太陽は銀河系の中では主系列星の一つで、スペクトル型はG2V(金色)である。
三島由紀夫
| 三島 由紀夫 (みしま ゆきお) | |
|---|---|
| ペンネーム | 三島 由紀夫 |
| 誕生 | 平岡 公威 1925年1月14日 |
| 死没 | 1970年11月25日(45歳没) 陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地 |
| 墓地 | 多磨霊園 |
| 職業 | 小説家、劇作家 |
| 言語 | 日本語 |
| 国籍 | |
| 教育 | 法学士(東京大学・1947年11月) |
| 最終学歴 | 東京大学法学部法律学科卒業 |
| 活動期間 | 1941年 - 1970年 |
| ジャンル | 小説、戯曲、評論、随筆 |
| 主題 | 古典美、日本の雅 超越的な美意識、源泉の感情 悲劇性を帯びた美的存在 被疎外者における純粋 芸術と人生、生と死 精神と肉体、言葉と行動 認識と行為、存在と当為 文武両道、大和魂、憂国、皇国 |
| 文学活動 | 日本浪曼派 第二次戦後派 耽美派 |
| 代表作 | |
| 主な受賞歴 | |
| デビュー作 | |
| 配偶者 | 平岡瑤子 |
| 子供 | 平岡紀子、平岡威一郎 |
| 親族 | 松平頼救(五世祖父) 松平乗尹(義五世祖父) 平岡太左衛門、三好長済、松平頼位、橋一巴(高祖父) 永井尚志(義高祖父) 平岡太吉、永井岩之丞、瀬川朝治、橋健堂(曽祖父) 平岡定太郎、橋健三(祖父) 平岡なつ、橋トミ(祖母) 平岡梓(父)、倭文重(母) 平岡千之(弟)、美津子(妹) 橋健行、橋行蔵(伯父) 平岡萬次郎(大伯父) 大屋敦(大叔父) 平岡萬寿彦、磯崎叡、永井三明(父の従兄弟) |
| 署名 | |
三島 由紀夫(みしま ゆきお、1925年〈大正14年〉1月14日 - 1970年〈昭和45年〉11月25日)は、日本の小説家、劇作家、随筆家、評論家、政治活動家。本名は平岡 公威(ひらおか きみたけ)[2][3]。
戦後の日本の文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、日本国外においても広く認められた作家である[4][5][6]。『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもある[7]。
代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、戯曲に『近代能楽集』『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』などがある。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴である[8][9]。
晩年は政治的な傾向を強め、陸上自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。1970年(昭和45年)11月25日(水曜日)、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁。バルコニーで自衛隊員にクーデターを促す演説をしたのち、割腹自殺を遂げた。この一件は社会に大きな衝撃を与え、民族派から派生した新右翼を生み出すなど、国内の政治運動や文学界に大きな影響を与えた[10][11][12](詳細は「三島事件」を参照)。
満年齢と昭和の年数が一致し、その人生の節目や活躍が昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、「昭和」と生涯を共にし、その時代の持つ問題点を鋭く照らした人物として語られることが多い[13][14][15][16]。
※ なお、以下では三島自身の言葉や著作からの引用部を〈 〉で括ることとする(家族・知人ら他者の述懐、評者の論評、成句、年譜などからの引用部との区別のため)。
生涯
[編集]出自
[編集]#家族・親族も参照。

(樺太庁長官時代)
1925年(大正14年)1月14日(水曜日)、東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷四丁目22番)において、父・平岡梓(当時30歳)と母・倭文重(当時19歳)の間の長男として誕生[2][3]。体重は650匁(約2,438グラム)だった[17][3]。「公威」の名は祖父・定太郎による命名で、定太郎の恩人で同郷の土木工学者・古市公威男爵にあやかって名付けられた[18][19][3]。
