシピエント専門の奴もいるらしい。その腎臓を移植された日本人もいるだろう。理論的には最大3000人いる。この他に中国人死刑囚に由来する腎臓やタイ、フィリピンなどで腎移植を受けた人もいるから、<年間500〜600人>が全国に散らばっているのではないか。
自治医大医学部小林英司教授の研究によると、「日本臨床腎移植学会」に登録している136施設に、8297人の外来通院している腎移植患者がおり、うち198名(2.4%)が海外で腎移植を受けていた。(2006年3月の「研究報告書」データ)
このうち、渡航国名を明らかにした180名の渡航先を見ると、次のようになっている。
中国=106人、フィリピン=30人、米国=27人、韓国=11人、タイ=2人、フランス、パキスタン、インド、ペルー=各1人
こちらはレシピエントの方のデータであり、マッチするドナーは外国人である可能性が高い。
どの国でも移植用の臓器は不足しているが、脳死体からの臓器移植が一向に普及しない日本では、他方に透析中の慢性腎不全患者が30万人もいるから、「100年待ち」(高原阪大教授)と移植学会理事長がいうほど、腎臓が絶望的に不足している。
勢い、金のある人は海外で腎移植を受けたい、ということになる。行き先は人口が多く、腎臓を売りたい貧乏人も多い、中国がメインだ。
2000年頃から死刑囚の腎臓を移植に使用するようになり、中国での腎移植は急速に増えた。この場合は、法的には「臓器取り引き」といえない。
2008年までに宗教団体「法輪講」のメンバーなど6万5000人の死刑囚が処刑され、13万個の腎臓が移植に利用されたという。
http://www.epochtimes.jp/jp/2013/08/html/d13820.html
が、中国の病院は透明性が低いから、レシピエントには何処からの腎臓かわからない。可能性としては「売られた腎臓」であることを否定できない。
ここに来て、海外(中国とタイ)で腎臓移植を受け帰国したところ、患者が日本国内で受診を拒否されたという情報に接した。神戸大のケースでは理由も告げず、拒否されたという。私でさえ2例の情報に接するのだから、実態はその10倍、100倍あると思われる。
この問題は、07/7に「毎日」が2回取り上げ、
http://sokonisonnzaisuru.blog23.fc2.com/blog-entry-482.html
その後、TBS「イブニング5」が「渡航移植者の診療拒否」(07/9/11)として、報道している。
http://www.tbs.co.jp/eve5/inochi/20070911.html
「正当な事由のない診療拒否」は医師法19条第1項「医師の応召義務」に違反している。にもかかわらず、こういう事例が出るのは「もしかして犯罪に巻き込まれたら」と医師が考えるからだろう。患者よりもわが身が可愛いのである。
さらに、国外での腎移植患者の治療をしたことがわかれば、厚労省の監査を受ける恐れがあり、診療報酬の返還や保険医療機関取り消しなどの処分を受ける恐れがある。経済的、社会的に大きなダメッジを被る恐れがある。
こういう事態への過剰な心配が医師の萎縮診療をもたらしているようだ。医師のモラルを麻痺させているのだろう。
「臓器の移植に関する法律」第11条で医師に禁止されているのは、「第5項:何人も、臓器が前各項の規定のいずれかに違反する行為(臓器売買)に係るものであることを知って、当該臓器を摘出し、又は移植術に使用してはならない。」の通りであって、法が禁じているのは「売買がらみの臓器の摘出と移植術」である。しかも「知っていて」やった場合を問題にしている。
「知る」というのは、通常の「善良なる管理者」の注意義務を規定しているにすぎず、移植医が「犯罪捜査」に近い調査の義務を負うわけでない。
日本の法律はわざとあいまいな書き方をしておいて、違法、適法の解釈は「運用解釈」と称して、役人が自由に振る舞えるようにできている。
渡航移植だろうと、国内移植だろうと、移植後のレシピエントの治療はしなければいけない。売買があったかどうかは関係ない。それが医師に必要な倫理である。
売春は悪だとされているが、その起源はメソポタミアにおける神殿売春にある。処女は神殿に巫女として仕え、男に身体をまかせた。その代金は神殿に奉納された。年期奉公が明けると、晴れて結婚が許されたのである。4世紀にアウグスチヌスが出て、原罪思想に基づき性を悪としてので、個人売春がキリスト教で悪とされるようになった。
