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太陽は銀河系の中では主系列星の一つで、スペクトル型はG2V(金色)である。

 

 

於保 信義 

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    出身校: 慶応義塾
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なんたることか!文章の途中がどこかをミスして押したためか行間が空いてしまった。何とか修正しようとネットで検索して試みていたら、何と今度は文章の前半部分3ページほどを削除した状態で保存してしまった。後数日で懸案の資料作成を終えると期待していたのでショックが大きい。自分の文章だから、また書きかえればいいと自らに思い聞かせ早く立ち直りたい。今度からは修正前のものも別保存しておこう。行が広がった部分も何とかしなくては。スカウトの名誉は信頼されることにある、とはB-Pが作ったおきての第1条である。これ以上の遅滞は自分が許せない。
於保 信義
神崎様 アドヴァイス有難うございます。ワードです。パソコン音痴で困っています。新しいものに対応できなくっています。ワードプロセッサーを懐かしく思っています。力強い協力者のお世話でなんとかこの作業を終えようと思っています。今後は長文のものの作成は控えようと思っています。
ワードで文書を作成していたら、途中の文章の行間が倍くらいに広がってしまいました。間の数行だけで前後の行間は正常です。該当箇所を選択して行間詰めのところをクリックしてみたのですが、詰まりません。修正の仕方をご存じの方にご教示頂ければ幸いです。
於保 信義
城戸様 有難うございます。やってみたのですが、うまくいきませんでした。標準書式で作成していたのですが、どこか変な所を押したのでしょう、横40が112になり、行間も空いてしまいました。アドヴァイスを頂いているのですが、こちらの低レベルとマッチせず、ご迷惑をお掛けしています。稿の提出が遅れているので、それを仕上げることを優先し、体裁を整えるのはその後にしようと思っています。今後とも宜しくお願い申し上げます。
  • 編集済み
賞味期限切れ
 先日、「防災タイムライン」を作成しよう、という新聞折り込みが入っていた。県からの呼びかけだ。スマホを持っていない者には縁はない。会社務めを止めてから、別に忙しいわけでもないので、「携帯電話」は所持していない。私自身はさほど不便ではないが、外出した折に家族に連絡するのに公衆電話を探すのに苦労する程度だったからだ。
 二年ほど前、新刊書を読んでいたら、注に「詳しくはこのQRコードで」あり、愕然とした。QRコードを読みこむ機器が必要とは思わないで購入したから、騙されたような気がした。
 病院で処方された薬を買おうと薬局に行ったら、マイナンバーカードで手続きするよう言われた。たまたま所持していたから、手続きはできたが、マイナンバーカードの所有は任意だったはずだったが、と釈然としなかった。先日も、老夫婦が自動写真撮影のボックスの前で困っておられた。偶然、若い娘さんが通りかかられ声をかけて手伝っておられほっとした。漏れ聞こえる話では保険証が無くなってしまうのでマイナンバーカードを作るために来たが、うまくいかないというお話だった。新しい機器に対...
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於保 信義
杉村様 大変遅くなり申し訳ありません。必ず実現させるよう努力しますので、もう少しご猶予下さい。
79年目のヒロシマ
 朝、地元紙の一面を見て驚いた。「東証4451円安 下げ最大」がトップ項目だったからだ。民放二局の昼ニュースを視ると、「原爆慰霊式典」という項目はある局では最終項目、もう一つの局では三項目目だった。時の流れだろうか、それとも地方のニュースに過ぎないと捉えられているのか、年々、扱いは小さくなっている。被爆地に住む者としては考えさせられる。私たちの努力が足りないのだろう。
 昨年一年間で亡くなった被爆者の方は5,079人。原爆慰霊碑に納められる被爆者名簿は3冊増えて128冊の計34万4千306人になった。被爆者健康手帳を持つ人(被爆二世が含まれる)は今年3月末時点で10万6千825人。平均年齢は85.58歳となっている。
 86(ハチロク、私の周辺ではこの日のことをこう呼ぶ人が多い。広島に転勤してきたある人は、この言葉にとまどったという)が近づくと地元紙には被爆に関する記事が増えてくる。1964年に行われた広島・長崎世界平和巡礼で核保有国など8カ国を巡り被爆の実情を訴えたという記事にあったのは会社の後輩の母親だった。顔中ケロイドで、姑から離婚を迫られたが、復員してきた夫はその話を拒絶するどころか、平和運動への献身を支え、二人で二児を育て上げた。久しぶりにお元気そうな写真を見てほっとした気持ちになった。被爆9カ月後の占領下の広島を取材し被爆の実相を世界に知らしめたアメリカ人記者ジョン・ハーシーの孫がその活動を映画化するという。その発表の場に、ハーシー共に活動した被爆者で牧師の谷本清さんの娘さんと息子さんが同席していた。息子の健さんは、教会につくられた団のスカウトで、今も活動を続けていると聞く。地元紙に、数少ない被爆直後の様子を撮った地元紙のカメラマン松重美人さんのことが大きく掲載されていた。松重さんは私の家の近所に住まわれていたことから、子どもの頃から知っていた。父と親交があったからか、父の残した資料の中にあの有名な写真のネガのようなものが2枚残されていた。松重さんからもらったものだろう。私を導いてくれた隊長もガールスカウトのリーダーも被爆者だった。成人になるまで私はそれを知らなかった。二人とも語ることがなかったからである。ここ数年、これまで沈黙を保たれていた被爆者の方が重い口を開いて被爆体験を語られるようになった。ロシアのウクライナ侵攻とそれに伴ってのロシアの核兵器を使用するという脅し、ガザ地区におけるイスラエルのジェノサイド(イスラエルの国防相は、パレスチナ人をヒューマンアニマル、人間動物と呼んで人間として認めていない)に、沈黙を続けていては何も変わらない、と思われたのだろう。
 今年の式典に広島市はイスラエル大使に招待状を送ったが、パレスチナ自治政府を招くこともしなかった。9日に慰霊式を行う長崎市は、警備上のリスクがあるとしてイスラエル大使に招待状を送ることを見送った。イギリスの大使は、イスラエルを招待しないのは、ロシアと同じ扱いになるからとして、長崎の式典に参加しないと表明している。
 イスラエルとパレスチナの戦闘を報道する番組で、イスラエルの子どもとパレスチナの子どもが一緒に学んでいる学校が紹介されているのを視た。子どもたちは「友だちに武器を向けることなんてできない」とインタビューに応えていた。スカウト運動の創始者は、世界中の子どもたちが友だちになれば戦争は無くなるだろうと考えてジャンボリーを企画した。彼の考えは残念ながら、今のところユートピア物語に終わっている。
人類の歴史は戦争の歴史だという人もあるが、そうだろうか。戦争をしても、どこかで止め、協力し合ったからこそ、今の人類はあるのではないだろうか。
唯一の被爆国でありながら日本は国連の核兵器禁止条約の締結に加わっていない。広島出身の(選挙地盤にしているだけで、彼は東京育ちだ)岸田首相は、日本は核保有国とそうでない国の橋渡しをすると言っているが、具体的な動きは全くない。彼は核の傘を容認している。
広島で開かれたG7以来、円高の影響もあってか原爆資料館を訪れる外国人が急増し、何時間も待たされるという状況が続いているという。予約制度や入場券の自動販売機の導入で少しは緩和されたようだが、まだまだ不十分なようだ。百聞は一見に如かず、である。できるだけ多くの人に見てもらい、考えて欲しい。アメリカには原爆の使用が戦争の終結を早めたという意見が多いようだが(学校でもそう教えているから)、当時の米軍首脳は原爆使用の必要性はない、と指摘していた。戦時中、アメリカに住む日本人が強制収容所にいれられたように(ドイツ人やイタリア人は収容されていない)、日本人はヒューマンアニマルだったのだろう。原爆投下は実験だった。
かつて、ヒロシマを訪れる外国の仲間の案内ができるようなスカウトを育成したいと考えヒロシマ平和スカウト章を提案したことがあった。政治的な提案だとして議論すらされずその案は葬られた。B-Pは、スカウトには2種類あって、われわれはWar Scoutではなく、Peace Scoutだと言った。私はこれからもPeace Scoutであり続けたい。兵隊さんごっこのようなスカウティンにはぞっとする。(’24/8/7)
杉村直
お久しぶりです。全国紙は、一面トップだったと思います。地元紙に扱いには、驚きです。お説異議無しです。弥栄‼️
続々・おきてとちかい
前にも触れたが、ちかいとおきてについて指導するのは隊長の重要な役目である。そして、ちかいを何時立てるかを決めるのは子どもである。その子がスカウトになろうと決心するまであせらずに待とう。数人がそろってというのは大人の行事の便宜に過ぎない。スカウティングは集団訓練ではなく、個別学習、さらに言うなら子別学習なのである。おごそかでスカウトの心に残り続けるような意義深い式であって欲しい。
ちかいの式で「君は今や世界の兄弟の一員となった」(SfB訳P.24)といった趣旨の言葉が掛けられていない、という話を耳にした。世界スカウト章を制服につけているのだから「君は世界中のスカウトの仲間になったんだよ」ということをどこかで自覚する必要があるのではないだろうか。ブレザーの胸に付けたスカウトマークで世界中に仲間がいることを実感したことがある。今はどうか知らないが、環境バッジはその活動に従事するかした時に説明して着用するとしていた。何のためのマークか知らないでつけているようなことでなければいいのだが。
ローバースカウト・ハンドブックにおきては「生活...
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続・おきてとちかい 
 日本のおきてには「私の最善を尽くします」/do my bestがない。戦前の「宣誓」にもない。SfB初版のちかいでdo my bestは2項目の「どんなことがあっても、私の最善を尽くして他の人たちの役にたちます(私流の拙い訳)」に入っていた。それがいつか分からないが、3項目のすべてにかかるように前文に移動された。そこで、スカウトの発達段階に応じての理解と実践に結びつくことが可能になった。スカウト教育法にいう「個人の成長」がこれに当たる。どうして日本では、このdo my bestが落とされ続けているのか分からない。
 ある会でお話することになり(この人選はいささか怪しげだが)、調べていたら、イギリスのガールガイドのちかいから「神(God)」が無くなっていた。2013年のことである。ちかいの文言についてはそれまでに12回も改訂している、という。スカウティングは、運動だ。社会情勢に応じて変えていく意識が必要だと思う。
今の日本のちかいはアメリカ連盟のものの翻訳だったと言われている。アメリカ連盟のものにはdo my bestがある...
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神尾 朗維
徳とは儒教文化が入っているからでしょうか?
おきてとちかい
 「ちかいとおきて」でしょ、と直された。「でも、おきてを知らないとちかいは立てられないではないですか」と言ったら、「理屈っぽいね」と言われた。
 おきてとちかいを知らないローバーがいる、という話を聞いたのだが、どうしてそんなことが起こり得るのか分からない。ひょっとすると、知らないではなく、言えないということだったのだろうか。
 ちかいは一度だけ「立てる」ものだという根強い言説が、「唱える」ことまで否定しているのではないだろうか。口に出して何度も唱えるから、それが少しづつ身についていく。言わないから、文言を忘れてしまう。覚えていない者に実践ができるはずがない。B-Pは年に一度セント・ジョージの日にちかいとおきて再度考えてみたらどうか、と言っている。それは忘れないための一方法として提案したのだろう。また、かつてイギリスで行われていたギルウェル実修所では閉会式前に訓練用ネッカチーフを自分のものに取り換えて、降ろす前の各国の旗に向かって自分の使う言葉でちかいをあらたにしたという。(不思議なことに私が経験した日本でのコースにはなかった。私は...
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加納康昭
僕は40年間のボーイスカウト活動に関係しましてがボーイ隊長の時は当然クマキャンプに出かけて上進のカブスカウトにちかいとおきてについて一つずつ説明をしました。毎月の隊集会でもそして進級の面接でも団委員長になってからは入隊式、育成会総会でもーーー今はもう引退願いを出して5年地区にも団にも出てません。
会社には20名位スカウト出身者が居るので楽しいですね!
最後はちかいの3番目...
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Vサイン
子どもの頃、兄がVサインをして「お前は、これだから」と私をよくからかった。立てた指が二本にV、「にぶい」である。
支離滅裂になった講演の後始末をする中で、メモに残るキッチナー元帥の言葉を改めて読み直した。はっとそこで気がついた。彼が言っているのは、「一度スカウトになった者、すなわち、ちかいを立てた者は、いつまでもその精神を持って生きて行って欲しい」ということであって、「加盟員ですよ」と言っているのではない。そこを勘違いしていた。何とも恥ずかしい。とはいえ、どこからが組織に物申していて、どこからがそうでないかの判断は難しい。人生の大半をスカウト運動の中で過ごして来た者にはそこのけじめがなかなかつかない。だから、組織内部にいる方々からすればウザイ存在になるのだろう。自分ではいいことをしているという思い込みが、他の人からすれば迷惑だということもある。それを知って組織から離れたのだが、懲りていない自分がいる。もう一度だけ、複数の方にお話をしないといけないかもしれない。組織の問題や、こうあるべき論に陥らないように気をつけたい。頭では分かっているつ...
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金井 昭二
於保さんが親交があったこの方は、キッチナー元帥の言葉を次の四つの視点からのお考えでお示しになられましたね。
写真の説明はありません。
残すもの
先日、私に近い年齢の俳優が亡くなった。新聞記事を読むと、病院から出て数日の間に急変して亡くなったのだという。健康だと思っていた私も、ここ数年何かしらで病院に通っている。人の命は分からないものだと切実に思う。
キャンプで残すものは、「無一物と感謝だけ」というのは良く知られた言葉だが、ウルフカブス・ハンドブックには「感謝と良い評判だけ」とある。悪い評判以外に私には残すものがないと思っていたのだが、家人にとって残してもらいたくないものがあった。スカウト関係の資料である。幸い兵庫連盟のミュジアムで引き取って頂けることになりわざわざ取りにきて下さった、それも豪華キャストで。
スカウティングでし残したことがある。それは「スカウティング解体新書」の続編を書くことだ。独りよがりのものになるに違いないが、私にとっては最後の一里塚だと思っている。
田舎で濃密な社会関係を持たない生活を送っていたら、ある日、偶然都会に出ることになった。久しぶりにお会いする方々や初めてお会いする方々とお話をするなかで、消えかかっていた火が少し強くなったのかもしれない。簡単にでき...
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於保 信義
西郷様 ご無沙汰しております。分かり切ったようなことをうだうだ言ってるだけかもしれません。バイブルに「木の良し悪しは、その結ぶ実でわかる」とあります。いい実を結べればいいのですが。
今朝の地元紙に次回の日本ジャンボリーが広島県の神石高原町で開催されるという記事が載っていた。神石高原というと、私たち県民にとっては神石牛が有名で、ここで育てられた牛が後に兵庫に移され神戸牛になっているんだ、という話を聞いたことがある。広島の県北にあり、帝釈峡という観光地もある。少年時代、隼の課程であったか、二泊だったか三泊だったかの移動キャンプで庄原という所から尾道まで下ったことがある。確か春休みを利用してのことだったが、朝簡単なリンツ―から外に出ると周囲が凍結していたことを思いだす。登録のない部外者の言うべきことではないと、またお叱りを受けるかもしれないが、スカウティングは運動である。B-Pがジャンボリーを創始した時、それは画期的なイベントだった。今もそうだろうか。B-Pは新しいものが好きで、ブラウンシーで実験キャンプをした時に使ったテントは釣り鐘型の大きな重いテントだった。しかし、戦争が機動力を駆使することを迫られるようになって軽くて移動しやすい屋根型テントが現れると、直ぐに採用した。日本訪問も含まれた世界旅行では船で使われる無線に関心を示し...
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井の中のかわず
数年ぶりに上京した。品川の駅に降り立った途端に、回れ右をして下り列車に乗りたくなった。
日本オールドスカウトクラブから、総会の後の講演を依頼されての上京だった。準備をして臨んだつもりだったが、いざ始めたら時間配分が無茶苦茶になり、支離滅裂になってしまった。お見え頂いた方々にはとても失礼なことをしたと反省している。
懇親会で沢山の方々とお話ができた。ヒトは本質的に社会的存在だと言われる。ヒトが集団で生活するということは、多様性と変化が生じるからである(チーム・システム)。スカウティングの実態をお聞きすると、自分が浦島太郎のような存在であることに気がついた。時には、刺激を受けに都会に出て行くことも大切なのかもしれない。とはいえ、人様の倍はしゃべってしまう、という悪癖は何とかしたいものだと思っている。
お世話になった方々や、つたない話を我慢してお聞き頂いた皆様に、お詫びと心からのお礼を申し上げたい。(‘24/6/12)
我逢人 望雲
於保さんのお話を色々感じながらWEBで聴かせていただきました。ありがとうございました。
  • 編集済み
スカウトの制服がいつ半袖と規約化されたのか、知らないが、日本の気候風土からしてそぐわないと思う。というのは、夏場に仕事で山に入る人は、例外なく長ズボンに長袖を着て首にタオルをぶら下げている。それは、害虫などから身を守るためだ。私の少年時代、制服は長袖だったが、年中袖をまくっていた。指導者が「スカウトはひじ黒、すね黒だ(野外活動をよくしているという比喩)」とよく言っていた。しかし、夏場にハイキングなどに行くと、藪こぎなどもあるからまくった袖をおろしたものだ。これからマダニが増えてくる。山や畑に入る時は、マダニがつきにくいナイロン製の服を選び、裾は靴下の中に入れ込む。帰宅して中に入る前んい衣服をはたく、入浴する、着ていた服はすぐに洗濯をする、といったことに心がけたい。マダニにワクチンや特効薬はない。かまれると死に至ることもあるから要注意だ。あちらこちらでマダニを運ぶイノシシやシカが増えているので、マダニが広範囲に拡散している可能性もある。気をつけたいものだ。
於保 信義
杉村 様 先日、ようやくレジュメが完成し、お送りしたところです。今は、それに合わせて口述ようの資料作りをしています。大勢の方にお話しをするのは、数年前に大阪でお話したのを最後にしていましたが、オールドスカウトクラブは亡くなられて武井さんや今もお世話になっている金井さんがいらっしゃるので、非力を省みずお引き受けしました。無事お役目を果たせればと念じています。どうぞ宜しくお願い申し上げます。
杉村直
於保 信義 さま、
よろしくお願いします♪武井さんは残念でした。もう、1年になります。立派な先輩でした。
後藤新平像
広島湾に浮かぶ小さな島に後藤新平の銅像が立っていることを全く知らなかった。地元紙に、間近で見られるように移設された、という記事が掲載されて初めて知った。この島は、似島といって、日清戦争の時、大陸から帰国する兵士たちが伝染病などを持ち込まないようにするために検疫所が設けられた所だ。その検疫所を作るのに大きな貢献をしたのが後藤新平である。この検疫所は、第二次世界大戦が終了するまで、稼働し、被爆後は治療所として使われた。
新聞記事によると、この像は似島出身の実業家が1938年に造り、島内の所有地にたて、戦時中は金属供出を免れるために高さ3メートルのものを3分割して近くの防空壕に隠して守り通したものだという。
似島検疫所というと、後藤新平と言われるが、検疫所を作ることを発案し建設を実現させたのは児玉源太郎である。児玉が発案し、膨大な資金を調達し、建設と運営に当たる人材を探して医師である後藤に白羽の矢をたてたという。児玉は、その後、台湾総督になった時、民政局長として後藤を招いた。そして後藤は、農政の専門家として新渡戸稲造を招いた。新渡戸は国際連盟事務局次長の時、弟子の前田多門(初代国際コミッショナー)と共にコペンハーゲンで開催された世界会議にオブザーバーとして出席している。
先日は、北條時敬の胸像が東広島市の広島大学内にあることをお伝えしたが、スカウティングに関わる先人の像が広島に二つもあるとは驚きだ。北條時敬、葛原しげる、中村知、後藤新平。もう語れる人はいないのかもしれない。(’24/5/25 元広島県連盟加盟員)
杉村直
今、全国大会の後、河合さんらと秋田郊外をドライブ中です♪6月10日宜しく。
広島大学創立150周年
広島大学は今年創立150年になるそうだ。広島大学は、戦前は広島高等師範学校だった。初代校長は北條時敬。時敬は教育学辞典によれば「ときゆき」とあるが、広島高等師範学校附属中学校の二期生として学んだ中村知は「ときたか」とルビをふっている。北條の弟子であった方の息子さんに「おとうさんは、時敬をなんと読まれていましたか」と聞いたところ、「じけい先生と言っていた」と言われた。
それはさておき、北條は1908年にロンドンで開かれた世界道徳教育会議に出席した折に、始まったばかりのスカウト運動を調査している。それは、時の文部大臣牧野伸顕の命だった。北條は書籍やユニフォームなどを購入して持ち帰り、帰国後、復命しようとしたが、文部大臣が代わっており、真剣には取り合われなかったという。北條は、その後スカウト運動について、地元広島や松山、金光、仙台、鹿児島などで講演している。北條はその中でスカウティングを武者修行にたとえ、スカウトのことを少年武者と呼んでいる。その講演の要旨が北條の遺稿集「廊堂片影」に掲載されている。この遺稿集を編集したのは北條の弟子で「善の研究」で有名な西田幾多郎である。西田は石川県専門学校(後に第四高等学校)に通っている時、家が破産し、北條がその才能を惜しんで自宅に住まわせ学業を続けさせた。西田の親友が禅の研究で有名な鈴木大拙で、鈴木も北條の弟子で、三人で富山県高岡市の国泰寺に参禅した記録が残っている。禅は北條が二人に手引きした。北條の高弟の二人はともに「ぜん」の研究をした。
先に述べた中村知は中学時代、北條のスカウティングに関する講演を聞いたという。後に中村は大阪の高津中学のスカウトクラブで隊長を務め(スカウトクラブを作ったのは後に日本連盟総コミを務めた村田正雄である)、戦後は那須野営場の初代場長、奉仕部長を歴任し、スカウティング・フォア・ボーイズ、ウルフカブス・ハンドブック、ローバーリング・トゥ・サクセスの翻訳や指導者養成に尽力した。
広島大学は、現在、東広島市にあるが、北條の胸像もその校庭に移築されている。
北條時敬、葛原しげる、中村知。この三人は広島にゆかりがあり、スカウティングに大きな事績を残していることを思い出した。(‘24/5/19)
於保 信義
大勢の方を目の前にして、お話するのはお断りしていたのですが、お世話になった方々がいらっしゃるオールドスカウトクラブからのご要請とあってお引き受けしました。どうなることやらと案じています。ちーやんは私が加盟した(当時は隊)隊の初期登録の隊委員でした。学生になって上京し、嘱託になられたちーやんからの要請でRtSの翻訳のお手伝いをさせて頂きました。四谷のお宅に数えきれないくらいほど通いました。
一月末の日曜日
にぎやかな街角に
ボーイスカウトの子らが
声をかぎりに
募金を呼びかけている...
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昨年、兵庫連盟のミュジアムに寄贈させて頂いた資料が閲覧可能になったというお知らせを頂いた。何かお役に立てればと願っています。
また、日本オールドスカウトクラブの機関誌に、日連資料室の笠原さんが、私が寄贈した「B-Pの83年」という拙稿の紹介記事を掲載されていることをいつもお世話になっている方からお知らせ頂いた。この資料とB-Pが改訂に関与したSfBの最後の版は、上記の両ミュジアムで閲覧が可能です。何かの折に訪れられたら、ご覧頂ければ幸いです。古いことより、これからのことを知りたい、と仰る方もありますが、古い私は歴史は未来のために存在していると考えています。
杉村直
昨年秋に西宮市ミュージアムを訪ねましたがまだ、貴史料拝見できませんでした。機会を見て、是非拝見したいと思います。弥栄‼️
カタログ雑誌の新年号に今年もカタカナ語辞典が付いていた。気になる単語を引いてみたが掲載されていない。毎日のようにカタカナの新語が登場し追いつかないのだろう。ニュースを視ていて手元の英和辞典を引いても分からないことがままある。老人で世相に疎いからだろうか。
「SfB解題」を書くべく調べていたら、今は絶版となった「ちーやん訳」に誤訳を見つけた。原文にない文言が付け加えられている。訳者としては分かりやすくするために付け加えられたのだろうが、原文にはないのでまったく異なる解釈をもたらしてしまう。誤訳と言わざるを得ないだろう。もっとも、SfBの中には著者の勘違いによる引用もあるので、どこからどこまでが事実か注意して読む必要がある。だから、B-Pはこの本をyarnの形で記述したのだろう。
もともと、翻訳を読むということには誤解を生じる危険性がある。たとえば、その国にないものにむりやり当てた訳語などがそうである。権利はrightの訳語だが、もともと中国語にも日本語にも、権利という言葉などなかった。明治になって箕作麟祥が創作した言葉である。日本では「権利と義務」...
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於保さん
今年もよろしくお願いきます。
改行無しの長文は現在ですね。...
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於保 信義
青木様 ご無沙汰しています。FBで元気にご活躍の様子をうかがっています。改行なしの長文になっていますか?原稿では改行しているのですが。
手放せない本がある。いつも手元に置いておきたい本、頂いた本、絶版になってもう手にいれられなくなった本などだ。我ながら往生際が悪いなと思う。資料は活用されてこそ意味がある。これも大先輩から教えられたことだが、東京弁では「ひ」が「し」となまるのにひっかけて、「資料は『秘蔵』してはあきません」と仰っていた。
私が引き取って頂いた資料の整理がついたと賀状で伝えて来られた方がある。
資料についていろいろなことが脳裏に浮かんできた。とある資料を探していたら、その方の連盟に保存されていた。「読みたいのですが」とお願いしたら、「その内コピーして送る」と仰られ随分な時間が経過しあきらめていたら、突然分厚いコピーが送られてきた。その方は要職にあられたが、職員の手を煩わせることなく、自らが分厚な本をコピーされていたと後にお聞きした。「死んだら寄贈することにしている資料のリストを作っている。完成したら送るのでチェックして欲しい」と言われ、残す資料についての思い出をいろいろ語られたのも同じ方である。しかし、結局そのリストが送って来られることはなかった。お会いして間もなく亡くなられたからである。そのコピーは私にとって宝物だった。