家は借家であったが同番地内で一番大きく、かなり広い和洋折衷の二階家で、家族(両親と父方の祖父母)の他に女中6人と書生や下男が居た(彼らは定太郎の故郷から来た親族だった[20])。祖父は借財を抱えていたため、一階には目ぼしい家財はもう残っていなかった[21]。兄弟は、3年後に妹・美津子、5年後に弟・千之が生まれた[2]。
父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て、高等文官試験に1番で合格したが、面接官に悪印象を持たれて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止に伴い、農林省に異動)に勤務していた[22]。岸信介、我妻栄、三輪寿壮とは一高、帝大の同窓であった[23][24]。
母・倭文重は、加賀藩藩主・前田家に仕えていた儒学者・橋家の出身。父(三島の外祖父)は東京開成中学校の5代目校長で、漢学者・橋健三[19][25]。
祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村大字上富木(現・兵庫県加古川市志方町上富木)の農家の生まれ。帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業後、内務省に入省し内務官僚となる。1893年(明治26年)、武家の娘である永井夏子と結婚し、福島県知事、樺太庁長官などを務めたが、疑獄事件で失脚した(のちに無罪判決)[26]。
祖母・夏子(戸籍名:なつ)は、父・永井岩之丞(大審院判事)と、母・高(常陸宍戸藩藩主・松平頼位が側室との間にもうけた娘)の間に長女として生まれた。夏子の母方の祖父・松平頼位の血筋を辿っていくと徳川家康に繋がっている[25][27]。夏子は12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えた。夏子の祖父は江戸幕府若年寄の永井尚志[19][25]。なお、永井岩之丞の同僚・柳田直平の養子が柳田國男で、平岡定太郎と同じ兵庫県出身という縁もあった柳田国男は、夏子の家庭とは早くから交流があった[28]。
作家・永井荷風の永井家と夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)で、夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたる[29]。公威は、荷風の風貌と似ている梓のことを陰で「永井荷風先生」と呼んでいた[24]。なお、夏子は幼い公威を「小虎」と呼んでいた[25][30][3]。
祖父、父、そして息子の三島由紀夫と、三代にわたって同じ大学の学部を卒業した官僚の家柄であった。江戸幕府の重臣を務めた永井尚志の行政・統治に関わる政治は、平岡家の血脈や意識に深く浸透したのではないかと推測される[13]。
幼年期と「詩を書く少年」の時代
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公威と祖母・夏子とは、学習院中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた[31]。公威が生まれて49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実のもと、夏子は公威を両親から奪い自室で育て始め、母親の倭文重が授乳する際も懐中時計で時間を計った[17][19]。夏子は坐骨神経痛の痛みで臥せっていることが多く、家族の中でヒステリックな振る舞いに及ぶこともたびたびで、行儀作法に厳しかった[19][31]。
公威は物差しやはたきを振り回すのが好きであったが没収され、車や鉄砲などの音の出る玩具も御法度となり、外での男の子らしい遊びも禁じられた[19][31]。夏子は孫の遊び相手におとなしい年上の女の子を選び、公威に女言葉を使わせた[31][32]。1930年(昭和5年)1月、5歳の公威は自家中毒にかかり、死の一歩手前までいく[17][19]。病弱な公威のため、夏子は食事やおやつを厳しく制限し、貴族趣味を含む過保護な教育をした[17][31]。その一方、歌舞伎、谷崎潤一郎、泉鏡花などの夏子の好みは[33]、後年の公威の小説家および劇作家としての素養を培った[34]。