欧米で渡航移植を受けると、もちろん(心臓移植などでは)億単位の金がかかる。保険が利かないからだ。でその金は病院や大学に寄付する。研究費(グラント)と同じ扱いになる。移植施設はそこから入院、手術、薬剤、ドナー遺族(脳死体の場合)への謝金、補償、コーディネーター経費、輸送費などを支払う。もちろん医師、看護婦などの手当も支払う。
東アジアではこういう洗練された臓器システムが未発達なので、「個人取り引き」の性格がつよい。それが悪だとされるゆえんであろう。
しかし、やがては中国でもタイでも、欧米型のシステムが整備されるだろう。田中紘一氏が三菱商事と組んで、シンガポールでやろうとしていることは、それだと私はにらんでいる。シンガポールは「臓器提供をしない」という明白な意思表示をしないで死んだ人からの臓器摘出が合法的な国だ。やがて隣国のマレーシアもインドネシアもそういう洗練された方式を導入するだろう。恐らくそういうシステムは中国でもタイでも10年以内に出来上がる。ドナー保護をうたった「イスタンブール宣言」に矛盾しないからだ。
そうなると、渡米移植よりも経費が安い東アジア・東南アジアへ「研究費を寄付し」、見返りに「臓器移植を受ける」患者が日本から殺到するだろう。「臓器売買だ」というケチを日本移植学会らつけられる恐れがなく、「診療拒否」をされる恐れもないからだ。修復腎移植に関してこれらの国は禁止していないから、「小径腎がんの全摘費用」を寄付金からまかなうとすれば、ドナーは殺到するだろう。
日本移植学会の幹部は、こういう近未来の風景を想像することができないでいる。シンガポールのチャンギー空港はアジアのハブ空港だ。国内のあちこちから直行便が出ている。公用語は英語だ。
患者も、腕を磨きたい若い移植外科医もすぐに飛んで行ける。そういう流れが生じたら、日本移植学会の未来はどうなる?大学の「移植外科講座」は将来的にどうなる?
TPP交渉も年内には大枠が見えてくるだろう。医療の国際化は避けて通れない。学会幹部は頭を開国する必要があろう。
2006年暮の松山地裁判決で、裁判長は「「死体からの臓器提供が著しく不足し、多数の待機患者が存在する中で、起こるべくして起きた事態であることを否定できない。国は早急に法整備やガイドラインを策定し、再発防止に努めるよう強く希望する」と判決文の中で述べた。
その後2008年5月に、国際移植学会は「イスタンブール宣言」を発表し、渡航移植の抑制と「自国に必要な移植用臓器は自国で調達する」ことを呼びかけた。誰が読んでも「世界一臓器が不足している国」日本が対象になっていることは明白であろう。
それなのに、厚労省も日本移植学会も、移植用腎臓の提供数を増やす努力をしていない。それどころか「修復腎移植」の先進医療認可さえ、妨害し却下させた。
首都直下型地震は間違いなく起こる。新潟、群馬、埼玉3県の知事が、それに備えて「透析患者の受け入れ」を話しあっている。
http://www.niigata-nippo.co.jp/news/politics/20130827063010.html
だが高価な透析機を予備として沢山備えておくのは非現実的だ。それよりも重要なことは「腎移植を増やし、透析患者を減らし」ておくことだろう。
こうした問題に対して、移植学会は何ら有効な対策を打ち出せないでいる。
この9/3〜9/7、京都で開かれた「アジア移植学会」(高原史会長)、「日本移植学会」(沢芳樹会長)に参加した複数の医師から話を聞いたが、一般会員の中に現執行部の無能・無策を問題視する意見はなく、高原移植学会理事長も、自分が問題の製薬会社の寄付講座教授であることについての、良心の疼きや痛痒はまったくないそうだ。
それどころか、「渡航移植を受けた患者の治療をしない」というのは、関東と関西ともに、移植学会幹部たちが「保険適用外」という噂の発信源であるという。「腎移植をしなければ、透析患者が増え、そちらで十分に儲かる」という構図だ。実際、移植学会理事長は大阪でトップクラスの透析病院で「併任兼業」をしている。移植医の裏の顔が透析医なのである。腎不全患者はたまったものではない。
まったく、K.V.ウォルフレン「人間を幸福にしない日本というシステム」(新潮文庫)、そのままの状況だ。
高橋さんの「修復腎移植が透析患者を救う(仮題)」の予告がAMAZONに載った。
http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_ss_c_0_5?__mk_ja_JP=カタカナ&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=修復腎移植&sprefix=修復腎移植%2Caps%2C283
発売は11月末になっているが、これは奥付の刊行日のことで、実売は10月中頃になるだろう。
間もなく初稿印刷原稿が届くことになっているので、読むのが楽しみだ。