「わたしより、あなたがお持ちになっている方がいいでしょう」と言われて頂いた本がある。一つは「青年健児教範」で、頂いた方とは異なる大先輩の署名がある。私に下さった方も頂かれたのだ。もう一つは、WOSMが1947年の発行したFundamentals of the Scout Methodという小さくて薄っぺらい冊子だ。「スカウティング解体新書」を差し上げたら、前と同じセリフで下さった。
「翻訳しない?」と言って頂いた本もある。著者のサインが入った献呈本だ。一部だけ訳し知己の人にも送ったが、後に全文翻訳され出版された。
こうしてお世話になった大先輩諸子は当然ながら皆さんお亡くなりになったが、今もお顔が浮かぶ。老人の思い出話を書かせて頂いた。(’24/1/11)
於保 信義
田辺様 ある所では解体新書は押し売りされたそうで、「買いたい」新書ではなかったそうです。その後の学習で学んだことを取りまとめておきたいと思っているのですが、生来の怠惰からのびのびとなっています。資料などを付け大分なものになりそうなので、出来上がったら、日連と兵庫のミュジアムに置いて頂こうと思っています。
誕生祝いの言葉をお寄せ頂いた皆様に心からの御礼を申し上げます。
昨年の漢字は「酷」でした。酷暑に地球温暖化を実感しつつ、ウクライナ、パレスチナの戦火は正に「酷」と言えるものでした。ところが正月、能登半島を襲った地震にまた打ちのめされたような思いです。社会をよくするのに重要なのは「結果」であって、「精神」ではないのではないでしょうか。東北の大震災の時に感じたことです。ある人はそれを「しない善よりする偽善」と言っていました。老人です。できることは限られています。今、自分にできることをしたいと思っています。
残された時間が少なくなってきました。去年積み残した「SfB解題」を書き上げること、「スカウティング解体新書」の続編を何とか形にすることを目指していきたいと思っています。
有難うございました。
先日、B-Pが改訂に関わった最後のSfBである第20版のコピーを日連と兵庫連盟のミュジアムに置いて頂き、閲覧が可能になったことをお知らせした。
中国の諺に「飲水思源」というのがある。水を飲む者は、どのようにしてその水が飲めるようになったかに思いをはせて飲みなさい、ということだそうだ。両ミュジアムの担当者の方々へのお礼の言葉を書き落としていた。兵庫連盟のミュジアムは、ボランティアの方々の奉仕で運営されている。私の場合、長い間にたまった資料を車3台に分乗してわざわざ広島まで取りにきて頂き、パソコンに入力、ラベル張りといった作業をして展示閲覧可能にして頂いている。大切に取り扱って頂き、有難い気持ちでいっぱいである。幸いにして両ミュジアムとも私のような非加盟員でも利用できるのが嬉しい。多くの方の参考になればと願っている。
日連、兵庫連盟ミュジアムの担当者の皆様、有難うございます。心からのお礼を申し上げます。
小倉 匡平
スカウティングにおける歴史的な記録・遺産を広くシェアしてくださり、ありがとうございます。今や日連の方が距離的に近いので一度行ってみようと思っています。
SfB第20版(B-Pが改訂に関わった最後の版)のコピーが11月26日から兵庫連盟のミュジアムで閲覧できることになった。東では日連のミュジアムで既に閲覧できるようになっている。私が持っていても宝の持ち腐れになってしまうので、表紙もとれてしまった粗雑な本を(戦時中だったからだろう)コピーしたものである。どうして、こんなことをしたのかというと、SfBは本来成人指導者向けに書かれたものであったのに、現在、日連から出版されているSfBの訳本には成人指導者向けの記述がほとんどといっていいくらい省かれていて、読めないからである。若い方の参考になれば幸せである。
写真の説明はありません。
第4代B-P卿が亡くなった。手元に第3代B-P卿の署名があるBSAの隊長ハンドブックがあることを思い出した。この署名は、彼がロスアンゼルス地域連盟を訪れた際に行ったもので、同連盟が贈答用に使っているのか、私も頂いた。今回改めて眺めてみると、初代の署名同様にハイフンは曖昧だった。
この第3代B-P卿がスカウティング創始100年を前に、イギリス連盟に初代B-Pのスカウと宛て最後のメッセージの直筆原稿を寄贈した。知人が入手したコピーを読むと、改行位置が少し異なっていることの他に、「この世の中を、君が受け継いだ時より、少しでもよくするよう…」の部分の原文が、これまでの「a little better(少しでも)」ではなく、「a little bit the better(ほんの少しでも)」となっていた。これは、B-PがSfB初版のちかいの文言do my bestの位置を後に変更したのと同じ考えからだろう。ほんの少しなら、できるかもしれないと、ハードルを下げたのである。
署名入りの本、あなたが持っていた方がいいと言われて頂いた本、学習のためにもう少し手元に...
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杉村直
拝見したいのですが、いつになるやら?
住友第二代総理事・伊庭貞剛の「事業の進歩発達に最も害するものは、青年の過失ではなくて、老人の跋扈である」という言葉が、このところ頭から離れない。私はすでに組織を離れているから、そうした弊害はないはずなのだが、ついつい口を出してしまうという悪癖があり、治らない。5歳になる孫が何かをしていた時、先を読んで手をだしたら、「自分でする」と抗議された。する側の小さな「親切」は、される側にとって余計な「お世話」になることがあるのだ。若い人たちが言う「ウザイ」というのは、こういう行為だろう。ヒトの社会の歴史のほとんどは協力し合うことで成り立っていたと言われる。人はお節介になるよう進化してきた。スカウト教育法のパトロール・システムや成人の支援という要素の根拠はここにあるのだろう。親という字は、木の上に立って見ると書く。老人が支援する立場になるか「ウザイ」存在になるか、その塩梅が難しい。うっとおしい梅雨の日々、久しぶりの晴間に思ったことである。反省はサルでもできる、と言う。
於保さん、いつも気づきの投稿有難うございます。良かれと思っって口を出す、関わることは、結局自分軸ですね。転ばぬ先の杖かもしれませんが、本人が行きたいところ、道の状況、本人の意欲・体力が違うので、結局転ばなかったけど、本人には余計なお世話なんでしょうね。道中お陰様で転ばずに歩いた結果、ここに来るはずではなかった!と思う事の無いように関わることが大切なんでしょうね。反面、七転び八起きの重要性と、関わる上での、ティーティングとコーチングのバランスが大事だとボーイスカウトの例を見ながら感じました。
於保 信義
青木様 ご無沙汰しております。私は、加島祥造訳のタオの「最上のリーダーはね 治めることに成功したら、あとは 退いて静かにしている。すると下の人たちは、自分たちのハッピーな暮らしを『おれたちが自分で作り上げたんだ』と思う。」という一節が好きです。スカウトと指導者(この言葉はあまりよくありません)の信頼関係は「スカウトの名誉は信頼されることにある」から発するものでしょう。それは日常的に作り上げられるほかはないと思います。
明日から7月。B-Pのことをいろいろ学んでいたら、記録が資料によっては異なっていることに気が付いて調べてみた。どうもこのことは日本には限らないようだ。ご本尊のイギリスで出版されたものでも異なった記述がされている。誰の言葉であったか覚えていないが、「歴史は解釈である」というから、年や月日の細かいことなど、いちいち気にすることはないのかもしれないが、細かいことが気になる性格から、調べてみた。その結果として、「B-Pの83年」という資料ができあがった。42ページある。B-Pの歴史的なことを書かれる際には、少しは参考になるかもしれない。東は日連のミュジアムで、改装工事が終わった時点から、西は兵庫連盟のミュジアムで7月初旬以降には閲覧できるだろう。
於保 信義
伊藤様 もう歳ですから、そうした気力はありません。デジタル配布の知識は持ち合わせていませんし、マニアックなもので利用される方は限られると思います。
遊びについてもう少し触れておきたい。遊びは、勉強と対極にあるものとして評判が悪い。しかし、人類進化史の99%を占めている狩猟採集民の社会では、遊び、学び、働くということは別々ではなかった。小さい子どもたちを見ていると、彼らはあらゆるものに関心を抱き、試したり、真似たりして、自分のものにしていく。文法など教えていないのに、いつの間にか正確に話せるようになる。それらは誰からか強制されたものではない。子どもは遊びから社会で生きていく力をつけているのである。私は必要がないのでスマホは持っていない。だから、まったく操作できない。4歳の孫がいる。だれが教えたわけでもないのに、母親のスマホを操作している。遊びなのだ。一方、現在の教育界で重要視されていることは、測れて、比較できることである。測れないものには価値が認められない。遊びはほぼ測れない。だから、嫌われる。B-Pは「スカウティングはゲームである」と言った。肩肘張らずに気楽にするものですよ、と言ったのである。スカウティングは命がけでするものではない。遊びとはゆとりだと思う。車のハンドルは右に切ったからといって直ぐに曲がると危険でしょうがない。だから、ハンドルに「遊び」をもたせて少し経ってから曲がるようにしてある。日本の五重塔の中心の柱は地面から浮いているのだそうだ。そのため、地震があっても揺れるだけで倒れない、柔構造と言うのだそうだ。これも遊びの一種だ。英語で遊びはplayというが、こうした「遊び」はなんと言うのだろう。遊びがなくて、ピンと張ったゴムは切れやすい。少したるんでいるほうが、長持ちする。あるコースで地質学の専門家である入所生が「スカウティングの読図は大したことはないなー」と言ったそうである。これに対して中村知は「スカウティングはプロを育てるのではない。ごっこなんや」と言ったそうである。子どもたちは、遊びによって他の人と交わることで自制心を、仲間と遊ぶことで協力する精神を、遊びのルールを守ることで責任感を、ごっこ遊びで想像力を、与えられた環境下で遊ぶことで創造力を、自分より小さな子どもに教えることで指導力を、大人のすることを真似ることでより高度な技術を身に着ける。遊ぶためには、計画されていない自由な時間と空間が必要だ。遊ぶのは公園よりはらっぱのほうがいい。工夫しないと遊べないし、自分で工夫したものは楽しいからだ。
島藤 紘子
勝手に横から失礼します。ボーイスカウトに女はいらない?といわれ男性に従順な(?)女性が幹部になっていった(?)40年以上も前、母子家庭で育てなければならなくなって息子をこの運動に預けアウトドアが大好きだった私も・・・・何が魅力だ??「スカウティングはゲーム」「自発活動」という言葉でした。早い頃にギルウエルパークへ行くチャンスがあり英語もおぼつかない私が彼の地でじかに感じた日本のスカウト活動とどっかが違う空気???その後トレナーの端に加えていただき期待した息子は早死に、でも若者たちへ伝えたいとかなりの年まで残りました・・・・スカウト活動に女性が加わった時、ガールスカウトと共同のお話も??でも私の身近にいるGSの指導者から絶対無理といわれました(笑)今のスカウト減少を横からずっと見ていましたが????GSのスカウトの方が若者たちだけでのびのびやってますがBSにはいまだ???大人がかかわりすぎ出ようか???スカウトの指導者って何やら「章」がほしい??これがゆがめちゃったかな???於保様にはLT研修でお世話になりましたが、普段から表には出たくない私、ご記憶になないと思います、長々と失礼いたしました。
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於保 信義
島藤様 スカウティングの歴史は、正に運動であったと思います。スカウトより小さい子どもたちが活動に参加してきたので、ウルフ・カブ。大きな子どもたちも続けたいというのでローバー。私たちもスカウティングをしたい、というのでガールガイド。という風に、現実が先行していました。さて、日本のスカウティングはどうでしょうか。変化しないから、人は去っていったのではないでしょうか。指導者訓練は、ギルウェルで直接学んできたと言いながらも、実際は禅や海軍の規律をとりいれるなど本場にはない姿に変えてしまい、その影響が今も続い...
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脱線したついでに、先の原稿に以下を追加します。
先に述べたように学校という制度は、学ぶ側から誕生したものではなかった。学校制度というのはたかだか200年程度の歴史でしかない。学年生や男女別の学校などは、そうした中で作られたものに過ぎない。今、情報技術の目覚ましい発展の中で、教育も変化を迫られている。学年生の廃止、プロジェクト学習、共同学習、IT機器の導入などの波が学校教育にも押し寄せてきている。そうした波を見ると、なんとスカウティングが100年前に取り組みとして提示したものと同じように思える(成果別として)。時代は、教育から学習に変化しようとしている。教え育てるという他動詞から、学ぶという自動詞への変換である。「スカウトは誠実である」は自動詞である。
およそ700万年前にヒトの祖先とチンパンジーの祖先が枝分かれしたと言われる(チンパンジーから進化したわけではない)。そしておよそ30万年前に(数年前に発見された化石から)ホモ・サピエンスという種(これ以外の種はいない)が誕生したと言われる。何万年という単位でヒトは進化を遂げてきたが、その99,9%は...
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小倉 匡平
反論もあろうかと思いますが、敢えて私の感じていることを。
オリンピックとパラリンピック、男女雇用機会均等法と女性役員や議員数などの比率、女性専用車両、専用シートなどなどを見聞きする度に、違和感を持ってしまいます。みんなが同じところで一緒に生きる、生活を共にするための当たり前の他に対する理解や思いやりの気持ちには、わざわざ、区別やハードル、目標数値など設ける必要などないのではと思っています。そんな、人間、社会にとって自然で当たり前のことなのにと思っている私には、於保さんのコメントが心に響きます。
資料を整理していたら、いろいろなことを思い出した。私がスカウティングの資料を英文で読むきっかけになったのは、隊本部の書棚にあったアメリカ連盟のハンドブックからだった。最初は絵を真似る。次に、それでは満足できず書いてあることを知りたくなったので字引を引きながら読む。分からない所が出てくると、学校の英語の先生に教えてもらう(受験志向の先生は教えてくれなかったが)。自分の大好きなスカウティングのことを知りたいと思って字引を引くから苦痛はなかった。書棚には、SfBやRtSの原書もあった。先輩が購入していたのである。後に、これらも読むことになったし、RtSの翻訳にほんの少し関わることになった。学遊一如という言葉があるそうだ。学ぶことと遊びは一致している、ということらしい。いまの学校制度は産業革命以降に作られた。大量生産に従事する苦情を言わない労働者を必要としたのである。そこで「compulsory/強制」した。この英文を日本では学校に行かなければならいという意味で「義務」教育(いま言う義務教育とは別の意味で)とした。どうして、勉強は面白くないのか。その理由...
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山田豊
於保さん 本日、吉原さんからBPの85年の資料を頂きました。於保さんとは昔、中国、四国のトレーナー研究集会の際にお話をさせて頂きました。総長諮問委員会の委員長として奉仕させて頂、於保さんからもいろいろな知識を頂き感謝しております。ありがとうございました‼️
於保 信義
山田様 総長諮問委員会とは、懐かしい。トレーナー研究集会でいろいろ言ったとは!若気の至りとは言い訳になりますが、生意気だったんでしょうね。「B-Pの83年」、本命の原稿の資料作りをしていて、ついつい本格的に調べたものです。日連のミュジアムの改修工事が終わったら知人が届けてくれることになっていますから、ミュジアムが収蔵許可されるなら関東の方は閲覧可能になる予定です。関西の方は、兵庫連盟のミュジアムにお願いして閲覧できるようにしたいと思っています。兵庫連盟のミュジアムは街中ではありませんが、充実しており...
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検案だった資料の搬出が終わった。兵庫連盟のミュジアムを担当されている方を始め、昔からの知人がわざわざ広島を訪れて搬出作業をして下さった。スカウト仲間という言葉を今さらながら実感した。感謝という言葉では言い表せないほどの働きをして頂いた。長年、スカウティングに携わり、知らないことを知りたいという強い欲求からかなりな量の資料が手元にあった。コロナ禍の中で、我が家も終活に取り組むことになり、家人にとってはゴミの山の整理をしていたのだが、集めた本人にとっては捨てるには惜しい、ひょっとすると後輩の方々の参考になるものもあるかもしれないと、兵庫連盟のミュジアムにお話しすると引き取って頂けることになったのである。ミュジアムではこれから整理作業を経て公開されるということだ。お役にたてることを願っている。ヒトの歴史は協力しあって成り立ってきたという。スカウティングが個人のキャラクター・ビルディングだと言われるが、それは集団から離れて成立することはあり得ない。だから、パトロール・システムが性格養成の学校だと言われるのだろう。多くの方々のお世話になって何事かをを成し遂...
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於保 信義
上道 様 本当に有難うございました。皆様とは久しぶりにお会いし、コロナ禍で人と接触する機会がなかったので、ついつい独演会を繰り広げてしまいました。反省しています。これに懲りずにまた何かの機会があればお会いしたいと願っています。
今日はThinking Day
B-Pと夫人の誕生日をガールスカウト(ガイド)はThinking Day(片仮名で書くと「沈み」そうなので、英語のままにした)と呼んでさまざまなテーマを設定し、活動を支援する基金まで設けて取り組んでいる。
残された時間は僅かになった今頃になって、考えることの大切さを痛切に感じている。せっかくの機会だから、ちかいについて考えてみることにし、アメリカ連盟のボーイスカウト・ハンドブックにどう書かれているか調べてみた。日本連盟の現行のちかいは占領下にアメリカ連盟のものを翻訳したものだと聞いていたからである。
以下は、第11版(1998年)の拙訳である。...
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Rick Shimizu
もう一つ引用ですが…
[The ideals of the Boy Scouts of America are spelled out in the Scout Oath, Scout Law, Scout motto, and Scout slogan. Members incorporating these ideals into their daily lives at home, at school, in their religious life, and in their neighb...
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「スラムに住む貧しい少年たちの間にスカウティングを」広めることは、B-Pが最も強く望んだことの一つであった。― スカウト運動 E.E. レイノルズ著
ブラウンシー島の実験キャンプでB-Pは、パブリックスクールの少年から1ポンド(現在の日本円にして13,255円、ボーイズブリゲードの少年から3シリング6ペンス(2,310円)を徴収した。
1911年、B-Pはロランド・フィリップスをロンドン東部地区のコミッショナーに任命した。ロランド・フィリップスは、役に立ちたいと望んでいる少年たちが住むスラムの中で生活できるように、その年のうちにステプニーに一軒の家を購入した。― ベイデン・ポール ティム・ジール著...
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於保 信義
ギルウェルを寄贈したマクラレンの希望は、ロンドンのスラム街の少年たちがキャンプできる場所を提供したい、ということでした。だから、ロランドハウスでスカウティングに奉仕をしていたネヴィルやRSたちが探し出しました。指導者訓練を必要としていたB-Pは、マクラレンに指導者訓練にも使っていいという承諾を得て、使えることになりました。主たる使用者は子どもたちであったことが忘れられているような気がします。ご紹介頂いた映像を見て、「変化する」「柔軟性」という言葉を思い浮かべました。イギリス連盟は進化しています。ヒト...
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経費
経費はほとんどかからない。いくつかのバッジ以外に器具や制服は全く必要ではない。新しく作られる少年たちの組織の主な支出項目は、部屋の賃借料と照明費、事務用品、数冊の本、バッジなどで、それらは会員たちからのわずかな会費で賄えるだろう。
― ボーイスカウト;計画の概要 1907年12月
1月8日
私の誕生日を祝うお言葉をお寄せ頂いた皆様に心からの御礼を申し上げます。
コロナ禍のせいで巣ごもり生活が長くなったためか、このところ短期記憶力が激しく低下しています。また、新聞記事などの報道を見ても必ずと言っていいくらい、分からない言葉、特にカタカナ語の出現に悩まされています。完璧に賞味期限切れ、ラ・フランス状態です。
私に残された時間は少なくなったのですが、しておきたいことが沢山残っています。そうした中で、元旦から一度作っていたB-Pの年譜の見直しをしています。古いことを知ってどうなる、と言われる方もありますが、過去は未来へつなぐものだと私は思っています。とはいうものも、何が歴史的事実かを見極めるのは難しいものがあります。
ラスロ・ナジが書いた「2億5千万人のスカウト」に「彼は、ロバート・スティブンソン・スミス・ベイデンとしてこの世に生を受け…」とありました。おや、と思って英原文を見てみると、その通りでした。ところが、次のページには、「父親はわれわれのヒーロー、ロバート・スティブンソン・スミス・パウエルが…」となっています。...
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遠藤 利朗
お久し振りです。😁以前にも、同じ誕生日を迎えましたとお話ししたと思います。😆 とりあえず誕生日おめでとう🎁🎂ございます。😁
於保 信義
有り難うございます。「B-Pの展望」の結びのタイトルは「古き秩序は代わり、新しきに譲る」です。新たな生命の誕生に、この言葉を思い出しました。
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do my best ?
先日来、頭の片隅から離れないものがある。それは「do my best」の一句である。世界最大の青少年教育団体の創始者は、1907年に提示したoathをpromiseに変え、第二条にあった「do my best」を前文に持ってくるなどの変更をした(1912年のこと)。それは、少年たちに与える負荷を軽減することからだったと言われている。
今年、とあるOBクラブの会報に「おきてとちかい」(この順番は大切だ)について寄稿させて頂いた。原稿を書くために、少し調べてみた。そこで、以前から疑問に思っていた「do my best(訳文としては「最善をつくす」か「一所懸命に努力する」)」という文句が、日本のものには戦前も戦後も見られないという問題に再び出くわした。文言のモデルとなったものは戦前のものはイギリス連盟のもの、戦後はアメリカ連盟のものと思われるが、いずれにも、この文言はある。意図して外したとしか言いようがない。戦前、少年団員であった方は「宣誓(今でいうちかい)のことを軽々しく言ってはいけない。宣誓は天地神明にかけて行うものだから...
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西郷 崇子
Let's do my BEST ✌️
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友達リクエストをお寄せ頂いた皆様へ 現在80人の方々を承認させて頂いています。FBにおける「友達」の定義がどういうものか分かりませんが、誠実にお付き合いさせて頂くには私にとって80人は多すぎます。ということで、それ以上は大変失礼ですが、お断りさせて頂いています。ご理解を賜れば幸いです。
西郷 崇子
80人の中に入れそこ無いましたのは残念でしたが、於保さんのご誠意しかとご理解申し上げて居ります💕
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73年目のヒロシマ
 筆者は「広島」を「廣島、ヒロシマ、広島、ひろしま」と書き分けている。「廣島」は戦前の軍都であった時代を、「ヒロシマ」は人類史上初の被爆地として、「広島」は戦後の復興都市として、「ひろしま」は故郷として想う時に使っている。
 戦前の広島は軍都であった。明治27年に始まった日清戦争の時、広島に大本営が置かれ、明治天皇も一時的に東京から移り、帝国議会も開かれ臨時首都でもあったのである。以来、兵士の多くはこの広島から船に乗って大陸へ渡り続けた。日清戦争が終わると広島湾に浮かぶ似島に帰還兵士のための検疫所が設けられた。軍からの要請で2か月という短期間この施設を立ち上げたのは少年団日本連盟の総裁を務めた後藤新平(彼は医師だった)であった。この施設のおかげで、国内に疫病などが持ち込まれないで済んだという。この検疫所は被爆後、被爆者の臨時救護所として使われた。
 今日、ヒロシマは被爆73年を迎えた。いつものように、自転車で平和公園(英語表記ではPeace Memorial Parkと言う。爆心地に作られた公園がなぜ、被爆の名を冠するのではなく平和記念なのか。それは占領下に原爆という名称が付けられなかったからだ)に向かう。昨年、教育予算が市に移譲されたことから教職員の出勤ができなくなったことから廃止されていた小中学生の登校日が、例外的に認められ今年は復活した。法というのは人のためにあるのに、何という杓子定規な判断かとあきれたものだ。大勢の子どもたちの登校姿が見られ、この子たちに被爆の実相を伝えて欲しいと願った。
 平和公園に着くと、今年もスカウトたちが式次第を書いたパンフレットを参列者たちに配布していた。私の少年時代には献花用の花だったのだが、何時からパンフレットになったのか、またそもそもこの奉仕が何時から始まったのか、定かではない。
 何年のことであったか覚えていないが、神戸でアグナリーが開かれ、その帰途オーストラリアのスカウト(スカウト3人と指導者2人)が広島を訪れるので案内をして欲しい、と日連の知人から連絡があり、案内したことがある。原爆資料館(これは通称で、正確には「広島平和記念資料館」という。ここにも「原爆」という言葉が使われていない)を案内したら、スカウトを引率していたリーダーが憮然としていた。立教大学の元ローバーがオーストラリアから付き添っていたので聞いてもらったら、「この資料館は被害のことだけを主張している。しかし、戦争は被害と加害の両面があるのではないか」と言っているということだった。さらに聞いてみると、その指導者の伯父に当たる人はニューギニア戦線で日本軍に殺された、ということだった。それから4年後、再び彼らがやってきた。仕事の空いた時間に数年前に会った指導者と話をすることができた。「あれから、日本を訪れたらヒロシマは必ず訪れるべき地だと思うようになり、今回は派遣団長だったのでみんなを連れてやってきた」ということだった。4年前に訪れたスカウトたちのことを聞くと、顔をくしゃくしゃにして涙しながら、「残念だけど、3人とも亡くなった」と言われ、一言もなかった。そうしたこともあって、筆者は広島のスカウトたちが県外や海外のスカウトたちのヒロシマ案内ができたら素晴らしいと思って「ヒロシマ平和スカウト章」なるものを創ってはどうかと提唱した。しかし、これは筆者の力不足から実現しなかった。