1931年(昭和6年)4月、公威は学習院初等科に入学した。公威を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある夏子の意向が強く働いていた[2][35]。平岡家は定太郎が元樺太庁長官だったが平民階級だったため、華族中心の学校であった学習院に入学するには紹介者が必要となり[2]、夏子の伯父・松平頼安(上野東照宮社司。三島の小説『神官』『好色』『怪物』『領主』のモデル[36])が保証人となった[35][注釈 1]。
しかし華族中心とはいえ、かつて乃木希典が院長をしていた学習院の気風は質実剛健が基本にあり、時代の波が満州事変勃発など戦争へと移行していく中、校内も硬派が優勢を占めていた[37][38]。級友だった三谷信は学習院入学当時の公威の印象を以下のように述懐している[39]。
公威は初等科1、2年から詩や俳句などを初等科機関誌『小ざくら』に発表し始めた。読書に親しみ、世界童話集、印度童話集、『千夜一夜物語』、小川未明、鈴木三重吉、ストリンドベルヒの童話、北原白秋、フランス近代詩、丸山薫や草野心平の詩、講談社『少年倶楽部』(山中峯太郎、南洋一郎、高垣眸ら)、『スピード太郎』などを愛読した[40][41]。自家中毒や風邪で学校を休みがちで、4年生の時は肺門リンパ腺炎を患い、体がだるく姿勢が悪くなり教師によく叱られていた[19][32]。
初等科3年の時は、作文「ふくろふ」の〈フウロフ、貴女は森の女王です〉という内容に対し、国語担当の鈴木弘一から「題材を現在にとれ」と注意されるなど、国語(綴方)の成績は中程度であった[42]。主治医の方針で日光に当たることを禁じられていた公威は、〈日に当ること不可然(しかるべからず)〉と言って日影を選んで過ごしていたため、虚弱体質で色が青白く、当時の綽名は「蝋燭」「アオジロ」であった[32][39][43]。
初等科6年の時には校内の悪童から「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれているのを三谷が目撃している[39][44][45]。
この6年生の時の1936年(昭和11年)には、2月26日に二・二六事件があった。急遽、授業は1時限目で取り止めとなり、いかなることに遭っても「学習院学生たる矜り」を忘れてはならないと先生から訓示を受けて帰宅した[46]。6月には〈非常な威厳と尊さがひらめいて居る〉と日の丸を表現した作文「わが国旗」を書いた[47]。
1937年(昭和12年)、学習院中等科に進んだ4月、両親の転居に伴い祖父母のもとを離れ、渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松濤二丁目4番8号)の借家で両親と妹・弟と暮らすようになった[2][32]。夏子は、1週間に1度公威が泊まりに来ることを約束させ、日夜公威の写真を抱きしめて泣いた[17]。青白く虚弱な公威は中等科でも同級生にからかわれ、屋上から鞄を落とされたり(万年筆3本折れる)、学食で皿に醤油をドバドバかけられ野菜サラダを食べられなくさせられたりという、イジメをずいぶん受けた[48]。
公威は文芸部に入り、同年7月、学習院校内誌『輔仁会雑誌』159号に作文「春草抄――初等科時代の思ひ出」を発表。自作の散文が初めて活字となった。中等科から国語担当になった岩田九郎(俳句会「木犀会」主宰の俳人)に作文や短歌の才能を認められ成績も上がった[19]。以後、『輔仁会雑誌』には、中等科・高等科の約7年間(中等科は5年間、高等科の3年は9月卒業)で多くの詩歌や散文作品、戯曲を発表することとなる[2][49]。11、12歳頃、ワイルドに魅せられ、やがて谷崎潤一郎、ラディゲなども読み始めた[41]。
7月に盧溝橋事件が発生し、支那事変(日中戦争)となった[50]。この年の秋、8歳年上の高等科3年の文芸部員・坊城俊民と出会い、文学交遊を結んだ[51][52]。初対面の時の公威の印象を坊城は「人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。『平岡公威です』 高からず、低からず、その声が私の気に入った」とし、その時の光景を以下のように語っている[51]。
「文芸部の坊城だ」 彼はすでに私の名を知っていたらしく、その目がなごんだ。「きみが投稿した詩、“秋二篇”だったね、今度の輔仁会雑誌にのせるように、委員に言っておいた」 私は学習院で使われている二人称“貴様”は用いなかった。彼があまりにも幼く見えたので。… 「これは、文芸部の雑誌“雪線”だ。おれの小説が出ているから読んでくれ。きみの詩の批評もはさんである」 三島は全身にはじらいを示し、それを受け取った。私はかすかにうなずいた。もう行ってもよろしい、という合図である。三島は一瞬躊躇し、思いきったように、挙手の礼をした。このやや不器用な敬礼や、はじらいの中に、私は少年のやさしい魂を垣間見たと思った。— 坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」[51]