青山さんの「小説修復腎移植」にも、レビューが付いたようだ。林弁護士の本も売れているようだ。
フロリダ大ハワード教授が名付け親の「修復腎移植」という言葉が普及し、これが日本でも公認される日が少しでも早く来ることを望みたい。
間もなく10/1が来る。7年前のこの日、愛媛県警は日本初の「腎臓売買事件」を摘発した。その後の私の調査では、捜査に1年以上を掛けたのは「医師がらみ」というシナリオをあらかじめ描いていて、厚労省移植対策室とも密接な連絡を取っていたからだ。日本初の事件だから、移植学会幹部も事前に意見聴取されていた。つまり下手をしたら「厚労省村木課長」事件と同じように、冤罪を生んでいたかもしれない。
大島伸一副理事長が厚労省の外口局長と密接な連絡を取り、「朝日」が「二人三脚」と評したように「病腎移植禁止」へと走ったのには、裏にそういう事情がある。その大島氏は「もうすぐ(国立長寿医療研究所=最近研究員の不正が複数発覚した、を辞め)年金暮らしに入るのに、裁判が続くのはかなわん」と洩らしているそうだ。確かに「辞めたらただの人」だから、会員数が減少している移植学会の法廷闘争資金援助がいつまで続くかわからない。究極的には個人負担になるだろう。
私は「日本の学者は自分の頭で考えず、外国に例があると無批判に受け入れる」から、修復腎移植の実現には10年はかかるだろうと思っていた。
日本で最初に生体肝移植をやった島根医大の永末移植を評価せず、遅れて始めた京大の田中紘一が栄誉を奪った。しかも「病気肝臓移植」を始めたのは田中なのに、それは一切問題にしないで、宇和島の田舎町で行った病腎移植は、学会理事長田中紘一を始め、学会がマスコミと一緒になって、潰してしまった。「何をやったか」ではなく、「誰がやったか」が問題にされる国だ。そんな国では、ビル・ゲーツもスティーブ・ジョブズも、GOOGLEもスマート・フォンも出現のしようがない。
だが10年までには、あと3年ある。もう一踏ん張り頑張らなくてはと思う。
3.【連用止め】新聞の見出しを見て、腹立たしく思うのは、この「火星のメタンはごく微量、生物の可能性小さく
NASA」というような「連用形止め」の見出しを見つけた場合だ。「小さい」は形容詞だ。その連用形が「小さく」である。連用形は後に動詞(「ない、ある」など)を付けねばならない。
http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2969448/11378147
「書く」の「く」は動詞の終止形だが、「小さく」の「く」は形容詞「小さい」の連用形で活用形が異なる。そういうことをどれだけ意識して新聞記者は記事を書いているのであろうか?
ドイツ語と日本語では否定詞が文の後に付くから、文の初めの方で述べてあることが、最後の一語「nicht」とか「ない」により、全否定されることがある。記事を読めば、「火星にはメタンがほとんどないから、生命が存在する可能性は低い
とNASAが発表」という意味だとわかる。しかし、見出しの「小さく」では、後に「ある」が来るのか「ない」が来るのかで、意味が全く異なる。
元もと見出しやリード文は本文の要約としてあるので、記事本文の「体言止め」と異なり、用言(動詞、形容詞、形容動詞)を連用形で用いるのは邪道だろう。「名もなく貧しく美しく」(映画題名)のように、わざと解釈に余韻を持たせるために、形容詞の連用形を用いる例はある。映画のタイトルは文学の一種だが、新聞記事は文学ではない。その基本使命は正確な情報伝達にある。
私は本当は文法が大嫌いだ。同じ性質の品詞なのに、日本語と英語とドイツ語では、分類の仕方も名前もぜんぜん違う。だから文法など無視して、各国語を学んでいる。15万年前にはどうせひとつの言葉だったのだから、同じような文法がある。ただ国ごとに文法学者がいるから、飯のタネに異なった文法があるといっているにすぎない、と思っている。
現に日本語だけでも、橋本文法、時枝文法、山田文法など何種類もある。いずれも、日本語ワープロを開発する時には、ほとんど役に立たなかったという。
新聞でときおり見かける見出しの「連用(形)止め」には、引っかかるものを感じていたが、なぜおかしいかを文法的に説明できなかった。
それで高校時代の「日本語文法書」を2冊ほど読み、やっと謎が解けたので、余計なことを書いた。
-- 難波紘二
鹿鳴荘病理研究所
739-2303 東広島市福富町久芳685-7
TEL/FAX=082-435-2216
「病気は自然の実験である」
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