 B-Pは、イギリスの国内大会に海外スカウトが参加している姿を目にして第一次世界大戦後、ジャンボリーを創設した。世界中のスカウトたちが仲良くなれば、平和は実現できると考えたのである。それをユートピアンだと揶揄する人たちもいる。平和は見果てぬ夢かもしれないが、人びとが仲良く助けあいながら生活する世界であって欲しいと思う。自分に何ができるのか、残された時間はそう長くはない。B-PはSfBに「我々はPeace ScoutであってWar Scoutではない」と書いている。
 青雲のもと つどいし われら スカウトの 平和の備え ここになる
 仰げ 燦然 ヒロシマのみ空 聞け 高らかに鳴る 平和の鐘の音
 上記は、戦後、郷里に広島に一時暮らした中村知氏の作詞作曲した「平和の結盟」(その後、ヒロシマ・ジャムボリーの歌と改定された)の一番である。この歌を知る人は広島にもほとんどいない。
 原爆資料館の1階に一つの時計がある。1945年8月6日から26,663日、最後の核実験から337日と表示してあった。
(2018/8/6)
上道 小太郎
シェアいたしました。昨年訪れた平和公園、資料館を思い出しました。できるだけ早く再訪いたします。その節はありがとうございました。
参った!!今書いているものに資料として付けたい記事が保存したUSBメモリーから消えていた。*しか出てこない。機械に弱いので信じ込んでいたのが大間違いだったのだろう。団担当コミの説明会用に作った資料が全てパーになった。右も左も分からない中で苦労して作った資料である。やれやれ!やっぱり記録保存は紙に限る。痛い教訓だ。
於保 信義
上道様、小暮様、有難うございます。素人のゆえか、USBに保存したのですっかり安心していました。一度翻訳したものを今書いているものの参考資料として付けたいと思ったのです。そこで、これがない。訳しなおすかと思って知人がお土産にくれたカナダ連盟の本に当たってみると、ない。それ以前に別の知人がコピーさせてくれたものをみたら、そこにありました。'98年版と'04年版では内容が変更されていたのです。時代は変化しています。殊にITが発展してからの速度は著しいものがあります。私が会社に入った時、計算はソロバン。次に...
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2014年5月発行の「基本原則」に掲載されているWOSMの憲章は2008年7月 第38回世界スカウト会議にて下線部を加筆・修正となっており、目的の知的と社会的の間に情緒的が追加されたとなっています。そこで、WOSMが発行しているこの会議の決議を見たのですが、この追加が見当たりません。第38回で間違いないのでしょうか。第39回の決議文にはこの追加がなされた文章が載っています。どなたか、ご教示頂ければ幸いです。
 誕生日を祝う言葉をお寄せ頂いた皆様に心からの御礼を申し上げます。
 73歳になりました。偶然、B-Pが亡くなった日付でした。
 小学校5年の時、亡くなった友人に誘われてスカウトになりました。最近とみに体力、知力ともに衰えを感じるようになりました。先日、FBに投稿していた記事を見て愕然としました。壊れた蓄音機のように同じことを初めて書くように繰り返し書いていました。記憶力が急激に衰えたようで、家人との会話には「あれ」「それ」という言葉を頻発するようになりました。今書いているものの参考にとヨーロッパ地域連盟が発行したThe Green Islandを再読していたら、日本のスカウト運動の現状に当てはまるなあーと改めて感心していると、ふっとFBに訳を掲載した時に同じことを感じたことを思い出しました。
 時代の変化は急激で、私が経験したスカウティングが今の青少年にとって同じように魅力的だとは思えません。新しいことが全ていいとは思えませんが、逆もまた真理でしょう。
 私は確実に人生の下り坂を歩んでいます。スカウトだった頃、登る時より下りの時の方が危ない、と...
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Isamu Nagai
拝啓、
お久しぶりです。
東京第164団の永井です。...
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予定していなかったのですが、一つだけ追加します。
私はもうすぐ73歳になる老いぼれです。最近は立ち上がるのに、壁にでもすがらないとよたよたします。与太者です。いつも手帳に入れて読むものがあります。長いので最後の部分だけ書きます。
北ニケンカヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイイ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ...
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塩川 晃平
また、胸を借ります・・・。
根底では通ずるところがあると思うのですが・・・、
東洋の考え方(思想)と民主主義って、相容れるのだろうか?と言う疑問です。...
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  • 編集済み
 以下は、筆者のつぶやきのようなものなので、パスされてもよい。
 筆者は現在、日本連盟に加盟登録していない。加盟員である少なからぬ方々からすると、筆者はスカウトではない。しかし、キッチナーやB-Pの言葉からすると、筆者はおそらく「スカウト」であろう。それはB-Pのスカウトに向けた最後のメッセージの手書き原稿にあるleave this world a little 〝bit〟the better(〝〟は筆者)/この世界を「ほんの」少しでも良いものにして残す、という言葉(日本連盟は、手書き原稿によるラスト・メッセージは採用していないので、この一文は少し異なっている)を自分にできる範囲で(do my best/最善をつくす、日本連盟のちかいにこの文言はない)実践しようと努めているからである。B-Pは、幸福というものは他の人たちを幸福にすることによって得られる、としている。最近の脳神経に関する研究では、人は他の人の笑顔をみると優しい気持ちになるそうだ。だから、笑顔でいるだけでもいい。筆者の場合、スカウト運動やスカウトたちに貢献することはできないが、別の世...
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大場宣昭
心に留め置きたいと思います🙇
於保 信義
島藤 様 ご子息が急死されたとのこと、心が痛みます。心からのお悔みを申し上げます。諸外国の状況は知りませんが、日本では家父長意識がとても強いようです。時折、それは女性に同じ立場を与えると、自分の存在価値が小さくなってしまうことへの恐れからくるのではないかと感じます。以前にも書きましたが、夫がスカウティングを始め、キャンプに行くとき、キャラコ生地でテントらしきものを縫ったり、第一次世界大戦に従軍した夫に代わって、隊を維持したのは夫人たちでした。スカウティングはSfBを読んだ人たちや青少年たち(女の子も...
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 「キッチナー卿が言った『Once a Scout, Always a Scout』というのは、『いちどスカウトになった者は、いつもスカウトであり続けねばならない』ということを君たちスカウトに忠告したものである。それは君たちがいつでもスカウティングが習慣になるようにすべきだということを言っているのである。
 そのスカウティングというのは、
自分自身を有能にすること ― 物事をうまく処理すること
最善をつくすこと ― 立派にできないかもしれないが、あきらめずに最善をつくすこと
他の人たちを助けること ― 機会があればどんな時でも...
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塩川 晃平
それでは、於保さんも加盟員じゃないなんて卑下しないで、今年もスカウティングに邁進してください!
於保さんの投稿、楽しみにしています!
 あけましておめどとうございます。
以下は、筆者が今年をどう過ごすか忘れないようにするため、直ぐに安易に流れる自分を叱咤するために書いたものです。長文なので3回に分けて掲載します。
♫ ひとたびスカウトに
ひとたびスカウトにちかいを立ててなりし身は...
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塩川 晃平
於保さん、あけまして、おめでとうございます。
私は、スカウティングは、世界を救えると思っています。
すでに終わった運動ではなく、これから必要な運動だと思っています。...
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何のための、誰のためのスカウティングか
 今年も今日を入れて残すところ5日となった。今年を振り返り、来年への抱負を考えられる方も多いだろう。それには「何のための、誰のためのスカウティングか」というテーマはどうだろうか。これは、1996年にノルウェイのオスロで開催された世界会議で21世紀のスカウティングに向けた戦略を構築するに当たって参加者たちが取り組んだワークショップのテーマだった。しかし、このテーマはスカウト運動に関わる全ての成人たちが常に自らに問うべきテーマではないかと思う。
 実は、私にはこういうことを言う資格はない。それは、私が副団委員長、県副コミ、トレーナー、日連AR委員をしている時に団が潰れたからである(兼務が多いようだが、実質はAR委員としての任務に集中していた、というより兼務できる能力はなかった)。その時、私は責任上すべての任務から身を引くことにした。すると、ある尊敬する先輩から「団が潰れたのは何もあなただけの責任ではないだろう。あなたの知識と経験を必要とする人たちがいる限り、スカウティングは続けるべきだ」という手紙を頂いた。そこ...
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上道 小太郎
スカウト運動だけではないのですが、わが国では教育について、振幅が大きすぎると思います。その典型が「ゆとり教育」と言われるものです。詰め込み落ちこぼし、受験戦争が子供達の心を蝕むといって「心の教育」が声高に謳われ、授業内容を精選して授業時数を減らし「ゆとり」を生み出そうという大方針は、たかだか数年で「学力低下」を理由に方針転換されました。またぞろ、授業内容が増え、教科書が分厚くなり、授業時数が増加しています。
同じように、スカウト教育でも、方針やプログラムが猫の目のようにコロコロ変わります。ワークショ...
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今日はクリスマス・イヴ。筆者はクリスチャンではないが、モーゼの十戒と山上の垂訓を思い出した。スカウトのおきては山上の垂訓を念頭において考えた、とB-Pは言っている。B-PがSfBの初版で提示したおきては9カ条だったが、1911年の第4版から「スカウトは考え方、言葉遣い、行動において清らかである」という第10条を付け加えた。2004年に解説文を加えたSfB初版を復刻したノッティンガム・トレント大学のボーマー教授は、B-Pはモーゼの十戒を意識して付け足し、それは彼の清潔に対する原則を示したものであったとしている。しかし、B-Pが考案したおきてと山上の垂訓(モーゼの十戒が前提にある)とは根本的に違うところがある。それは、スカウトのおきてには「~すべし」「~してはならない」という否定的な言葉が使われていないということである。スカウトは「~する」というように能動的な表現になっているのである。B-Pは禁止や「~せよ」という言葉は逆のことをするよう煽ることになることを知っていたのである。
スカウト・スピリットを一言でいうなら、ちかいとおきてである。スカウト指導...
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塩川 晃平
キャンプバカの私が、地区内では、優秀な田中さんと佐藤さんにご教授頂き、ネットに出ては、早い時期に上道さんが、指導者訓練体系の改定で意見交換させていただいて、大変勉強になりました。ご教授頂いた部分が多くありました。そして、於保さんとめぐり会って、講演なども頂き、私の考えが整理出来、確信を得るに至ったのです。
「排除」は、全体主義で、「共感」(理解しあう)することは、民主主義であろうと思います。
ムラ社会構造(ヒエラルキー構造)から、真の民主主義になるよう、努力したいと思います。
平和を求めて
 今年のノーベル文学賞と平和賞が被爆二世と被爆者に関係しているという偶然に驚きかつ、お二人から元気づけられた。
 第二次世界大戦から72年、世界から戦争とその火種が消えることがない。やられたらやり返すではなく、やられる前に相手を倒そうという気運がじわじわと広がっているような気がしてならない。人類史や脳神経の研究している人の中には、人類はもともと好戦的ではなかったし、ヒトの脳は好戦的にできていない、という研究成果を発表している人たちもいる。
 武力によらないで話し合いで解決を目指そうとか平和を、というと「現実を分かっていない平和ボケ」などと罵倒されることも多い。
 1922年、パリでの第2回国際会議を終えて、B-Pはジュネーブで開かれた第3回世界倫理教育学会に招かれ、「恐怖ではなく愛の教育を」と題した基調演説を行った。第一次世界大戦の惨禍を目の当たりにし、第1回国際ジャンボリー(名称を世界に変えたのは第3回から)を経て、B-Pは世界中のスカウトたちがジャンボリーや文通、相互訪問を行うことで仲良くなれば、戦争は防ぐことができると考えたの...
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Rick Shimizu
改行と持ったら、どうも既に載ったようですが、そんな事から、私見ですが戦争体験者が減ると、新たな戦争の危険が増すように感じますね。それで、一次大戦後もそうですが、一定期間が過ぎると始まるようです。危ない!しかし、権力、時に暴力に強制されて人々は、まったく望まぬ戦争へ駆り出されるのでしょう。人間は、戦場では「鬼畜」に変化するようです。そうなるように仕向けられるのか、何なのか。無事生き抜いても、ベトナム戦争後のPTSD患者に象徴される病んだ人々、その後の中東でも多くの兵士が傷痍軍人となった悲劇。分かってい...
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於保 信義
Rick Shimizu 様 有難うございます。世に「憎まれっ子世にはばかる」という言葉があります。長生きしそうです。しかし、脳の方がいけません。「基本原則」についてまとめていますが、数ページ前に書いたことを失念して、初めてのようにまた書いたりしています。おー、ノーです。かつて、Once a Scout, Always a Scout.の言葉について調べ、まとめたことがあります。確かUSBに保存したので、見つかればまたお送りします。
とある手続きで本人確認の証明になるものを求められて、個人番号カードを提示したら、認められなかった。免許証かパスポート、それもないなら、住民票(戸籍謄本は不可)と保険証+公共料金の領収書を提示するよう求められた。顔写真付きの個人番号カードは一体何のためなのだろうか。やはり、個人番号は収入を一網打尽に把握するだけのものでしかないようだ。住民票にも戸籍謄本、公共料金の領収書にしても名前が書かれているだけだから、他人がなりすましても分からない。はて、私はどうやって私であることを他人に証明できるのだろうか。結局、書類というものはフィクションに過ぎないということか。相手が認めれれば、その人になれるに過ぎない。
高橋 浩道
マイナンバーの仕事をしていますが、民間企業では安全管理の関係からマイナンバーカードにはアレルギー感がありますね
新聞記事から
連休に西宮に住む娘夫婦宅へ出かける。地元紙を見たら、ヘンリー・ミトワ師の生涯が映画化された記事が載っていた。題名は「禅と骨」(残念ながら広島のような田舎では上映されないようだ)。ヘンリー師は禅のお坊さんで、B-Pが来日した際、横浜港で出迎えたグリフィン隊にいたスカウトで、戦後日本連盟が再出発する際に尽力したジョン・ミトワさんの弟さんである。この兄弟の父はアメリカ人、母は日本人だった。先の大戦の際、ジョンさんは日本でヘンリーさんはアメリカで敵性外国人として収用された。ジョンさんと私はギルウェル・コースで同じ班で、日本語の誤用をしばしば注意された。
同じ新聞の少し古いものに私が関心を抱いていることの記事が載っていたので、とっておいてくれた。それには、広島のスタンドで被爆者からの話を聞く会を主催していたマスターが書いた本の書評が載っており、被爆で両親を失った子どもたちを親身になって面倒をみたのは九州からやってきたヤクザたちであった、と記されていた。私がスカウトになった頃、私の隊にも兄妹だけが生き残ったスカウトがいた。育成会長が手を差し伸べ...
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荒西 完治
私もこの映画の紹介をいただき神戸で鑑賞しました。
私のWebサイトでヘンリーミトワ氏に関するエッセイをいただき紹介しています。
於保 信義
広島でも上映されたので先日観に行ってきました。ジョンさんが戦前に現行のスカウト章を付けたベレーを被っていたのは失笑しました。ヘンリさんの件、貴連盟の中山さんから資料を頂きました。勇ましい言葉を最近、よく耳にします。戦争が起こると、先の大戦の比ではないような大惨事がもたらされることでしょう。強気なことを言う人は決して戦場に行くことはありません。
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分かるのに時間がかかった
 ずい分昔のことだが、兄から「お前はこれだから」とピースサインを示されて、分からなかった。ピースサインは指が二本だから「に」、形はVだから「にぶい」ということだった。
 スカウティングに関わって60年を越える。今頃になってB-Pがスカウティングに托した思いはラストメッセージに示してあり、より多くの人たちが「幸せに生き、幸せに死ぬ」ことだということが分かった。スカウト教育法はB-Pが考えたその手段に過ぎない。
 もう一つ分かったことはキッチナーが言ったOnce a Scout, Always a Scout.は一度スカウトとしてちかいを立てた者はスカウト運動から離れても、スカウトスピリット(ちかいとおきて)を実践しながら人生を送りなさいという意味で、当然ながらスカウト運動に関わり続けなさい、という意味ではない、ということである。筆者の団は潰れた。当時、日連の委員やトレーナーをしていたので、責任をとって運動から身を引こうと思った。ところが、ある先輩がイギリス連盟のスカウティング誌に掲載されていた一文を訳したものを送ってくれ(...
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Rick Shimizu
追伸:於保さんのコメントは、このFBだけでなく、団その他でもシェアさせて頂きますが、宜しいでしょうか。「ちーやん夜話」からのものは、既に幾話もシェアさせて頂いておりますので・・・
シティズンシップ
 SfB初版の副題は「よい市民性を教えるための手引書(現在日連から発行されているものの訳文)/A Handbook for Instruction in Good Citizenship」である。1924年に発行された第11版からthrough Woodcraftの語句が追加され、B-Pが関与した改訂の最後の版第20版まで、それは変更されていない。
 Citizenshipには適切な訳語がないようだ。市民性という訳語も広辞苑には載っていない。ある英々辞典によると「地域社会の一員であるという事実とそれによってもたらされる義務と責任」とある。B-Pはスカウティングを、シティズンシップを教える場として考えていたのだ。日本のスカウト界では政治向きの話はほぼタブー視されているが、それはスカウト運動組織を政治利用しないということであって、政治について学習しない、ということではない。日常生活の中に政治に関わらない事象はほとんどないからだ。
 イギリスが義務教育にシティズンシップ教育を必須科目として導入したのは2003年頃だから(連合王国だから...
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島藤 紘子
民主主義での市民とは?なんでも組織のトップに立った人に「御意!」という事なのでしょうか。スカウトもちゃんと考えられる市民を育てることですよね。でも政治向きや組織の一部に疑問を呈する事さえ出来ないスカウトって???前からの疑問です。ボーイスカウトって右ですよねってあから様に言われたことがありました。
断捨離の一環で似たような書類を沢山捨ててしまっています。基本原則について少し調べていますが、成人指導者訓練に何時から「基本原則」のセッションが導入されたのか分かりません。私が「スカウティング解体新書」を書き、WOSMの「基本原則」を訳出したのは2002年ですから、それ以降に講習会などに導入されたと記憶しています。日本連盟に問い合わせしたのですが、講習会の「開設の手引き」の古いものは保存されていないので調べようがありません。資料をお持ちの方で導入時期が分かればご教示頂ければ幸いです。
72年目のヒロシマ
2017年8月6日日曜日、広島市の空は72前と同様に晴れ渡っていた。いつものように自転車で平和公園へ向かう。今年は、小学生たちの姿を全く見かけなかった。今年、地方分権の一環で教職員の人事権限が丸ごと広島市に移り、市職員向けの8月6日を休日とする条例が適用されるため、広島市の半数以上の小中学校が平和学習目的に設定していた登校日がなくなったためである。2000年に広島市教育委員会が調査したところ、小学生の3人に1人しか原爆投下の年月日と時刻を答えられなかった(これは、文部省から派遣された県の教育長が広島で行われていた平和教育を嫌悪して平和学習が後退したために起こったことだった)。この事態にショックを受けた広島市教育委員会は、2004年度から8月6日を中心に平和集会を開くよう指導し、2015年の調査では7割以上の児童が答えられるまで回復していたのである。
今年3月末の集計によれば、被爆者の数は164,621人、この10年で87,000人あまりの方々が亡くなった。被爆者の平均年齢は81.41歳である。今年で70回目を迎える平和祈念式(平和記念式典)ではこの1年の間に亡くなった5,530人の方の名前が追加されて慰霊碑に納められた(名簿は113冊308,725人にのぼる)。5月には、あの日爆心地からわずか800mしか離れていない広島城内にあった旧中国軍管区司令部防空作戦室で奇跡的に通じた電話で広島壊滅の第一報を発信した比治山高等女学校の生徒だった岡ヨシエさんが86歳で亡くなっている。岡さんは自らの体験を伝える活動を亡くなる少し前まで続けられていたという。被爆の実相を語れる人は確実に少なくなっている。
広島市長は平和宣言の中で今年7月に国連加盟国のうち122ヵ国が賛成して成立した核兵器禁止条約に触れ、核保有国とともに交渉にさえ参加しなかった日本政府が被爆国としての役割を果たして欲しいと述べた。ところが、その後に行った安倍総理大臣の挨拶では歴史的な条約成立には一言も触れないどころか、2020年に50周年を迎える核兵器不拡散条約に触れるというちぐはぐさであった。核兵器禁止条約は前文でヒバクシャ(この言葉はhibakusyaと表記され、国際語になっている)について言及するなど画期的なもので(広島の地元紙は全文を紹介しているが、全国紙では紹介されていない。)、被爆者団体のほとんどが日本政府の対応について疑問を呈している。
最後にスカウト運動の関わりについて触れたい。
例年の広島市長の平和宣言には被爆者の言葉が紹介される。今年はスカウト関係者の言葉が引用された。
8月5日の地元紙には。7月に開かれたアメリカ・ジャンボリーに参加したスカウトのことが紹介された。彼は山口で開かれたWSJと昨年のオバマ大統領が寄贈した千羽鶴からヒントを得て、ジャンボリー会場でアメリカのスカウトたち90人に協力してもらって折った千羽鶴を恒例となっているパンフレット配布の奉仕の後、折り鶴の子の像に捧げるそうである。
また、地元紙には結婚して広島に住み着いたイギリス人女性が原爆で両親を亡くし自身も被爆者である女性と協力して平和ボランティアをしていることが紹介されていた。その協力者の女性は、私が育った原隊に併設されていたガールスカウト指導者である。80歳を越える彼女は、原爆ドームをリボンで囲む取り組みや広島に赤十字の大量の支援物資を運んだジュノー博士の碑前祭などの活動を続けるほか、神奈川県のガールスカウトたちが自発的に企画したヒロシマ学習で語り部を務めたりしている。残念ながらボーイの側には、そうした取り組みはほとんど無い(私が知らないだけかもしれない)。WOSMや日本連盟が、WSJで行ったヒロシマ・スタディ・ツアーをどのように総括されたのだろうか。広島市を訪れた2016年の外国人観光客は1,176,000人で前年より14.3%増えたという。しかし、平和公園に日本のスカウトたちが訪れている姿はほとんど目にしない。一過性の取り組みに終わって欲しくないものだ。
私の個人的な経験に過ぎないのかもしれないが、スカウト活動の中で「平和」と言うと、「政治的」と判断されることが多いようだ。広島に生まれ、広島で育った者が核兵器廃絶、平和でありたいと唱えることがどうして政治的に偏った発言になるのだろうか。社会では被爆経験のない人たちが被爆の実相を継承したいと活動を始めている。平和大使の派遣やヒロシマガイドの取り組みも始まっている。社会は変わっている。日本のスカウト界は社会の変化とともに変わっているだろうか。
大きな骨は 先生ならん
そのそばに小さきあたまの骨
    あつまれり
国民学校教師と子どもの碑に刻まれた詩である。
悲劇を繰り返してはならない。('17/8/6)
西石垣 文江
いま、佐々木禎子ちゃんの甥っ子の佐々木ゆうじさんと繋がり、23WSJの場内案内、ミニミニゲリラライブをしました。本当は、大ステージで紹介されてもおかしくない方なんですが、、、。未来に期待してます。
真逆
 「嘘をついてはいけない」「人の悪口を言ってはいけない」「弱い者いじめはいけない、みんなと仲良くしなさい」「無駄遣いしないで物を大切にしなさい」「ご飯は作った人に感謝しながら一つ残らず食べなさい」、「いつもみんなのためを思って行動しなさい」等々。家庭や近所の人たちから教えられたことだ(インフォーマル教育)。ところが、今、社会はそれとは全く逆の方向に進んでいるように思えてならない。嘘をついたら「記憶違いでした」と答えたり、「お金をどんどん使いましょう」とか、不倫しても「法に反していないのだから、責任をとる必要はない」、自分と異なる意見には「嫌なら出ていけ」といった言葉を耳にすると、私が教えられたことは間違いであったのか、私の価値判断基準は古臭く、老いぼれのたわごとに過ぎなくなってしまったのだろうか。
私が子どもの時代に教えられた、上記のような教えを今想いおこしてみると、驚くほどスカウトのおきての言葉にあるものばかりだ。B-Pはおきてをキリストの山上の垂訓にヒントをえて作ったとしているが、しかし、そこには決定的な違いがあった。それまで、規則やお...