1938年(昭和13年)1月頃、初めての短編小説「
1939年(昭和14年)1月18日、祖母・夏子が潰瘍出血のため、小石川区駕籠町(現・文京区本駒込)の山川内科医院で死去(没年齢62歳)[2]。同年4月、前年から学習院に転任していた清水文雄が国語の担当となり、国文法、作文の教師に加わった。和泉式部研究家でもある清水は三島の生涯の師となり、平安朝文学への目を開かせた[55][58]。同年9月、ヨーロッパではドイツ国のポーランド侵攻を受けて、フランスとイギリスがドイツに宣戦布告し、ヨーロッパから第二次世界大戦が始まった[50]。
1940年(昭和15年)1月に、後年の作風を彷彿とさせる破滅的心情の詩「
同年6月に文芸部委員に選出され(委員長は坊城俊民)、11月に、堀辰雄の文体の影響を受けた短編「彩絵硝子」を校内誌『輔仁会雑誌』に発表。これを読んだ同校先輩の東文彦から初めて手紙をもらったのを機に文通が始まり、同じく先輩の徳川義恭とも交友を持ち始める[32][63]。東は結核を患い、大森区(現・大田区)田園調布3-20の自宅で療養しながら室生犀星や堀辰雄の指導を受けて創作活動をしていた[63]。一方、坊城俊民との交友は徐々に疎遠となっていき、この時の複雑な心情は、のちに『詩を書く少年』に描かれる[52]。
この少年時代は、ラディゲ、ワイルド、谷崎潤一郎のほか、ジャン・コクトー、リルケ、トーマス・マン、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、エドガー・アラン・ポー、リラダン、モオラン、ボードレール、メリメ、ジョイス、プルースト、カロッサ、ニーチェ、泉鏡花、芥川龍之介、志賀直哉、中原中也、田中冬二、立原道造、宮沢賢治、稲垣足穂、室生犀星、佐藤春夫、堀辰雄、伊東静雄、保田與重郎、梶井基次郎、川端康成、郡虎彦、森鷗外の戯曲、浄瑠璃、『万葉集』『古事記』『枕草子』『源氏物語』『和泉式部日記』なども愛読するようになった[32][55][63][64][65][66]。
「三島由紀夫」の出発――花ざかりの森
[編集]1941年(昭和16年)1月21日に父・梓が農林省水産局長に就任し、約3年間単身赴任していた大阪から帰京[67]。相変わらず文学に夢中の息子を叱りつけ、原稿用紙を片っ端からビリビリ破いた[54]。公威は黙って下を向き、目に涙をためていた[54][注釈 2]。
同年4月、中等科5年に進級した公威は、7月に「花ざかりの森」を書き上げ、国語教師の清水文雄に原稿を郵送して批評を請うた[70]。清水は、「私の内にそれまで眠っていたものが、はげしく呼びさまされ」るような感銘を受け、自身が所属する日本浪曼派系国文学雑誌『文藝文化』の同人たち(蓮田善明、池田勉、栗山理一)にも読ませるため、静岡県の伊豆修善寺温泉の新井旅館での一泊旅行を兼ねた編集会議に、その原稿を持参した[71]。「花ざかりの森」を読んだ彼らは、「天才」が現われたことを祝福し合い、同誌掲載を即決した[71]。
その際、同誌の読者圏が全国に広がっていたため、息子の文学活動を反対する平岡梓の反応など、まだ16歳の公威の将来を案じ、本名「平岡公威」でなく、筆名を使わせることとなった[71]。清水は、「今しばらく平岡公威の実名を伏せて、その成長を静かに見守っていたい ――というのが、期せずして一致した同人の意向であった」と、合宿会議を回想している[71]。筆名を考えている時、清水たちの脳裏に「三島」を通ってきたことと、富士の白雪を見て「ゆきお」が思い浮かんできた[71]。
帰京後、清水が筆名使用を提案すると、公威は当初本名を主張したが受け入れ、「伊藤左千夫(いとうさちお)」のような万葉風の名を希望した[72][73]。結局「由紀雄」とし、「雄」の字が重すぎるという清水の助言で、「三島由紀夫」となった[71][72][73][注釈 3]。「由紀」は、大嘗祭の神事に用いる新穀を奉るため選ばれた2つの国郡のうちの第1のものを指す「由紀」(斎忌、悠紀、由基)の字にちなんで付けられた[76][注釈 4]。
リルケと保田與重郎の影響を受けた「花ざかりの森」は[77]、『文藝文化』昭和16年9月号から12月号に連載された[53]。第1回目の編集後記で蓮田善明は、「この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」と激賞した[78][79]。この賞讃の言葉は、公威の意識に大きな影響を与えた[4][79]。この9月、公威は随想「惟神之道(かんながらのみち)」をノートに記し、〈地上と高天原との懸橋〉となる惟神之道の根本理念の〈まことごゝろ〉を〈人間本然のものでありながら日本人に於て最も顕著〉であり、〈豊葦原之邦の創造の精神である〉と、神道への深い傾倒を寄せた[80]。
日中戦争の拡大や日独伊三国同盟の締結によりイギリスやアメリカ合衆国と対立を深めていた日本は、この年になり行われた南部仏印進駐以降、次第に全面戦争突入が濃厚となるが、公威は〈もう時期は遅いでせう〉とも考えていた[77]。12月8日に行われたマレー作戦と真珠湾攻撃によって、日本は日中戦争に続きついにイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国とも開戦し、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まった[50]。開戦当日、教室にやって来た馬術部の先輩から、「戦争がはじまった。しっかりやろう」と感激した口ぶりで話かけられ、公威も〈なんともいへない興奮〉にかられた[81]。
1942年(昭和17年)1月31日、公威は前年11月から書き始めていた評論「王朝心理文学小史」を学習院図書館懸賞論文として提出(この論文は、翌年1月に入選)[注釈 5]。3月24日、席次2番で中等科を卒業し、4月に学習院高等科文科乙類(独語)に進んだ。公威は、体操と物理の「中上」を除けば、きわめて優秀な学生であった[83]。運動は苦手であったが、高等科での教練の成績は常に「上」(甲)で[84]、教官から根性があると精神力を褒められたことを、公威は誇りとしていた[54]。
ドイツ語はロベルト・シンチンゲルに師事し[43]、ほかの教師も桜井和市、新関良三、野村行一(1957年の東宮大夫在職中に死去)らがいた[54][85]。後年ドナルド・キーンがドイツで講演をした際、一聴衆として会場にいたシンチンゲルが立ち上がり、「私は平岡君の(ドイツ語の)先生だった。彼が一番だった」と言ったエピソードがあるほど、ドイツ語は得意であった[43][54][86]。
各地で日本軍が勝利を重ねていた同年4月、大東亜戦争開戦の静かな感動を厳かに綴った詩「大詔」を『文藝文化』に発表[87][50]。同年5月23日、文芸部委員長に選出された公威は、7月1日に東文彦や徳川義恭(東京帝国大学文学部に進学)と共に同人誌『赤繪』(『赤絵』)を創刊し、「苧菟と瑪耶」を掲載した[49]。誌名の由来は志賀直哉の『万暦赤繪』にあやかって付けられた[88]。公威は彼らとの友情を深め、病床の東とはさらに文通を重ねた[89][注釈 6]。同年8月26日、祖父・定太郎が死亡(没年齢79歳)[25]。公威は詩「挽歌一篇」を作った[90]。
同年11月、学習院の講演依頼のため、清水文雄に連れられて保田與重郎と面会し、以後何度か訪問する[55][91][92][93]。公威は保田與重郎、蓮田善明、伊東静雄ら日本浪曼派の影響下で、詩や小説、随筆を同人誌『文藝文化』に発表し、特に蓮田の説く「皇国思想」「やまとごころ」「みやび」の心に感銘した[94]。公威が「みのもの月」、随筆「伊勢物語のこと」を掲載した昭和17年11月号には、蓮田が「神風連のこころ」と題した一文を掲載。これは蓮田にとって熊本済々黌の数年先輩にあたる森本忠が著した『神風連のこころ』(國民評論社、1942年)の書評であるが、この一文や森本の著書を読んでいた公威は、後年の1966年(昭和41年)8月に、神風連の地・熊本を訪れ、森本忠(熊本商科大学教授)と面会することになる[95][96]。
ちなみに、三島の死後に村松剛が倭文重から聞いた話として、三島が中等科卒業前に一高の入試を受験し不合格となっていたという説もあるが[97]、三島が中等科5年時の9月25日付の東文彦宛の書簡には、高等科は文科乙類(独語)にすると伝える記述があり、三島本人はそのまま文芸部の基盤が形成されていた学習院の高等科へ進む意思であったことが示されている[97][98]。なお、三島が一高を受験したかどうかは、母・倭文重の証言だけで事実関係が不明であるため、全集の年譜にも補足として、「学習院在学中には他校の受験はできなかったという説もある」と付記されている[99]。
戦時下の青春・大学進学と終戦