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読者の方々のご迷惑も省みず、長文のものを掲載しました。どこかで切って分割して掲載すればよかったのですが、流れの中で一気に読んで頂きたいという思いが強く、そうさせて頂きました。賛否両論、いろいろあると思います。加盟員でもない者が、とお怒りの方もあるでしょう。素晴らしいスカウティングを願ってのことでということでご容赦頂ければ幸いです。歳のせいにするのは言い訳でしょうが、読み返してみると既に書いたことの繰り返し、言葉不足も多く見受けられます。長文で画面を見るのに難儀された方もあろうかと思います。重ねてお詫び申し上げます。拙稿の掲載には珍しく100人を超える「いいね」を頂戴したものもありました。有難うございました。
吉原 滋彌
50年以上前にもなりますが貴兄が慶応の学生時代に指導を受けたのが私の宝です。今後もご助言を戴ければ幸いです。
於保 信義
いやー、新任トレーナーの名簿を見てあなたがトレーナーになったのを知りお会いした時にはびっくりしました。私も少しはいいことをしていたのだと感謝の気持ちで一杯でした。機会があれば、またお会いできればと思っています。
この稿をそろそろ締めたいと思う。
スカウティングは南ア戦争を終えてロンドンに帰り、イギリス各地を見て回る中で危機感を感じたB-Pが考え出したものだった。B-Pは激しい貧富の格差の中で仕事もなく、街にたむろし、タバコを吸ったり酒を飲んだりして泥酔する青少年の姿を見て、国家の危機を感じたのである。それは南ア戦争で数万人のボア軍に数十万のイギリス軍が容易に勝てなかったという事実に基づいていた。そうした中で、彼が軍人向けに書いた「斥候の栞」という小さな本が教育関係で使われていることを知り、ボーイズ・ブリゲードの創設者から子ども向けのものを書いてはどうかと勧められSfBを書いた。それはイギリスを何とかしなければならないという愛国的かつ軍事的な考え方からだった。ところが、それは彼の思惑と違ってSfBの扱われ方は異なる方向に進んでいった。世界的な広がりをみせていったのである。イギリス国内の大集会に海外のスカウトたちが参加し始めた。そして第一次世界大戦が起こり、彼は総力戦という戦争の悲惨さを目の当たりにし、平和を希求するようになった。彼は現場で叩き上げた軍人だっ...
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大塚 義紀
有り難うございます。
シェアさせて頂きます。
戦前の日本のスカウト運動はイギリスのやり方にならい、戦後はGHQの指導の下にアメリカ式がとられた。ちかいやおきてはもとより、組織の仕組みはほぼアメリカの仕組みが取り入れられたが、考え方には戦前の意識が残っていた。アメリカ式とかイギリス式とかというのがあるのか、と思われるかもしれないが、それはある。例えば、アメリカに団の制度はない、アメリカでは上級班長は常設的でハンドブックまであるが(今は知らない)、イギリスでは事情に応じて置かれるだけでもちろんハンドブックなどない。コミッショナーと英語で言うが、イギリスとアメリカではその概念・役割が大きく異なっている。日本の場合は、どちらでもないような気がする。
各国のおかれた状況に応じて、組織や運営の仕方は異なる。だから、それをそのまま、自国に適用すると問題が起こる。WOSMが提起しているのは、各国への参考資料、ガイドラインのような大まかな方向性を示したもので強制力などない。提示されたもの(世界会議で採択されたもの)をどう自国に適用していくかは各国の問題なのである。だから、無視していいとは思わない。参考になるな...
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Aquila Kobayaski
現在も、あります。
写真の説明はありません。
地区コミ→県コミ→理事→理事長→県副理事長といった履歴の流れはないだろうか。日連にも同様な流れがあるような気がする(例えば、委員→委員長→総コミ→今はないが中央審議会議員→理事→県連に戻って理事長→ブロック代表→名誉会議議員。優秀な人は、どんな任務もこなせるということだろうか。
AR方針が提起される中で定年制が導入された。スカウティングはゲームだから、細々とした規則を次々と制定するのは好ましくない。歳をとっても過不足なく任務をこなす有能な方もある、それを一律に定年にするのか、という声をたくさん聞いた。間違いなく優秀な方もある。だが、どれだけ優秀な人であっても特定の人が長くとどまっていることは、①新たな芽が育つ可能性を低くする、②組織が硬直化してしまう可能性が高くなり、柔軟性が失われかねない、③良きにつけ悪しきにつけ影響力が肥大化する、④多様性がなくなる、⑤マンネリ化して新たな展開が望めなくなる、といった弊害が生じかねないのである。水は流れるから清冽さを保っているのであり、澱めば必ず腐敗していく。定年制は立場を変えても役職について延々と影響力を行使...
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塩川 晃平
あら?投稿削られちゃったかしら?
なんか、日連で、広報のチームを作るみたいだったが・・・。
先に、「筆者がどういうことから日連の委員に選任されたか、今もって分からない」と書いた。人事というのは、基本的にブラックボックスなのかもしれない。筆者がどっぷりとスカウティングにはまっていた頃、実修所の所長の名前を聞くと、スタッフの構成がおよそ分かった。所長の取り巻きの人たちが選任されるからだ。そこには同質性は存在するが、多様性はない。多様性があるからこそ可能性は広がるのである。スカウティングは団体教育ではなく個人教育だ、と言いながら、なぜパトロール・システムを行うのだろうか。それは人間は個人であると同時に社会的な存在だからである。人は社会という集団の中で生きながら個人的な発達を遂げていく。いじめの中でシカトと呼ばれる集団からの排除が最も厳しいものだと言われ、いじめの被害者が、いじめられていることをなかなか口にせず、加害者を守ろうとするのは、人は集団から独立して生きられないことを本能的に知っているからだ。スカウトたちは班で生活していくことで、社会人として生きていく練習をする。自分たちでそのグループを代表する班長を選び、班会議を開いて自分たちの希望を...
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小松 誠
小生は、大学の先輩にもできるだけ意見を言うように努めていますが、果たして伝わっているか?
団委員長が「廃団だ〜!」と投げ出した2家族3人にまでになってしまった団が、ようやく立ち直りかけたので、地区のスカウト拡充を仰せつかっております。
メッセージをお寄せ頂いた方にご返事を差し上げようと思って操作していたら、どこかに消えてしまいました。大変失礼ですが、お名前も覚えていませんでした。申し訳ありません。ここに返事を掲載させて頂きますが、読んで頂けることを願っています。
ご質問は「スカウティング解体新書」を読みたいがどうすればいいか、というものでした。残念ながら、在庫はありません。当時、AR委員が手分けして口コミで販売したものですから、県によっては購入されていない可能性もあります。トレーナーの方を中心にお尋ねになれば、所持されている方もあるかもしれません。確認はしていませんが、日連のスカウト・ミュジアムに保存されていると思います。
登録費がまた値上げになるらしい。FBで見るかぎり、悲鳴を上げている方々も多いようだ。B-Pはスカウティングを貧困層の青少年にこそ提供すべきだと考えていた。貧困層の青少年たちをパブリック・スクール出身者と同じスタートラインに立たせたかったのである。だから、ブラウンシー島の実験キャンプで中流の上の階級の少年たちと労働者階級の少年たちの参加費に大きな差をつけたのである。「パトロース・システム、班長への手紙」を書いたロランド・フィリップスはロンドンの貧民街の少年たちにスカウティングを提供し、その拠点としてロランド・ハウスまで開設した。ギルウェル・パークはスコットランドの商人マクラレンがロンドンの貧民街のスカウトたちがいつでもキャンプできる場を提供したいと申し出て寄贈されたものだった。そのギルウェルを見つけ出し使えるように整備したのは、ロンドン地区のローバー担当コミッショナーでロランド・ハウスの管理をしていたネヴィルとローバーたちだった。ギルウェルは成人指導者訓練のメッカと言われているが、本来は貧困層のスカウトたちのための常設キャンプ場だったのである。ギル...
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飯塚典子
おじゃまします。m(_ _)m
青少年育成の領域では、BSも、GSも、海洋少年団も、制服団体と、認識されているようです。 制服を着て活動するという意味で……
あと、制服の持つ意味として…『動く広告』という意味もあるようですね  屋外での活動をしているなら……...
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ジャンボリーとジャンボリーの間に、県大会とかブロックのキャンポリー、○○ランドのようなイベントや「奉仕」活動がたくさん行われる。実施の実働部隊は結局、現場のリーダーたちである。地区内の人たちと仲良くやっていくにはイベントや「奉仕」の方を優先せざるを得ない。一種の同調圧力のようなものだ。結果、団の活動はおろそかになる、という悪循環が起こってはいないだろうか。イベントはハレの場であって、日常生活はケの場である。光は影があるからその存在は輝かしいのである。華やかさよりは地味な日常の活動がもっと大切されていいのではないだろうか。イギリスにもイベントに活動の中心を置くようなスカウターの存在もあるようだから、日本特有の問題ではないのかもしれない。しかし、イベントはある意味で一瞬である。大切なことは日々の生活のように地道な努力を積み重ねることではないだろうか。言うまでもないが、筆者はイベントが悪いと言っているのではない。優先順位の問題だ。
イベント開催に関連する作業の増加と共に成人指導者の兼務の問題がある。団担当コミが機能しないのは、隊指導者を兼務しているから...
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小島美樹
シェアさせて頂きます✨😌✨
筆者だけの意見かもしれないが、ウッドバッジを始めとする訓練修了章には弊害もあるのではないだろうか。ALTCに入所した時、筆者はうっかりウッドバッジを忘れた。その時、他にもそういう方がいた。入所式で所長が「こんな大切なコースにウッドバッジを忘れてきた者がいる。自覚が足りない。今後注意するように」と言われた。研修にビーズがどうして必要なのか未だに分からない。成人指導者訓練はスカウトたちによりよいプログラムを提供し、スカウトたちの全人的な発達を支援するための知識や技能を身に着けるために入所するのであって、資格や修了章のためではないと思う。
LTコースを修了した人が「成人指導者訓練の『最高コース』を修了した」と語っているのを聞いて愕然としたことがある。トレーナー・コースはスカウト指導者を指導する人のためのコースであって、スカウトの訓練を担当する人のためのコースではない。Advanced Trainingが「上級訓練」と訳されたことから生じた誤解だろうか。最後のキャンプ・チーフ(C.C.)であったジョン・サーマンがアジア地域ではギルウェル・コースを指導者訓...
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大石 真美
出世だとか偉くなったとか口に出されたり、態度に出されたりする方々に幻滅して登録を辞めました。情けないです。
もともと、B-Pという軍人が創始したこともあって、スカウティングでは隊とか隊長といった用語が使われ、軍隊風の制服や敬礼などもあることから、スカウティングにはミリタリズムの雰囲気がある。しかし、B-Pはそうした用語を少なくしようと務め、SfBの初版では次長をcorporal/伍長としていたが、その後secondに変えた。日本では頻繁に敬礼が行われるが(恐らく戦前の軍隊の名残)、B-Pはスカウトの敬礼は本来一日の挨拶であって、それも先に見つけた方がする、としている。日本の敬礼やスカウトサインの形は戦後、アメリカ連盟で行っていたものが取り入れられたものだ。B-Pのスカウトサインは三指の手のひらを肩のへんに挙げるといった「さりげない」もので、海外の街中で筆者のブレザーに付けたスカウトマークに気づいたのか、すっと三指の手を挙げて挨拶されたことがある。正に仲間のサインなのである。肩から上に肘を直角に挙げるサインでは秘密の仲間の挨拶にはなるまい。
日本の成人指導者訓練に大きな貢献をした佐野常羽が海軍の軍人であったこと、佐野が禅の影響を受けていたこともあり、実修...
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塩川 晃平
私が始めて道心門をくぐったとき、「ああ、私も求道者になるのか?」と思い、「伝道者になるのか?」と思いました。そして、「ああ、こうしないと、浮世の社会的地位を振りかざす人が居るんだろうな・・・。」と思いました。
その後、道心門のないコースもありましたが、研修所の安全装置になってしまっているなと言う感想も持ちました。スタッフ全てが、問題なく研修所を終えたいと言う願いばかりが強かったように思われます。
なかなか、人は、「所求第一義」とは、行かないようです。
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筆者が上京して先輩に誘われて出席したラウンド・テーブル(RT)は通達や打ち合わせなどほとんどなく、ソングやゲームの指導、年齢別部門の技能の習得がほとんどであった。これは隊を運営していく上でとても参考になった。だから、参加者は多かった。ところが、別のところで経験したRTは地区委員会とは言わないものの、ほとんどが通達とイベントの打ち合わせに費やされるものだった。成人指導者訓練コースはフォーマル(定形)訓練であり、修了章が伴う。RTはインフォーマル(非定形?日常的な?)訓練の場である。コミッショナーとお茶を飲みながら指導を受けるのもインフォーマル訓練である。しかし、これには修了章は伴わない。だからか、インフォーマル訓練(そもそも定形外訓練という言葉に問題がある)は軽視されているようだ。しかし、人はくつろいだ気分の時(インフォーマル)のほうがよく学べるのである。
フォーマル訓練の中にインフォーマル訓練があるということはあまり理解されていない。フォーマル訓練の中での入所生の語らいは、情報交換も含めて貴重なインフォーマル訓練の場である。ところが、「日々の進歩...
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Rick Shimizu
何故、本音で語らない、語れない?のか。そこに何が潜んでいるのか。情報格差、知識不足、経験差異、無力感、惰性、その他諸々。SfBに記載されたスカウティングの「観察と推理」は、基本ゲームでした。そして「スカウト」の原意を回想しております。
またRTとは? 外来語の解釈は、原語にしろ訳語にしろ難しいのか。その意味、表面的な理解では、ミスリードされ易いのでしょうか。
何事も適材適所、人手不足はボランティア活動の常とはいえ、そこにこそ工夫が必須なのでしょう。外野からの戯言になったでしょうか。
隊長を務める者は研修所を修了していないといけない。コースに入所するためには数日は休みを取らねばならない。しかし、日本人の年休取得率は低い。日本人の勤勉さは美徳としてしばしば語られるが、収入を維持するためにサービス残業、長時間労働をして休めないのが実態なのである。イギリスで始まった成人指導者訓練は、かなり早い時期から分割コースが用意されていた。イギリス連盟の成人指導者訓練はモヂュール方式になっており、WOSMもTraining System Renewalでモヂュール方式を提案している。モヂュールというのは組み立て式の学習単位のことである。忙しい現代生活を考慮して考え出されたものだろう。
成人指導者がスカウト技能を身に着けていないからスカウト人口が増えないという人があるが、スカウト技能は手段であって目的ではない。B-Pは隊長は驚嘆すべきクライトン(スコットランドにいたとされる多芸多才な人のこと)である必要はない、と言っている。技能は、それができる人を連れてくればいいだけの話である。ブラウンシー島の実験キャンプでB-Pは救急法は沿岸警備隊の士官を招い...
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塩川 晃平
ボランティアな組織では、楽しい思い(良い体験)をした人でなければ、残らないのじゃないかと思う。
スカウティングにおいて、望ましい、「良い体験」は、班制度であったり、自発性ではないかと思う。
そのチャンスが大きいのは、スカウトキャンプではないかと思う。...
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「スカウティングはシンプルである」とB-Pは書いた(「隊長の手引・新訳版」ではシンプルをどう訳すか悩んだが「簡単」とした)。しかし、現実に行われているスカウティングはシンプルだろうか。近所のおじさんやおばさんが気軽に日常的に取り組めるだろうか。今の日本のスカウティングには越えなければならない障壁がありすぎるような気がしてならない。例えば、分厚い教育規定、成人指導者訓練、権威主義、頻繁にあるイベントや会議、登録費や制服代といった経費である。
イギリスの規約集は方針・組織・ルール/Policy, Organization and Rules(P.O.R.)という。それが初めてできた時、B-Pは表紙に「少年たちのためのスカウティングというゲームをするためのルールブック/Rules on How to Play the Game of Scouting for Boysと印刷させ、規約をあまり増やさないよう警告を発したという。スカウティングはゲームなのである。ゲームはルールが単純かつ少ないものほど面白い。B-Pは、規定集は困った時に参考にするものだと考え...
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Rick Shimizu
屋内から「野外」へ、やはり現場でのご活躍を待望!どんな形にせよ、そろそろ波高き?前線へ復帰されては? 尚、天気も晴朗ではありません😉
そろそろ、終わりに
かつての経験を書いていたら、どうも軌道を外れてしまった。筆者が言いたいことは、日本連盟という運営組織が崩壊したしても、スカウト運動を継続し発展させたいということである。
イギリスでは「子どもは社会が育てるもの」という言葉が福祉国家の観念として定着していると言われている(この言葉は少し異なった表現でアフリカやネイティヴ・アメリカンの言葉にもあるというからほぼ世界に共通しているものだろう)。スカウティングは日常であるべきだと思う。近所の子どもたちが群れをなして遊ぶ、それを見守り支援する近所のおじさんやおばさんたちがいる。それが本来のスカウティングではないだろうか。かつては職住一体だったが、今は違う、そんなことはできないという人もあるだろう。しかし、忙しいから子育てはできない、ということにはならないだろう。人は未来に向かって次の世代へ引き継いでいかねばならないのである。おじさんやおばさんたちは当然ながら教育の素人である。教育はどうあるべきかを知ってから子どもを育てるのではないのである。子育てをする中で問題にぶち当たってから、何とかし...
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また今日も
筆者だけかもしれないが、これら二つの委員会に共通して不思議に思ったことがある。一つは(これは筆者だけの思いであったのか)大命題はあっても「より明確かつ詳細な」任務が示されていなかったことである。委員長の口頭による説明に何となく同意して協議するといった感じである。もう一つは、日連に設置された委員会の開催回数が全て同じだったことである。委員会に任務によっては長時間を要するものもあるはずである。AR委員会は元は指導者養成委員会だったので、その仕事にARの仕事が増えた形になり協議する時間はよほど効率よく議事を進めないと時間不足に陥った。委員会の開催数が横並びというのは全く現実を無視したものではないだろうか。他委員会との兼ね合いということもあるのだろうが、公平と平等は違うものだと思う。
スカウト人口の減少から登録費収入も減少し、経費の観点から現在、日連の委員数は少なくなっているようだし、協議が開催されることが多い東京周辺や登録人数の多い大都市圏の人たちが委員になることが多いようだ。その結果、委員会の議論に多様性は担保されないような気がする。委員...
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麻畑 秋市
先日の県連盟代表者会議で質問をしましたが、なんじゃこいつみたいな空気でした。だって予算で立てた金額をかなり上回る支出をしている項目がいくつもあるのに、一切説明がないのはおかしいですよね。県連盟総会でそんなことをしようものなら、突っつかれまくります。
今日も、昨日の続き
ノスタルジー(筆者は72歳の爺である)と自己の主張を正当化しようとすることからバイアスがかかっているかもしれないが、筆者の経験したことに触れたい。
筆者が日本連盟の委員として奉仕を始めたのは環境特別委員会であった。どうして、その委員に選任されたか、後にいろいろな人に聞いてみたが分からない。人選がブラックボックスというのはいかがなものであろうか。
この委員会はとても面白かった。それは、出身県連の役員さえも知らないような気象の専門家、農学者、海外連盟の環境の取り組みを視察した人たち、プログラム委員と指導者養成委員、環境負荷に厳密な人と鷹揚な人、都会と田舎で活動している人たちで構成されていたからである(後に環境委員会という常設委員会になった時は非加盟員のネイチャー協会の人も委員に加えた)。こうした多様な人たちで構成されていた委員会は当然ながら議論は百出し、とりまとめる委員長は大変であったろうが面白かった。後に筆者はAR委員会に所属するが、初会合の時、ほとんどの人が日連レベルのコース奉仕歴のある方々であったから相互によく知っておられ、...
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新藤信夫
井上茂さん なつかしいですね!! 1956年12月群馬県連に来て頂きカブスカウトの指導者講習会を受けさせて頂きました(高3の時で年齢未達で終了書はしばらくお預けでした。)
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杉村直
もーやんは、日本連盟の主事として奉仕される前に暫く神戸におられました。神戸15隊の設立に、父の故杉村伸と尽力されました。1950年の事でした。
昨日の続き
昨日があって、今日があり、明日がある。先の戦争が天皇の玉音放送で終わりを告げた時、男たちは茫然自失といった状態に陥ったが、女たちは黙って夕餉の支度をしたという。それが地についた日々の生活といった営みだろう。
昨日、スカウティングはボトムアップであると書いた。スカウト運動の歴史を見ると、それがよく分かる。カブはボーイより下だから「カブ(下部)」ではなく、スカウト年齢に達しないがスカウティングをしたいという年少の子どもたちが現れたので作られた。逆方向ではスカウトを卒業したが、スカウティングを続けたいという少年たちの要望からローバー部門として発足した。ガールスカウト(イギリスではガールガイドといい、当初B-Pは別組織を考えていなかったが、行われているスカウト活動が女の子にはハード過ぎること、当時の社会世相から共学の実現は困難であったことから別組織にした。ガイドという名称は女性は育児や子育てで子どもたちを導くという観点からであり、当時インドで勇猛で知られたガイド・コーズからとられた(アメリカはスカウトとしているが、それは当時アメリカでガイドと...
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杉村直
同感です。愉快に拝読。
近道はない
FBで加盟員数がついに10万人を切ったことを知った。
以前、WOSMとヨーロッパ地域連盟が協力して作成した「Green Island」の第1章だけの訳を掲載したことがある。あの本は「プログラムの最新化/Renewed Approach to Programme(RAP)」を小説仕立てで解説したものである。筆者の英語力ではかなわないので、それ以降の章は英語に堪能な方に引き継いで頂きたいと願ったのだが、それは残念ながら叶わなかった。
RAPは21世紀に向けてのスカウティングとソヴィエトが崩壊して以降に復活した東欧諸国の連盟を援助する狙いがあって作成されたものである。
「再建」というとお叱りを受けるかもしれないが、RAPを一つのヒントとして取り組んでみてはどうだろうか。長い時間をかけて減少してきたスカウト人口を回復するのは容易ではないだろう。特効薬や近道はない。営々と弛まぬ努力を続ける他はないだろう。以前、スカウターには3つの種類があると書いた。上記の作業をするのは、運営畑の人やスカウト指導者を指導する人たちの仕事だろう。スカウトたちと日々...
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田邉 建一朗
先輩のお話はいつもありがたく参考にさせていただいております。
私は、現在は目黒1団の副団委員長として50年現場を成人指導者としてみてきましたが正直団は存亡の危機にさらされています。
もはやボトムアップが必要などといっても間に合わない状況です。...
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土瓶
老スカウターから「土瓶のようなことをするな」と助言されたのは一体いつのことだったろうか。理解できずに戸惑っていると「土瓶は横から口を出している」と言われ納得した。ユーモラスな助言だったので頭に残っている。しかし、その助言にも拘わらず、この悪癖は治っていない。
ある哲学者が「教育を語る時、人は無類の教えたがり屋なんだということを忘れているんじゃないか。おせっかいというのは割と教育にとって大きな要素だと思う」と言い、「大人は『教える』のではなく、『伝える』、それも振る舞いや佇まいで」といったことを言っていた。土瓶のように口ではないのである。自分自身、実行できていないが心したい。('17/6/10)
Rick Shimizu
その老スカウターの助言?こそが、「土瓶」に思えますが…🤔 横からかどうかはともかく、余計なお世話の如き助言は、他でやって欲しいものです。
誤訳?
過日、牧島さんが投稿されたB-Pの「ローバーたちは、我々スカウターの主要な供給源でないといけない」という引用句のことが気になって、私の考えを少しまとめてみた。偶然かもしれないが、この訳文は私がかつてスカウティング誌に「たどってみよう、B-Pの足跡」と題してマリオ・シカが編纂したものを試訳したものと同じである。原文はRovers should be the main source of our supply of Scouters.で1912年4月付けのローバー部門に関する覚書(未公刊)にある。
上記の試訳の連載をしている時、渡邊総長から「引用句の翻訳は危険です。前後の文章を考慮しないで訳すと誤訳をしかねないし、それが述べられた状況に関係なく引用されて独り歩きし始めることもあるからです」と助言されたことがあった。その後私は、この引用句集に使われたB-Pの著作の全てを日連と知人の協力を得てコピーし、前後関係を調べて訳した。しかし、未公刊のものを英連盟から取り寄せるまでの作業は行わなかった。ということで、この引用句の前段の文章を目にしておらず、...
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於保 信義さんが近況アップデートを投稿しました。

最近読んだ本にロンドンから国鉄でブラウンシー島を訪れる際、「プーリー駅」に到着したとありました。Poole Station は現地では「プーリー」と発音しているのでしょうか?その本の別のページには「プール湾」とあり、駅名と湾(正確にはHarbour)とでは発音が異なっているのでしょうか。ロンドンの地下鉄でVictoria駅に着いた時、「ヴィクトリア」というアナウンスと「ヴァイクトリア」というアナウンスが同時に流れ、エッと思ったことがあります。枝葉末節なことですが、気になるので教えて下さい。
タオの道
 加島祥造の解釈による老子を愛読している。最後の章に以下の文がある。少し長いが全文を記す。
 本当の言葉というのは
 甘い響きのものではない。
 甘い響きのことばは...
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塩川 晃平
「デストロイアー」と呼ばれた私への、こうもり男爵からの、はなむけの言葉と、勝手に受け取りたいと思います。
「新しいこととは、反対がなければ、新しいことではない」なんて、肩で風を切っていたのかもしれません。
於保 信義
塩川さんに宛てた言葉ではありません。少し長いだけのことを鼻にかけて(まるでウッドバッジ・ビーズみたいですが)現場の方々のたゆまぬご努力を省みず小賢しいことを書き連ねている自分自身への戒めです。
友達リクエストをお寄せ頂いた皆様へ 
FBの友達というのが未だによく分かりません。大勢の方々と誠実にお付き合いするのは私には困難です。様々に基準を設けていらっしゃる方もありますが、私にはどういう基準がいいのか未だに分からないので80人の方々を承認させて頂いてからは対応していません。リクエストをお寄せ頂いた皆様には誠に申し訳ありません。ご寛容頂ければ幸いです。
西郷 崇子
80名のお仲間に入り損ないましたが、フォロアーの一人としてお付き合いくださいませ❣️