[編集]1943年(昭和18年)2月24日、公威は学習院輔仁会の総務部総務幹事となった[100]。同年6月6日の輔仁会春季文化大会では、自作・演出の劇『やがてみ楯と』(2幕4場)が上演された(当初は翻訳劇を企画したが、時局に合わないということで山梨勝之進学習院長から許可が出ず、やむなく公威が創作劇を書いた[69][101])。3月から『文藝文化』に「世々に残さん」を発表[53]。同年5月、公威の「花ざかりの森」などの作品集を出版化することを伊東静雄と相談していた蓮田善明は、京都に住む富士正晴を紹介され、新人「三島」に興味を持っていた富士も出版に乗り気になった[102]。
同年6月、月1回東京へ出張していた富士正晴は公威と会い、西巣鴨に住む医師で詩人の林富士馬宅へも連れていった[103]。それ以降数年間、公威は林と文学的文通など親しく交際するようになった[103][104]。8月、富士が公威の本の初出版について、「ひとがしないのならわたしが骨折つてでもしたい」と述べ[105]、蓮田も、「国文学の中から語りいでられた霊のやうなひとである」と公威を讃えた[106]。蓮田は公威に葉書を送り、「詩友富士正晴氏が、あなたの小説の本を然るべき書店より出版することに熱心に考へられ目当てある由、もしよろしければ同氏の好意をうけられたく」と、作品原稿を富士に送付するよう勧めた[107]。
英米との戦争が激化していく中、公威は明治以降、日本に影響を与えてきたイギリスやアメリカ文化を、〈アメリカのやうな劣弱下等な文化の国、あんなものにまけてたまるかと思ひます〉[108][109]、〈米と英のあの愚人ども、俗人ども、と我々は永遠に戦ふべきでせう。俗な精神が世界を蔽うた時、それは世界の滅亡です〉と批判し、神聖な日本古代精神の勝利を願った[110][109]。なお、公威は同盟国であるイタリアの最高指導者ベニート・ムッソリーニに好感を抱く一方で、ナチス・ドイツの総統アドルフ・ヒトラーには嫌悪感を持っていた[110][111][109]。
同年10月8日、そんな便りをやり取りしていた東文彦が23歳の若さで急逝し、公威は弔辞を奉げた[112][113]。東の死により、同人誌『赤繪』は2号で廃刊となった[32]。文彦の父・東季彦によると、三島は死ぬまで文彦の命日に毎年欠かさず墓前参りに来ていたという[114]。なお、この年に公威は杉並区成宗の堀辰雄宅を訪ね[115]、堀から〈シンプルになれ〉という助言を受けていた[116]。
当時の世情は国民に〈儀礼の強要〉をし、戦没兵士の追悼式など事あるごとにオーケストラが騒がしく「海往かば」を演奏し、ラウド・スピーカーで〈御託宣をならべる〉気風であったが[117][93]、公威はそういった大仰さを、〈まるで浅草あたりの場末の芝居小屋の時局便乗劇そのまゝにて、冒瀆も甚だしく、憤懣にたへません〉と批判し、ただ心静かに〈戦歿勇士に祈念〉とだけ言えばいいのだと友人の徳川義恭へ伝えている[117][93]。
国民儀礼の強要は、結局、儀式いや祭事といふものへの伝統的な日本固有の感覚をズタズタにふみにじり、本末を顛倒し、挙句の果ては国家精神を型式化する謀略としか思へません。主旨がよい、となればテもなく是認されるこの頃のゆき方、これは芸術にとつてもつとも危険なことではありますまいか。今度の学制改革で来年か、さ来年、私も兵隊になるでせうが、それまで、日本の文学のために戦ひぬかねばならぬことが沢山あります。(中略)文学を護るとは、護国の大業です。文学者大会だなんだ、時局文学生産文学だ、と文学者がウロウロ・ソワソワ鼠のやうにうろついている時ではありません。— 平岡公威「徳川義恭宛ての書簡」(昭和18年9月25日付)[117]
この年の10月には各地の戦線の状況が変わりつつあったことを受けて、在学徴集延期臨時特例が公布され、文科系の学生は徴兵猶予が停止された[49][50]。公威は早生まれのため該当しなかったが、来年20歳になる同級生のほとんど(大正13年4月以降の同年生まれ)は12月までに入隊が義務づけられた(学徒出陣)[49][50]。それに先んじて、10月21日に雨の中、明治神宮外苑競技場にて盛大な「出陣学徒壮行会」が行なわれ、公威もそのニュースを重大な関心を持って聴いていた[49]。