於保 信義さんが近況アップデートを投稿しました。

飲水思源
 日本のスカウト運動を支えた人たちが多く集まって作られた日本オールドスカウトクラブというのがある。そこの会報誌を読んでいて「飲水思源」という言葉を思い出した。井戸水を飲む時は井戸を掘った人に感謝して飲め、という中国の詩からとった言葉である。スカウティングはB-Pの独創性に大きく負っていることに間違いはないが、献身的にスカウティングに尽くした多くの人たちのお陰であることも忘れてはならないと思う。
カビングはスカウト年齢に達しない少年たちの要望に応えて作られた部門だが、その設立にはベラ・バークレイというイギリス連盟で働いていた女性が大きな貢献をした。そのイギリス連盟も運営経費をB-Pがスカウトや指導者から1ペニーも徴収しないという方針から薄給であり、ヴォランティアで奉仕する人たちが手伝った。
スカウティングの創成期、キャンプは一般的ではなかった。隊キャンプをするために、隊長たちの妻はキャラコを縫ってテント代わりにしたという。女性たちのスカウト運動への貢献はそれだけではない。第一次世界大戦はそれまでとは全く異なる戦争となった。戦場の兵士たちだ...
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於保 信義
シェアされた皆様、SfBの発行年を間違えました。1908年にご訂正頂ければ幸いです。申し訳ありません。
人のお世話にならぬよう
 昨日のことである。知人に既に送ったメールを再び送ってしまった。ここ数年、密かに自慢だった記憶力はめっきり衰え、そろそろ認知症が始まったのではないか気になっていた。凹凸のない廊下でさえつまずく(ろうか現象である)し、階段も注意しないと踏み外しそうになる。自分が思っているほど足が上がっていないのである。これが老齢化というものだろう。
 かつて、日本連盟の役員に定年制が設けられたことがある。私はそもそも規則を作るのは反対である。規則は作ればきりがない。スカウティングはゲームであって、面白いゲームは例外なくルールが少なく簡単である。その頃は同じ人たちが立場を変えたりして延々と意思決定に関与していることが問題になった。定年制は一種の緊急避難のようなものだった。どれだけ優れた人でも老齢化には抗しようがないし、よどんだ水は必ず腐敗する。スカウト運動の創始者B-Pも後継者になかなか後事を託すことのできない人だった。ニエリに隠棲してもいずれ健康が回復したら、できることはしたいと手紙を出して、後継総長から「あなたが育てた若い者たちでしっかり...
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とりとめなくB-Pの原点を探る
 B-PはSfBの初版の序文」に「私はこの本でスカウティングについての予備知識のない人も含めて誰でも(それは田舎に限らず都会でも)スカウティングを教えることができることを期待している」と書いている。SfBが初めて出版された時、スカウト運動はなかった。B-Pは少年たちにスカウティングを与え、少年たちはB-Pに運動をもたらしたのである。
 また、B-Pは「スカウティングは少年たちに生計の立て方を教えるのではなく、生き方を教えること」を目指すものだと繰り返し述べている。当時のイギリスは階級制度は今以上に強固であり貧富の差が大きい時代だった。B-Pは貧しい子どもたちもB-Pがスカウト宛の最後メッセージに述べたように幸せな人生を送って欲しいと願い、そのための一つの手段としてスカウティングを提案したのである。
 進歩課程が変更され(具体的な内容は知らない)、隊長の認定する部分が増えたので大変だと聞いた。B-Pは、隊長はなんでもできるオールマイティな人間でないといけないなどとは思っていなかった。自分にできないことは、できる人を連...
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Rick Shimizu
その逸話、何ともすがすがしい気持ちになり、愉しくなります。そんな方が多ければ、スカウト達は辞めるどころか、新たな仲間、新入スカウトで常に満ち溢れた活動になったはずで、この運動が危機的衰退に陥るなど縁遠いことだったかもしれましせん。温故知新、大切です!死して後もスカウト、加盟員か否かなど、B-Pのスピリットからは些末な事柄でしょうか。スカウティングは「運動であり組織ではない」と述べられているのですから😑
素朴な疑問
 SfBの初版を読むと、B-Pは制服を必須とはしていない。ボーイズブリゲードや制服があるところは、それでよいとしている。そして、一つの例としてB-Pがデザインした南アフリカ警察隊の制服を提示している。制服はスカウト活動をするための作業着という位置づけだった。その後、スカウト運動が世界中に普及する中でB-Pは制服が階級や人種の違いを覆い隠す、仲間意識を高めるという利点があることに気づき、制服の着用を推奨した。
 制服制帽と言われたら、室内でも帽子はかぶるものだろうか。女性の場合、帽子はアクセサリーの一種のように扱われているからいいようだが、スカウトのハットはどうなのだろうか。帽子はやはり、戸外で使うものではないだろうか。TPOというのがある。スカウトの制服もそれを考えるべきではないだろうか。私は純毛性のハットは高温多湿の夏場の日本では向いていないと思う。かつてはベレー帽だったが、これも同様である。ベレー帽というのは日本のように日差しが強い所では向かないし、剛毛の日本人がかぶると布袋さんの頭巾のようになってしまう。スカウティングは地元に合...
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土田 満博
「スカウトは質素である。」以前の掟の一つです。 
しかし、現在はとても質素とは思えません。何もかもが値上がりするし、毎年のごとく書籍は変更する始末、これで増加傾向になるのでしょうか? 
奉仕≠service
奉仕についての投稿を拝見した。長くなるので、私のFBにアップすることにした。
奉仕の原語はserviceです。これが果たして正しい訳語かというと、そうとは思えません。では、片仮名でサービスとしたらというと、恐らく「お店で安くしてもらったり、便宜を図ってもらったりすること」という意味にとらえられるでしょう。スカウティングに関する資料を翻訳していて、いつもこの問題に悩まされます。日本語の概念にない言葉は明治時代の人たちが苦労したように作り上げる他ないからです。educationを教育と訳したのは訳語がなかったからで孟子からの造語です。しかし、言葉は概念を規定してしまい、一人歩きして別のものになってしまうことがあるから厄介です。
ネッカチーフの下を結ぶというのは、忘れないための手段の一つでB-Pがシンボルの利用として考えだしたことでしょう。班長から一日一善をしたらほどくのだ、と教えられた記憶はありますが、隊長から教えられた記憶はありません。ただ、集会の前にほどいていたら隊長から「今朝は何かええことをしてきたんじゃのー」と言われ、少...
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新制服
新制服への移行についての意見が掲載されていた(後で意見を書こうと思ったら見つからなくなったので新たに稿を起こす)。B-Pのさまざまな写真を見て頂きたい。実にさまざま服を着ている。B-P自身、「制服違反」の常習犯だったと私は思っている。元々、B-PがSfBを書きながらスカウティングという一つの教育法を提案して講演をして回った時、小さなバッジ以外に用具も制服もいらない、安上がりなものだと言っていたのである。制服は一つの手段に過ぎない。スカウト運動において、全員が一斉に新制服に移行しなければならないというのはほぼ全体主義の発想に近い、と私には思える。
基準の維持ということでいろいろ言われるコミッショナーは私が現役の時にもいらした。マークを付ける位置が規定通りではないなどと言われた。しかし、規定で肩から何センチにと表示しているが、身体の大きい人もいれば小さい人もいる。同じ寸法にしたらバランスが悪く、スマートではない。ある巨漢の方がまるでリボンに見えるようにネッカチーフをまかれていた。話を聞いてみると、子供用サイズで作ったからだった。
スカウティン...
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上道 小太郎
現在、当たり前のようになっている、ビーバースカウト(カブ未満年齢プログラム)も、女子スカウト(全ての部門への女子加入)も、教育規定(当時は「規程」ではなかった)には沿っていなかったものの、活動の現場のニーズや工夫から生まれ、やがて制度化されたものです。活動は教育規程ありきではなく、教育規定は活動から生まれるものだと、渡邊総長(当時、後の長老)は、ことあるごとにおっしゃっていました。ユニフォームについても、教育規程がどうであれ、日本連盟がどう言おうが、現場のニーズや声を重んじて「行動」「活動」すればよいと思います。
B-Pの言葉そしてSNS
知人の記事を読んで、頭の中にB-Pの「スカウティングは少年たちに単に生計の立て方
(how to living)を教えるのではなく、生き方(how to live)を教えることを目指している」という言葉が浮かんだ。ところが、何に書いてあったかさっぱり思い出せない。加齢と共に記憶力が衰えており、固有名詞が出てこず「あれ、これ」の世界になった。
 頭の体操のつもりで調べてみると、上記のものはSfB旧訳版の序文(1940年の序文とあるが、1924年の第11版からB-Pが改訂に関わった最後の版である1941年の第20版まで統計数字を除いてはほぼ同じものである)にあった。
 B-Pは気に入ったフレーズは少し表現を変えて他の著作にしばしば登場させている。このフレーズも同様で、最初に出てくるのは1919年発行の「隊長の手引」、次は1920年の「スカウター誌」(その後「B-Pの展望」に転載されている)、その後1927年出版の「人生の暗礁」、1929年出版の「スカウティングと青少年運動」に出てくる。...
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今井 健介
こんばんは、シェアさせて下さい🙇
今日はスカウト運動の創始者B-Pの160回目の誕生日である。以下に、B-Pがスカウトたちに宛てたお別れの言葉を掲載する。これは2005年にB-P家からイギリス連盟に寄贈された手書き原稿から筆者なりの訳を試みたものである。原文はこれまで提示されたものとは若干異なっている。また、原文では下線などを引いてB-Pが強調した部分があるが、FBに書き込んだらなぜか消えてしまった。下線は半ばの「役に立つ」と最後近くの「最善を尽くした」である。
スカウトのみなさんへ
 もし、あなたたちがピーター・パンのお芝居を見たことがあれば、海賊船の船長が死ぬときに遺言状を取りだす時間がないかもしれないことを心配して、いつも遺言を口にしていたことを覚えているでしょう。
 それは、私にとっても全く同じ事で、今すぐに死ぬわけではありませんが、その日も近いと思うので、みなさんにさようならの言葉を送っておきたい。...
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松平 光央
当団のFBにシェアさせていただきました。
誕生祝の言葉をお寄せ頂いた方々に心から御礼申し上げます。
私も6回目の干支を迎えました。先日、発表された年寄の定義には当てはまらないのかもしれませんが、現実にはもうすっかり年寄です。
72歳の時、B-Pが何をしていたか、調べてみました。1929年のことです。この年はスカウト運動が成年に達したことを祝って第3回WSJがイギリスのバークンヘッドで開催されています。バークンヘッドで開かれたのは、1908年1月24日にこの地にあるYMCAのホールでB-Pが公式にスカウト運動の発足を宣言したことからでした。
スカウティングに長い間関わってきました。最近、ようやくスカウティングが分かったような気がしています。それは、スカウティングは幸せになるための教育方法の一つだということです。('17/1/8)
中場 晴久
お誕生日おめでとうございます。よろしくご指導お願いします。
基本原則
基本原則というのは、端的に言えばWOSM憲章の第1~3条のことであり、スカウティングはこれに基づいて行う、ということを表明したものである。これについて共通理解があるだろうか。基本原則というセッションが成人指導者訓練の科目に入る以前に訓練を受けた方々の中には、ご存知ない方も多い。それに今もそうだと思うが、教育規定は基本原則に則った形で書かれていない。だから、スカウト教育法は7つだというと「規約違反だ。方法は班制度と進歩制度だ」と仰る方もあるのである
(「制度だ」繰り返し言われると疲れる。これを「制度疲労」という)。ということで、共通理解が十分に進んでいるとは言えないように思う。
では、どうするか。「偉い」人たちが恥をかかないで学べるような場をうまく作るほかないように思う。「偉い」人たちが、基本原則を理解していないと、運動はとんでもない方向に行ってしまう危険性があるからである。「偉い」人たちの中には長い経験から自分は十分に理解していると錯覚されている方もある。特に、スカウト経験者に多い。しかし、よく考えてみて欲しい。スカウト経験=スカウティ...
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Takaharu Yuzuki
先づは「見つめ、抱きしめ、語り合う」を…
目線を下げれる、決してNOからは始まらない
受け入れのHUG「YES BUT の法則」を指導者は心にしっかりと持てるといいね。👍🌹😘
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運動に対する忠誠心
組織というのも世相を反映するのか、日本のスカウト運動も知性が劣化しているように見えてならない。スカウト運動に対する忠誠心は、組織の決めた方針(あるとすれば)に黙って従うだけではなく、間違いを指摘してより良い方向に改めることでもある。多くの人が沈黙を保っている中で一人反対を唱えるには勇気がいる。黙っていたら楽である。何があろうとニコニコしていれば温厚でいい人だと言われる。しかし、間違ったことが推進されていいはずがない。スカウトは勇敢であるというおきてがある。おきては努めて行うものである。反対意見に賛成なのに沈黙を保つなら、それはスカウトとして恥ずべき行動ではないだろうか。FBは間違いなく監視されている(日連発行物に疑義を呈したら、その翌日には、それを何から知ったのかは明らかにしないで、どの部分かという問い合わせがあった)。それにもめげず、正しいと思ったことを主張する人には敬意を表したい。FBに掲載された主張に反対なら、堂々と意見を戦わせばいい。意見を戦わせることが前進につながる。反対意見は成長の糧なのである。スカウト運動の創成期...
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永尾 眞介
12のおきてには「忠節をつくす」とか「従順である」とかありましたけど、何よりも実践していかなければならないのは「誠実である」とも指導を受けました。だからおきての一番最初にあるんだと。
”スカウトの真の資格は信用され得る人間にのみ与えられる。うそをいわずごまかしをせず、信頼されて託された任務を正確に行うことなどはすべてのスカウトの名誉を保つ基礎である”
単に盲目的に忠誠を尽くしたり、ハイハイと従うことがおきての実践ではないことも教わりました。
民主主義
長い間スカウト運動に関わってきたが、日本の場合、意思決定がどうも民主的ではないように思えてならない。役員というか委員の選任がどういう手続きで行われているのか私には全く分からない。自分自身の例を言うなら、私がどうして日連の委員になったのか今もって分からない。長く務め任期を終える頃、「あなたは誰の引きで委員になったのか」と聞かれて答えられなかった。事務局から委員になってくれませんか、という問い合わせに了承したら、県連に了解を求める連絡が行き、県連から就任確認の連絡があっただけである。誰がどこでどうやってなぜ私に依頼したのかブラックボックスである。結局、「引き」しか考えられない。そうした人事はどうなるかというと、同質の考え方の人たちばかりが集まるということになる。その結果、多様性のない議論が行われることになる。
民主主義と多数決原理は同じものではない。意見が分かれ、最終的に多数決で決しても、少数の人たちへの配慮が欠かせないのが民主主義である。要するに、民主主義というのは多様な意見をお互いがどう譲り合ってよりましな方向へ進んでいくか、ということ...
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上道 小太郎
民主主義の根幹は「透明性」です。評議員や理事がどのように選ばれ、コミッショナーや委員長、委員がどのように選任あるいは任命されているのか、会議でどのような議論がされているのかが全く不透明な組織はとうてい民主的な組織とは言えません。
主な先進国の単位国連盟(NSO)では、理事・執行部職は選挙で、コミッショナーや委員、事務局長などは公募による選任が普通です。このような透明性のあるシステムを持たない国は、いわゆる開発途上国に類する国ですので、我が国はその分類に入ると思います。
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主人公・続き
おきてが改正された時、諮問委員会の方々は果たしてスカウト本人たちから意見を聞いただろうか。ちかいやおきてはスカウトたち自身が理解できて、口にすることができるものであるべきで、美辞麗句を書き連ねたものではないと思う。B-Pは、全国的な班長たちを集めた会議にしばしば出席し、熱心に意見を聞いていたという。パックスヒルという自宅の前庭は解放され、ローバーたちが移動ハイクの際によく立ち寄ってテントを張ったという。在宅の折には、彼らから最新のキャンプ用具などを見せてもらって話を聴くのが楽しみだったという。
この時、B-Pは「訊いた」のではなく「聴いた」のだろう。この「聴」という字の古い書体の旁の方にある心の上に「一」があった。この字は「人が耳と目を使って一心にきく」ということを表しているのだそうだ。旁の上にある十は本来「人」であり、その下の「四」は目を横にしたものだという。外国の本に書いてあったからこじつけかもしれないが、面白い解釈だと思う。
ブラウンシー島の実験キャンプの最終日はスポーツ・デイと呼ばれるものだった。企画から運営まで全て少年たち...
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永尾 眞介
私が子供の頃はもっと寛容な気がしました。
親に制服買ってくれとか言えなくてしばらく私服にネッカチーフでも受け入れてくれてましたし、ジャンボリーなんてとてもとても行けませんでしたけど、それはそれでってところがありましたね。
「制服や登録費払えない人は来てもらわなくて結構」ってそんなことを口にする人がいるとおもうと悲しくなってしまいます。
主人公
先日、FBで集合写真のことについて触れた記事があった。集合写真というと、ギルウェル訓練の第1期の写真が有名でB-Pを中心に所長のギドニーが坐っており、入所者とスタッフたちはその後ろに立っているか、前に座っている(余計な話だが、ある研究家によると入所者は19人となっているが、写真からは確認できないという)。
成人指導者訓練の主人公は一体誰だろうか。私は写真に写っていないスカウトたちだと思う。成人指導者訓練の目的を一言でいうと、より多くの青少年によりよいプログラムを提供するにはどうしたらいいかを学ぶ場だからである。
隼スカウトの申請にグリーンシニア(かつてそういう制度があった)の登録が無かったからといって門前払いされようとしたスカウトの話がある。恐らく、成人指導者側の登録手続きの不備が原因であろう。宗教章の取得が問題になって富士になれないという話もあったと聞く。規約違反だから当然だという人もいるだろう。
B-Pはイギリスで初めて規約集ができた時、表紙に「少年たちのためのスカウティングというゲームをするためのルールブック」と印刷させた。そして、...
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Rick Shimizu
ルールブック、ボーイマンとアダルトチルドレン、青少年が幸福な道を歩めるように「誘う」と、今回も大変意味深く且つ示唆に富むお話で、有り難うございました!
伝言
愛知連盟のリユニオンで肝心なことを言い忘れた。参加された方で、これをご覧になった方は、機会があればFBをご覧になっていない参加者の方にお伝えいただければ幸いです。
ちーやんはB-Pのスカウティングに関する基本的な本であるスカウティング・フォア・ボーイズ、ウルフ・カブス・ハンドブック、ローバリング・ツウ・サクセスの3冊を訳された。しかし、それは白杖を携えねばならないほどの視力の中でなされた作業だった。分厚い眼鏡をかけて、さらに天眼鏡を通して細かい英文を追い、次に付けペンにインク(当時は木製のペン軸の先に金属製の取り換えのできるペン先をつけたものがあった)を浸し、再び天眼鏡を通して原稿用紙のマス目に一文字ずつ訳文を書かれたのである。それははた目から見ても気の遠くなるような作業だった。
ちーやんは翻訳のほかにもスカウティング誌に多くの寄稿文を残している。多い時はほとんどの記事が中村知のものになるので、東野通義というペンネームも使われたのである。スカウティングに対する凄まじいといっていいほどの貢献だったと言っていいだろう。('16/11/29)
明日は尾張に行く。会場がある一宮市に大(おおの)神社というのがある。奈良県橿原市には多(おおの)神社というのがある。「おお」は共に於保である。私のルーツに関係があるのかもしれない。
キャンプ料理の定番を食べ過ぎたわけでもないだろうが、加齢のせいか、体力はもちろん理解力、判断力、記憶力が衰え続けている。家人との日常会話は怒られながらも「あれ、これ」の連発である。「人のお世話にならぬよう」どころか、このままでは人様のご迷惑になる。大勢の方にお話するのは、これで終わりにしようと思っている。
塩川 晃平
次は、「B-Pの展望」について じゃないでしょうか?
上道さんが現行のイギリスのちかいについて紹介された。それには無神論者用のちかいもあって驚いた。以前は英語圏の連盟の動向を割と熱心に見ていたのだが、ここ数年は細かい字で書かれた英文を読む気力がなく、知らなかった。世の中はいつの時代であろうと動いているが、その変化の速度は以前とは全く比較にならない。
イギリスのちかいの変更について詳しく知りたいと思って、ネットで探してみた。イギリス連盟が加盟員に応じてさまざまなちかいのヴァージョンを設けて実施したのは2014年からだが、それに伴ってスカウティングの基本/The Fundamentals of Scoutingも改訂し、2013年から実施しているということが分かった。その変更を見て、また驚いた。抜本的と言っていい大きな改訂である(もちろん、B-Pの意図は継続されている)。イギリス連盟はそのために運動の内外から意見を求めたということだ。イギリス連盟はB-Pの時代から社会に開かれていた。それはスカウティングが社会において適切であり続けるには社会の人たちの声を聴くことが欠かせなかったからである。イギリス連盟は...
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柳井 理廣
自然への関心については後藤新平も自治の三訣のなかで言及されてますね。宗教や信仰の言葉はないですが。。
写真の説明はありません。

於保 信義さんが近況アップデートを投稿しました。

I Promise
To do my best to
Love God
Serve my Country
Work for Peace...
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Rick Shimizu
何事にも基本が大切であると信じています。基本が失われれば、根無し草のごときもので、土台が崩れた建物でしょうか。基本を大切にすることは、単なる「ノスタルジー」とは異なります。釈迦に説法で失礼します。
さて、以前の於保さんのコメントで「スカウトでもないのに~」云々の言葉が知人から述べられたとか。そんな発想があるとは驚きました。現役であるとかないとか、スカウティング、この運動にそんな考え方こそに違和感があります。何とも排他的な思考で、長年スカウト活動されてこられた方なのでしょうか。どんな影響をスカウトや周...
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スカウトたちがちかいをすらすら言えない、おきてが復唱できない、という話をしばしば耳にする。順番や文言が正確であるかどうかは大した問題ではないと思う。知っていても実行しなければ知らないことと同じだ、という言葉がある。順番や文言を知っていてもそれが実践されないなら、何の意味もない。ちかいとおきての意味をきちんと知り、日常生活の中で実践する中で、それらが内面化し身体化された時、自然に行動に出てくるのではないだろうか。
長い間スカウト運動に関わってきたが、ちかいやおきてに関して書かれたものは驚くほど少ない。中村知が書いたものくらいで、体系的に書かれたものを筆者は目にした記憶がない。それは、ちかいとおきてが大切なのだと言いながら、実際は進歩科目に一つくらいにしか捉えられてこられなかったからではないだろうか。成人指導者はスカウトたちにとってロール・モデルである。だから、成人指導者自身がちかいとおきて誠実に向き合って生活しているかどうかが問われるのである。堅苦しいことは言いたくない。指導者に聖人君子のような姿勢を求めているのではない。口笛を吹きながら明るく「d...
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武田 誠二郎
先日、当団のスカウトが市内の中学生が集まるスピーチコンテストで、後藤新平翁の「自治の三訣 」に触れ、自身のスカウト活動について発表してくれました。
スピーチについては学校の先生の指導を受け、準備していたようですが、大変感銘を受けました。
モットーはちかいを思い出させてくれるものである。日本では、開閉会式の時に「私はよいスカウトになります」と唱えたりするが、これはどうも日本独特の習慣のようである。一体、いつ始まったのか、日本のスカウト運動の創成期から活動されていた大先輩にお聞きしたことがある。そのお話によると、戦前それを唱えた記憶はなく、戦後になってからではないか、ある指導者が隊集会の閉会式で「次の集会まで私はよいスカウトとしてすごしますよ」という思いを込めて言ったのが始まりだと聞いたことがある、という話だった。これと似たことが(何で読んだか忘れたが)外国では開閉会式、キャンプの終わり、ちょっとした何かの機会に「Be Prepared」と唱えてちかいを想いおこす習慣があるようだ。
モットーからスローガンの日々の善行/a daily good turnにつながる。一日一善とも言うから、かつてスカウトたちは、一日に一膳では少ないと冗談を言い合った。こういう冗談はイギリスにもあるようで、くるっと一回転/turnして、今日はもうやったという漫画を見たことがある。英語のturnには回るという...
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世界事務局(WOSMの前身)が1947年に出版した“スカウト教育法の基本”という僅か12ページほどの小さな本に「スカウト精神の本質はスカウトのちかいとおきての中に見出されねばならない」と書かれている。言い換えるなら、スカウト精神とはちかいとおきてに基づいて生きていくことなのである。
ちかいは青少年が自由な意思にもとづいて、それに従って生きていくことを仲間たちや保護者、スカウト指導者の前で約束するものである。だから、何時ちかいを立てるかは、その青少年自身が決めるのである。
ちかいとおきてをどのように身につけていくか、少し硬いが筆者の考えをが文章化すると、
成人指導者がおきてを該当の青少年に説明する(集団に一斉にではない)→その青少年は属した班の活動、日常生活の中で実践(経験)する→おきてを基にした班での生活が自分に合っているかどうかを判断しながら、さらに実践を重ねる→ちかいについて成人指導者が説明する→それらを考えながら該当の青少年は実践する→一定期間を経て、ちかいを立ててスカウトの仲間に入る決心がついたら、班会議にちかいを立てたいと申し出る→班長...
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Tadashi Sugimura
指導者訓練の体系よりも,中味?の問題ですね。「ちかひ」と「おきて」がなければ、スカウティングは成り立たないことは自明の理ですが・・・。
先に述べたように、戦後のちかいは占領軍の監督の下に作成された。それは拙訳と三島の記述に示したように、「誠をつくす」「心をすこやかに」「徳を養います」という英文にはない表現を入れている他「最善とつくす」という言葉も省いている。ということで、日本のちかいの前文と三条は日本独自のものと言っていいのではないだろうか。
1987(昭和62)年の全国総会で、12項目のおきてが文言も代えて8項目に改訂された。この改訂は1974(昭和49)年以来、ちかい・おきて改訂検討委員会」で検討が行われてきたものが、十数年経ってようやく決定をみたものだった。そもそもこの委員会はちかいとおきての文言と内容が時代にふさわしいものかどうか、改訂するならどのようなものがいいか、ということで発足したものだった。しかし、十数年も経ながら、結局、ちかいについては時代に十分適合しているとして改訂しないことになったのである。筆者はこの経緯について詳しいことは知らないが、すったもんだの大議論であったという。筆者の推測だが、ちかいはそのままにして、というのは全くの日本的な決着であったのではないか...
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上道 小太郎
シェアさせていただきます。
前回、挙げたアメリカ連盟のちかいの拙訳はあまりいいものとは思えない。どなたか、訳を寄せて頂けないだろうか。
さて、戦前のちかいはどういうものだったか。
宣誓
私は神聖なる信仰に基き名誉にかけて次の三条を誓ひます。
一、 神明を尊び皇室を敬ひます。...
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於保 信義さんが近況アップデートを投稿しました。

本題に戻る。
 アメリカ連盟のちかいを筆者なりに訳してみると
  私は名誉にかけて以下のことに最善をつくします。
  神と国へのつとめを果たし、スカウトのおきてを守ります。
  いつも他の人々を助けます。...
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今回は、ちょっと横道にそれる(筆者の話はよく脱線してしまうので申し訳ない)。まあ、これは勝手きままに書いていることだからご容赦願いたい。
かつて筆者がギルウェルを訪れた時に見たバッファロー像は木の台座に据えられていた。しかし、今は小暮さんが寄せられた写真のようにレンガ作りの台座に代わっている。木の台座は長い間風雨にさらされて劣化したのであろう。どこかスカウト・フレイヴァーのような雰囲気が失われているようで寂しい。
アンノウン・スカウトの話だが、ボーイスカウト・ハンドブックには記載されているが、リーダー・ハンドブックには記載されていないようだ(筆者の見落としか)。この話を指導者はどこで知り、スカウトたちに伝えているのだろうか。筆者は室内で行われた雨の日の隊集会で、隊長から営火夜話のような雰囲気の中で聞いた(かつて夜話は何もキャンプ・ファイアの時に限らなかったのである)。
日本にはアンノウン・ソルジャーという話が伝えられている。これは先の大戦での話で横浜のこどもの国に碑まで建てられている。ところが、「無名スカウト戦士」の本当の話と題するブログがあり...
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Takeuchi Take
私がスカウト時代に訪問した、ギルウェルパークのバッファロー像は確かに、木の台座でした。
1909年の秋、シカゴの出版業者ウイリアム・ボイスが深い霧の中のロンドンで道に迷い困っていたら、どこからか少年が現れ、道案内してくれた。ボイス氏がお礼にチップを渡そうとしたら、「僕はボーイスカウトですからお礼は要りません。一日一善ができました」と言って名も告げず立ち去った。これに感激したボイス氏はボーイスカウトのことを調べ、SfBを始めとするたくさんのパンフレットを入手して帰国し、アメリカ連盟ができるきっかけになった。有名なアンノウン・スカウトの話だ。アメリカ連盟は1926年にギルウェル・パークに野牛の像を寄贈して感謝の念を示した。この贈呈式には当時ギルウェル・コースに入所していた佐野常羽と福島四朗が参列している。余談だが、佐野は1924年に男子部のスカウト・コースに、1926年にカブ、ボーイそれぞれの男子部、女子部のコース、併せて4コースに入所している。
ボイス氏がアメリカにボーイスカウトを設立しようとした頃、アメリカにはイギリスでの運動を聞きつけた人たちの何人かが既に隊を作り活動していたし、B-Pに大きな影響を及ぼしたシートンの「ウッドクラフ...
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小暮 幹雄
アメリカ連盟が1926年にギルウェル・パークに寄贈した野牛の像。
写真の説明はありません。
なぜか、大文字になってしまいました。どうすれば号数を下げることができるのでしょうか。
於保 信義
なるほど、よく分かりました。有難うございます。
Bang the bearというのはどういうゲームか、ご存知の方があれば教えて下さい。
Mari Nakano
2. BANG THE BEAR.
One big boy is bear, and has three bases in which he can take refuge and be safe. He carries a small balloon on his back. The other boys are armed with clubs of straw rope twisted or knotted scarves, with which they try to burst his ...
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  • 翻訳を見る
自分の頭の整理のためのメモ代わりに書いている、ということだけを言うつもりだったのが、ついうっかり余計なことを書いてしまいました。その結果、思いよらない方向に議論が発展し、お騒がせしたことを申し訳なく思っています。なんでFBに載せてしまったのか、実はなんとなく載せてしまったとしか言いようがなく、反省しているところです。一方で、日連のFBへの対応についていろいろなことを知ることができました。
始めてしまったので、もう少し続けます。
B-Pは自叙伝(およそ自叙伝というものは本人にとって都合よく書かれたものが多いから注意して読む必要がある)で言っていることとは別に「帝国の若き騎士たち」の中で、スカウトのおきてを中世の騎士のおきてになぞらえて説明し、さらに「ボーイスカウトたちへの夜話」で、
君たちも知っているように騎士のおきては...
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於保 信義
存じ上げないので分かりませんが、たぶん、その人はテンプラです。スカウティングについて書かれたものがあれば一度読んでみたいものです。
1912年、B-PはOathをPromiseに変え、文言も以下のように改訂した。
On my honour, I promise that I will do my best ―
1. To do my duty to God and the King.
2. To help other people at all times.
3. To help the Scout Law....
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於保 信義
パトロール・システムは人は社会的存在であり、その中で生きていくための訓練の場としてB-Pが考えだしたものではないでしょうか。人類が地球上に誕生して数百万年になります。徒手空拳で生まれてきたヒトは厳しい自然の中で集団として行動することで生き抜いてきたと言われています。子どもたちは親よりも集団を優先したと言われています。親から見捨てられても集団が守ってくれたからです。同調圧力は、集団に属していることで命を守ることができるという長い歴史の中でDNAに刻みこまれているのかもしれません。体制に異を唱えることは...
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B-Pは自叙伝の中でちかいを作った動機を以下のように書いている。
1902年に小さな少年からもらった手紙で、少年というものは自分が約束したことは重いものだと思っていることが分かった。彼の手紙には「私は強い酒やタバコには決して手を出さないということを心からあなたに約束(PROMISE)します。あなたは勇敢な軍人であり、私もそうなりたい」と書いてあった。そこで、私は宣誓(Oath)よりは守りやすく、厳粛でささやかな約束をスカウトに科すことにした。
そして、B-Pはちかいの1の後ろに(注、単に忠誠であるだけでなく、心の状態を含むものであり、何事かをする〈Do〉というものである)、2の後ろに(すなわち、近隣の人たちへのつとめ)と書き足している。
三指は3条のちかいを示しており、ちかいを立てる時は三指を肩の高さに挙げる。これはスカウトサインの一種だが、見知らぬスカウトと出会った時は肩より下に挙げる(half salute、眉の近くまで挙げる敬礼full salute)とB-PはSfBの初版に書いている。日本で行っているスカウトサインはアメリカ連盟が行ってい...
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Rick Shimizu
少年は、自分たちだけの秘密が好きでした。仲間内だけのサインも…大人が関与すると面白味が無くなるようです。大人が主催する「ゲーム(広義)」にどれ程のワクワクがあるのでしょうか? ピーターパンの仲間に、大人はいませんよね?! 大人が入り込んで混じると、少年が少年でなくなり、もう愉しい「仲間」は消えて、つまらない集団になり、単なるグループになってしまうようで、「ボーイスカウト」ではなくなるような? 少年たちの「ちかいとおきて」と大人のそれには差異があり、住んでいる世界も違うからでしょうか? B-Pは、その...
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於保 信義さんが近況アップデートを投稿しました。

SfB初版にあるちかい(この時点ではOath)の文言は
On my honour I promise that ―
1. I will do my duty to God and the King.
2. I will do my best to help others, whatever it costs me.
3. I know the scout law, and will obey it....
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高橋 正幸
スカウティングは子どもたちのものだということを忘れた大人が多いことに問題があるんですね。

於保 信義さんが近況アップデートを投稿しました。

ちかいは一体何だろうかと考えている。「誠をつくし」とか「徳をやしないます」という文言が難しい。私の少年時代、とにかく覚えろ、意味は大きくなったら分かる、と言われた。SfBの初版でB-Pは騎士道になぞらえてoath(宣誓)としていた。宣誓というのは、神とか権威に誓うという意味である。その後、彼はPromiseという文言に変えた。oathはスカウトたちに負荷を掛け過ぎると考えたからだ。日本のちかいの文言は戦後、GHQの「指導」でアメリカ連盟のものを翻訳したものにした。しかし、英文は先に述べた難しい文言とは思えない。そしてさらに、B-Pのものにもアメリカ連盟のものにも入っている「最善をつくす/do my best」という文言が削除された。これもスカウトたちに負荷をかけない配慮だ。
スカウトたちだけでなく指導者にもちかいの文言が言えない人もあるという。ちかいは一度だけ唱える神聖なものだから、無暗に唱えてはいけない、という指導もかつてあったという。今はどうか知らないが、かつてアメリカ連盟では進級に当たって、指導者とスカウトが話し合いを持つことになっていた。...
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武田 誠二郎
「私は名誉にかけて次の3条の実行を誓います。」
この言葉がなにより大切と思い、スカウトを指導するリーダーにも伝えています。
Iwill do my best!と同意とは私の英語力ではわかりませんが、最善を尽くすことをまずは伝えたいと思います。...
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  • 編集済み
Tadashi Sugimura
ちかひ BS運動の核ですね。11歳でちかいを立て77歳の今までwasuretaことはありません。たまには破目を外す事もありますが生き方の指標です。弥栄‼
大先輩から問い合わせの手紙を頂いた。なんでもメール、という時代に手書きの便りを頂くと、どこか気持ちが暖かくなってくる。きれいな字が書ければ手書きで返事を書くのだが、あいにくミミズが這ったよりももっとひどい悪筆なので、パソコンで味気ない便りを返している。誠に申し訳ないと思う。