同年10月25日、蓮田善明は召集令状を受けて熊本へ行く前、「日本のあとのことをおまえに託した」と公威に言い遺し[118][119]、翌日、陸軍中尉の軍装と純白の手袋をして宮城前広場で皇居を拝んだ[120][121]。公威は日本の行く末と美的天皇主義(尊皇)を蓮田から託された形となった[122][123][124]。富士正晴も戦地へ向かう出兵前に、「にはかにお召しにあづかり三島君よりも早くゆくことになつたゆゑ、たまたま得し一首をば記しのこすに、よきひとと よきともとなり ひととせを こころはづみて おくりけるかな」という一首を公威に送った[104]。同年12月、徴兵適齢臨時特例が公布され、徴兵適齢が19歳に引き下げられることになった[49]。公威は来年に迫った自身の入隊を覚悟した[49][125]。

1944年(昭和19年)4月27日、公威も本籍地の兵庫県印南郡志方村村長発信の徴兵検査通達書を受け取り、5月16日、兵庫県加古郡加古川町(現・加古川市)の加古川町公会堂で徴兵検査を受けた[126]。公会堂の現在も残る松の下で、十貫(約40キログラム)の砂を入れた米俵を持ち上げるなどの検査もあった[23][69]。
本籍地に程近い加古川で徴兵検査を受けたのは、〈田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立つて採られないですむかもしれないといふ父の入れ知恵〉であったが[17]、結果は第二乙種で合格となり、その隊に入隊することとなった(召集令状は翌年2月)[49][50]。徴兵合格を知った母・倭文重は悲泣し、当てが外れた父・梓も気落ちした[17]。級友の三谷信など、公威以外の同級生の全員が陸軍特別幹部候補生として志願していたが、公威はただ一人、幹部候補生も予備学生の試験を受けず、一兵卒として応召されるつもりであった[17][43]。それは、「遠からず、どの道を行っても死ぬのなら、1日でも長く普通の社会に居て、1行でも余計に書いておきたかったのだろう」と、平岡が「寸暇を惜しんで」執筆に励んでいた様子から、幹部候補より兵隊任務が「殊更大変」ではあるが応召日が遅い一兵卒の方を平岡が選んだ理由を三谷は理解した[43]。
徴兵検査合格の帰途の5月17日、大阪の住吉中学校で教師をしている伊東静雄を訪ね、支那出征前に一時帰郷していた富士正晴宅を一緒に訪ねた[49][127]。5月22日は、遺著となるであろう処女出版本『花ざかりの森』の序文を依頼するために伊東静雄の家に行くが、彼から悪感情を持たれて「学校に三時頃平岡来る。夕食を出す。俗人、神堀来る。リンゴを呉れる。九時頃までゐる。駅に送る」などと日記に書かれた[127][128]。しかし、伊東はのちに『花ざかりの森』献呈の返礼で、会う機会が少なすぎた感じがすることなどを公威に伝え[129]、戦後には『岬にての物語』を読んで公威への評価を見直すことになる[127][128][130]。
1944年(昭和19年)9月9日、学習院高等科を首席で卒業。卒業生総代となった[39][131]。卒業式には昭和天皇が臨席し[39][132][注釈 7]、宮内省より天皇からの恩賜の銀時計を拝受され、駐日ドイツ大使からはドイツ文学の原書3冊(ナチスのハーケンクロイツ入り)をもらった[54][131][132][134]。御礼言上に、学習院長・山梨勝之進海軍大将と共に宮内へ参内し、謝恩会で華族会館から図書数冊も贈られた[131]。
大学は文学部への進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・梓の説得により、同年10月1日には東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学(推薦入学)した[54][135]。そこで学んだ団藤重光教授による刑事訴訟法講義の〈徹底した論理の進行〉に魅惑され、修得した法学の論理性が小説や戯曲の創作においてきわめて有用となり、のちに三島は父・梓に感謝する[136][137]。父は公威が文学に熱中することに反対して度々執筆活動を妨害していたが、息子を法学部に進学させたことにより、三島の文学に日本文学史上稀有な論理性をもたらしたことは梓の貢献であった[54]。
出版統制の厳しく紙不足の中、〈この世の形見〉として『花ざかりの森』刊行に公威は奔走した[73][138]。同年10月に処女短編集『花ざかりの森』(装幀は友人・徳川義恭)が七丈書院で出版された[73]。公威は17日に届いた見本本1冊をまず、入隊直前の三谷信に上野駅で献呈した[39]。息子の文学活動に反対していた父・梓であったが、いずれ召集されてしまう公威のため、11月11日に上野(下谷区)池之端(現・台東区池之端)の中華料理店・雨月荘で出版記念会を開いてやり、母・倭文重、清水文雄ら『文藝文化』同人、徳川義恭、林富士馬などが
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