於保 信義さんが近況アップデートを投稿しました。

広島の熱い夏は終わった。本格的な秋である。秋は人を感傷的にするのだろうか。猫の額のような我が家の庭木から葉が一枚、一枚と落ちていく。近所の庭にある柿の木には枝が折れんばかりに実がなっている。我が家にも昔は父が接ぎ木した柿の木があった。秋になると小さいがたくさんの実をつけ、近所や知人に配ったものだ。田んぼの稲は黄色くなり実をつけて頭を垂れている。刈り取りはもう直ぐだ。小学校の校章が実をつけて垂れる稲穂だった。校長先生が「実をつけた稲穂は頭を垂れるのですよ」とよく朝礼で言っていた。さて、私は人生でいうなら晩秋か初冬の時期だろうか。実が入っていないから、穂先は垂れていない。この先垂れるようになるのだろうか。何とか手をつけたいと思って先延ばししていた作業にようやくスイッチが入ったようだ。自己満足に過ぎない作業だが、秋の夜長、挫折することなく作業を続けたい。
永尾 眞介
「身をつけた稲穂は頭を垂れるのですよ」
肝に銘じます。
於保 信義
永尾様、私の場合正に「身をつけて」いますから身につまされます。
問い合わせにご回答下さった皆さまに心から御礼申し上げます。有難うございました。IT器機に疎いので、ゆっくり検討させて頂きます。資料をばらばらにしないでもできる自炊業者があるとは知りませんでした。
早速いろいろな方法をお教え戴き誠に有難うございます。もう少し教えて下さい。ページ数は340ページ、古いため紙面が黄ばんでおり、特に上下、左右の端の部分は黄ばみがひどくなっています。読んだり書き込んだだりするのに不自由があるわけではありませんが、できればきれいな複写を残せればと想うのですが、そんなことは可能なのでしょうか。また、本を開いて何度も押し付けるなどすると背表紙が破壊されてしまいそうです。中味さえ複写がとれればいいといえばそうなのですが、できればバラバラにならないようにできればと思っているのです。何か方法はありますか。
於保 信義
塩川 様 SfB20版ではありません。父が残した資料が最近再評価されているので朽ちないうちに何とか保存できるようにしようと考えています。SfBは初版、27版と比較したため、書き込みが多く、それを消さないといけません。ぼちぼちとは思っているのですが、いつまでにとお約束するのはご勘弁下さい。B-Pの晩年ころの版はネットで購入可能かと思います。14版以降は大きな変更はありません。コピーさえとればいいのに、さっさとそれをしないでいる私に疚しさを覚えていますが、ご寛容下さい。
教えて下さい。古い資料なので劣化し、コピーするにはバラバラになりそうなものを安価かつIT器機に弱い私でもできる複写の取り方はないものでしょうか。
柳井 理廣
どのような資料かにもよりますが。。 紙の資料なら一番お手軽はスマホやタブレットのスキャンアプリですね。ワンタッチで補正もPDF化もできます。
大量にあるならドキュメントスキャナーですが。。フィード(紙を引き込む)タイプは書籍はバラさないとできません。
カメラタイプやフラッドベッド(ガラス面に押し付ける)タイプもありますが大変手間です。...
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広島カープの黒田投手が引退を表明した。カープのオーナーの談話によれば「価値観を変えた男」だそうだ。20億円という破格のオファーを断って、貧乏弱小球団に彼は帰ってきた。日本シリーズ前の表明はファンに最後の姿を見て欲しいからだ、という。彼が帰ってくる前の年、広島の一部だが大規模な水害があった。オフに広島に帰ってきたら直ぐに被災地を訪れ被災者を励まし、倒れた墓石の立て直しを密かに手伝ったという。同じ日のニュースでIOC会長はスイスで一泊15万円のホテルで生活しているという。彼も元金メダリストだそうだが、どこか空しいニュースだった。
上道 小太郎
残念ながら間違いなくそういう側面が否定できないと思います。東京で開催されたAPR地域会議の時だったと思います。食事の後に、何かのドネイションのためにと、いきなりオークションが始まり、身につけているものなどがセリにかけられて、かなりの高額で売り買いされました。あるいは、WOSMだか他の地域の役員だかが、我が国に妻帯の私的な旅行に来て、「接待」を受けるというようなこともあったと思います。やはり、一部の富裕層が参加する組織になっていることは否めません。
  • 編集済み
於保 信義
オークションですか。日本のある会合で経験したことがあります。想定していなかったし、とても居心地が悪く、それ以降参加するのは止めました。生活レベルが違うことを痛感したものです。

於保 信義さんが近況アップデートを投稿しました。

最後のメッセージの翻訳から
 現在、日連が発行しているSfB(以下、新版とする)にある最後のメッセージの翻訳についての問い合わせがあった。その一つの例を挙げると、stick to your Scout Promise alwaysである。新版の訳は「いつもスカウトのちかいとおきてを、固く守りたまえ」となっており、ちーやん訳(以下、旧版という)は「いつも、スカウトのちかいを身につけて」となっている。一つの問題は原文にLaw/おきてがないのに新版の訳には入っているということである。以前、日連の「偉い」人からWOSMの資料の翻訳文に「おきてとちかい」とあるのは逆ではないか、と指摘されたことがある。確かに日本ではいつも「ちかいとおきて」と言っている。しかし、ちかいの文言の最後のフレーズはTo obey the Scout Law/おきてを守りますである。おきてを知らないとちかいは立てられないのだ。だから、ちかいの中におきて含まれていると考えると、新版の訳文もあながち誤訳だ、とは言えないように思われる。
 ちかいの文言を言えない人がたくさんいるという。その...
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Rick Shimizu
信心と信仰心、宗教と同義では勿論ないのでしょうが、八百万の神々の日本、また異なるような?スカウティングで入り口に辿り着ければ、B-Pの笑顔が思い描けるような?
ちょっとした書き物をようやく終えた。コピーもできたので知己の人に発送する。私の発想はご理解頂けるだろうか。さて図書館から借りた「本」を一「気」に読もう。これを「本気」と言うのか。
上道 小太郎
絶好調ですね。
広島弁で良くないことを「いけん」という。悪いことをしたら「...したらいけんよ」とか「いけん子じゃねえ」などという。7月の参院選の一票の格差訴訟で「違憲判決」が出た。裁判所は「いけん」と判断したのだ。話は違うがWCHのある訳は広島弁か、と聞いてきた人がいた(どの部分だったか忘れた)。ちーやんは広島で育ったから訳文につい広島弁が姿を見せたのかと思って調べてみたら、広島弁ではないが、古い言葉使いだった。WCHを丁寧に読んでいると思って感心した。
犬飼 亨
お見事m(_ _)m
ちょっとした書き物をしていたら、図書館に予約していた本が忘れた頃になってどどっとやってきて溜まった。タマッたものではない。
上道 小太郎
於保さんのダジャレは、けっこう有名ですよ。
自分は物を知らないし、もっと知りたいと思ってたくさんの本を読んできた。ところが、ふと何かを思い出して読み返してみると、こんなことが書いてあったのだと気が付くことが多くなった。例えば「B-Pは成人指導者訓練の目的の理解とスカウトのおきてを深く理解することは、もやい結びやケバブを作れることよりはるかに大切なことだと考えていた」(原文からの拙訳)である。たくさんの本を読むよりは、いい本を繰り返し読む方がいいのかもしれない。その点で日本のSfBがB-Pの意図から少し外れた版のものになっているのは残念だ。
於保 信義
2)について、ご質問と少しずれた回答になっていました。WOSMの基本原則が課題として各国連盟で読むようになっているかどうか、私は知りません。ただ、WOSMが発行したものはネット上に公開されているので誰でも読むことができます。そういうことで翻訳しました。基本原則を理解するのに参考となると考え、誰でも購入して読めるようにしたのです。FBに掲載された記事によれば、昔と違って今のトレーナーの方はWOSMの飼料は当然目を通すことになっているようですのでわざわざ訳さなくともいいようです。時代の違いを感じます。

於保 信義さんが近況アップデートを投稿しました。

古くからの友人に会った。伊勢神宮にあったというブッダの像を見せてもらった。日本は明治まで神仏混淆だったという証のようなものだ。明治政府が廃仏毀釈という野蛮な行為を行ったが、神仏を崇拝するという日本人の意識を変えることはできなかった。日本のちかいは「神(仏)」としているが、神仏とするのが正解だと私は思っている。蛇足だが、日本のちかいには「最善と盡します/I will do my best」という文言が戦前からない。B-Pも当初はいれてなかったが、スカウトたちに負荷をかけすぎると考えて付け足した。このことが長い間、全く問題になっていないのが不思議である。
田舎者が久しぶりに都会に出かけた。人込みに圧倒された。歩きながら、都会は健康について配慮していることがよく分かった。電車の乗り換えに階段を下りて地下へ地下道を歩いてまた階段を上って地上の乗り換え口に。エスカレーターもないわけではないが、乗った車両によっては遠い。下りたり上がったり、足腰が鍛えられるようになっている。老人の足腰が衰えないようにという配慮か。これで日本はますますの長寿大国になるのは間違いない。もっとも、財務大臣は老人医療費は枯れ木に栄養を与えるようなものだと言っているが。
塩川 晃平
どこの記事だったか・・・、
ある国の大きな都市に済んでいる方の感想では、
『東京って何でこうも不便なんだろう・・・、』って・・・、...
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全国学力テストから想うこと
今朝の新聞紙面は全国学力テスト(以下、学テ)の記事が満載である。
公教育はイギリスの産業革命で工場生産が始まり、従順な工場労働者を必要としたことから始まり、教育カリキュラムはロンドンのギルドが作ったのが最初と言われている。日本で公教育が始まったのは明治以降で、産業と軍の要請によるものだった。
学テは2004年11月の経済財政諮問会議(教育の諮問会議ではない!)で中山文科相が「人材こそが資源であるため、日本の学力を世界のトップに押し上げるような教育改革をしたい。子供の頃から競い合い、お互いに切磋琢磨する、といった意識を涵養する」と述べたことがきっかけと言われている(中山は人を資源=材料扱いしている)。文科省がどう言おうと、学テには競争原理と市場原理が貫徹している。
競争が進歩を促すという神話は今も根強い。しかし、国会議員の世襲率がかなり高いことを考えると、競争の結果ではないことは容易に推察できる。私は大学卒業の直前になって初めて学ぶことは面白いと思い、今もそう思っている。誰かに勝とうと思って学んだ経験は今もない。...
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上道 小太郎
全国平均の上か下か、平均正答率の順位が何番目かに興味が集中しますね。首長の中には、それが低いことの理由を、教育委員会や教師の怠慢といい、学校別の平均正答率や順位を公表して、学校間の競争を煽るべしという方も増えてきているように思います。
そもそも、平均点というのは、正規分布の場合、ほぼ中間値を意味し、それより上に半分、下に半分が位置しないとなりたたない数値です。つまり、誰かが平均点以上になれば、誰かが平均点以下にならないと平均点そのものが存在しないという、まことに無意味なシロモノです。それを「錦の御旗...
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  • 編集済み
今、とあることがあって、成人指導者訓練の歴史について調べている。「スカウト運動」を書いたレイノルズが「ボーイスカウト・ジュビリー」という本に以下のようなことを書いていた。試みに訳してみた。
「私が知っている最高の隊長の一人は(私はその人からたくさん学んだ)、隊長たちの集会ではほとんど発言しなかったし、人目を引くようなことは決してしなかった。だが、彼は毎週毎週、自分の隊に献身的に尽くし、ほんの僅かな夏休暇(無給)も夏季キャンプのために充てた。彼はひたすらSfBに沿って活動し、隊員たちは優れており、有能なスカウトたちの見本のようだった。スカウティングの揺るぎない成果は、こうした人たちに負っているのである。社会的には、たとえあったとしてもほんの少ししか認められることはないが、かつてスカウトであった人たちと話をするだけで、彼らがかつての隊長を今も慕っており、感謝の念を抱いていることが分かる。これに勝る栄誉はないのである」
訓練コースやRTに出席するのは、「より良いプログラムをより多くの青少年に届けたい」からではないだろうか。('16/9/25)
矢島 巖
私もこのような指導者や役員に励ましを得、育てられました。
WSJの不祥事
 広島の今朝の地元紙に「ジャンボリーで少女に暴行の疑い」という記事が掲載された。噂では耳にしていたが、残念ながら事実であったようだ。他にも会場近くのコンビニで集団万引きがあった、日本に来る途上の飛行機内で大騒ぎをして航空会社から抗議された、大量の廃棄物の中には使用済みの避妊具も多く含まれていた、といった話も耳にした。かつてスカウトであった者として誠に残念なことである。数万人も集まるのだから少々の不祥事はあるだろう、という声もあるが、それは言い訳に過ぎない。恐らく、過去のWSJにおいてもこうしたことはあったのではないだろうか。
 女子加盟を認めたから、こうした不祥事が起きるのだ、という声も耳にした。社会は一般的には男女共生である。B-Pは連盟を別々にしたが、それは当時の社会情勢を反映したものだった。彼はできれば一緒にやればいいと考えていた。男には男の道がある、というのは思考停止した家父長主義者の言い分に過ぎない、と思う。
 こうした不祥事に対して内部ではどのような話し合いがなされ、防止策が講じられたのだろうか。スカウトの世界だからあ...
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白鳥 素也
オリンピックがあのように大量のゴムを配っている。既にそういう事実がある。なんも言えません。
ガールスカウトの平和学習から
今日の地元紙にガールスカウト日本連盟が広島で平和学習をしたという記事が掲載されていた。この企画は被爆70周年を期に神奈川連盟の中高生が企画したもので8都県70人が参加したという。これが運動というものだと思った。ボーイ(ガール連盟に対応してという意味で)の方は昨年WSJで平和学習がプログラムの一環として実施されたが、スカウトたちからの提案と言えるものではなかった。大人たちから与えられたプログラムは一過性のものになりやすいのではないだろうか。
他県の事情は知らないが、広島のガールの人たちが平和に関係するイベントに参加していることはよく報道される。一方、ボーイの方はほとんど目にしたことがない。スカウト教育法の要素をボーイの方は7つとしているが、ガールの方は地域サービス/Community Serviceというのをエクストラとして入れている。スカウティングが地域に根差したものであることを考えると当然であろう。
スカウトたちが企画したというのが素晴らしい。ガールにはそうしたことができる土壌があるのだろう。それを大人たちがよく受...
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競争、書き忘れ
 書く内容を忘れてはいけないと思って、メモを書いて打ったのだが、そのメモを見落としてしまった。目も当てられない。ここ1年くらい物忘れが激しくなった。凹凸の無い廊下を歩いているのにつまずいたりする。典型的な老化現象だ。
 それはさておき、協同学習のことを書き落としてしまった。学習は一人でするのではなく、グループで協同して行うほうが効果が高いことが分かり、最近、学校現場で実践されている所が増えているようだ。スカウティングにおける班(小集団)は正に協同学習の場である。それも異年齢集団で行うのだから効果はより一層高い、と言われている。学校は運営効率上、同年齢集団で行われているから協同学習の効果は少し乏しくなる。そもそも、人間の最小の集団は家族であり、それは異年齢の男女協同学習の場なのである。そこには競争などはない。日本のスカウティングにおいて、このことがもう少し考えられてもいいのではないかと思う。付け足しは以上である。(’16/8/21)
競争
 吉田沙保里がオリンピック4連覇を逃し、悔し涙にくれた。吉田が連勝を119でストップし、涙した時、彼女の母親は「これまであなたに負けた119人の人たちも同じように悔しい涙を流してきたのよ」と励ましたそうである。勝った人の輝きの陰には必ず多くの負けた人たちがいる。そして勝った人もいずれは負ける時がやってくる。競争に終わりはない。私たちが暮す社会ではその競争が進歩を促すと、当然のように信じられている。果たして、そうだろうか。
 1954年、オクラホマ大学の研究チームが全員プロテスタントの家庭で育ったが付き合いのない11歳の白人少年たち22人を11人ずつのグループに分けてボーイスカウトのキャンプ場に送り込み実験をした。研究者たちは指導員を装って少年たちに野球、綱引き、宝さがしなどを行わせ勝ったチームには賞品を与え、競争心を煽った。その結果、少年たちは互いに中傷合戦を繰り広げ、それは次第に殴り合い、石の投げ合いへとエスカレートし、最後には互いのキャビンを襲撃するという行動をとるようにまでなったのである。この実験で競争心を煽ると敵対心が昂進することが...
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小松 誠
競争は協力とセットで語られるものですし、真の競争相手は自分自身であって、他人と比較するものではない、ましてや他人を踏みつけて達成するものではありませんね。
今日も、ありがとうございます。
創始者たちの教え
 終戦記念日の昨日、リオ・オリンピックに参加した日本柔道チームの選手たちが帰国した。リオに向かう前、彼らは柔道の始祖、嘉納治五郎の墓に詣でたという。嘉納は日本古来の柔術をルール化し柔道にした人物であり、日本人初のIOC委員であった。彼は、フランスのクーベルタン男爵が唱えた近代オリンピックに賛意を示し、欧米でしか開催されていないオリンピックを東洋でも開催すべきだと主張して東京にオリンピックを招致した。しかし、彼は柔道をオリンピックの競技にしようとはしなかった。彼は、柔道は優劣を競うものではないと考えたからである。嘉納は「柔道修業の目的は自己の完成と世の補益である」「力や勝ち負けが第一義ではない」「術は手段に過ぎず、道とは生き方だ」「力では男に劣るが、女性こそが柔道の理念を伝えられる」といった言葉を残している。嘉納は柔道を通じて世界の人たちが交流を深めれば世界平和実現の一助になると考え、アジア各国の若者たちが日本に留学できるよう便宜を図り支援を惜しまなかった。魯迅も嘉納から学んだ一人で、その署名が講道館に残されている。
 クーベルタ...
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長崎原爆忌
 何事も二番手が脚光を浴びることは少ない。しかし、ヒロシマとナガサキは対であった。アメリカはウラン型とプルトニウム型の二つの原爆を作り、前者を広島に後者を長崎へ落とした。アメリカでは戦争を早期に終わらせるために核兵器を使ったと言われているが、当時、軍の上層部はその必要性はないと言っていたことが今では明らかになっている。実験だったのだ。だから、その翌年には軍による原爆傷害調査委員会という機関を両市に設置し、生存するヒバクシャを定期的に検診して記録をとる他、亡くなったヒバクシャからは臓器などを取り出して標本にするなどしている。これらのデータは軍事機密としてアメリカ本国に送られ、被爆の後遺症で苦しむ人たちの治療に役立てられることはなかった。。
 「これから福島という地名は世界中に知れ渡ります。福島、福島、福島、何でも福島。これは凄いですよ。もう広島、長崎は負けた。福島の名前の方が世界に冠たる響きをもちます」。これは長崎大学医学部の山下俊一教授が福島で行った講演で述べたものである。この発言には、アメリカ軍が行った実験データ収集と同じ意識しかない。彼は「ニコニコしている人には放射能は来ない」とも言っている。科学者の発言とは思えない。これが「学者」の実態だ。福島ではこの教授たちが根拠もなく設定した被曝線量の中で生活をしている。放射能をどのくらい浴びたら影響が出るかということは分っていない。フクシマで人体実験が続けられていると言っていいだろう。彼はその「功績」からか福島から長崎大学に帰り副学長になった。ヒロシマ、ナガサキ、フクシマの現実は「権威」を盲信することの怖さも教えてくれている。('16/8/9)
先日、日連が刊行した「先人にまなぶ」に事実と反する記述があると書いた。「日連に知らせるべきである」といったご意見も頂戴した。FBの画面ではなくメールで「本当なら言いっぱなしにせず具体的に指摘せよ」というご意見も頂いた。他にも「具体的にどの部分か教えて欲しい」という問い合わせもあった。無責任な放言をしたわけではないので、気付いた点とその論拠をまとめて日連のミュジアムに保存して頂くことにした。筆者は先人の功績を否定するものではないし、まとめる労を取られた方々の貢献は高く評価するものである。平地に波瀾を起こす意図はなかったことはご理解頂きたいと思う。
於保 信義
昔、山本五十六らも参禅したというお寺で「期待するから裏切られる」と教えられたことがあります。すごい皮肉だなあ、とその時は思ったのですが、歳を重ねて違う見方をするようになりました。
  • 編集済み
71年目のヒロシマ
 広島の今朝は少し曇り空で、ぎらぎらするような夏の太陽の日差しがないだけ涼しかった。
 この1年に亡くなったことが確認された原爆死没者名簿に書き記された人の数は5,511人、名簿の総計は111冊計30万3,195人になった。私をスカウトの世界に誘い、先日亡くなった友人も来年には記帳されるだろう。3月末の厚生労働省の集計によると、被爆者は17万4,080人、平均年齢は80.86歳になるという。もうすぐ被爆者の実体験を聞くことはできなくなる。
 いつものように自転車で平和公園に向かった。道すがら匂っていた線香の香も年々嗅ぐことが少なくなっている。大げさかもしれないが、以前の広島は早朝から線香の煙に満たされていた。国から広島だけ例外は認められないと言われてこの日が休みでなくなってから何年になるだろうか。多くの家が法事で勤務先に行くどころではなかった、だから多くの会社も役所も休みにしていたのだ。
 今年もスカウトたちが式次第を書いたプログラムを配っていた。
 今年は被爆に関連する個人的なことが二つあった。一つは、一介の町医者に過ぎなかった父が昭和32年に書いた論文が今注目されているといって取材を受けた。その論文は父が孤立無援の中で4千数百人の被爆者から聞き取ったデータをまとめたものだった(被爆した場所、被爆後にとった行動、病歴などを記録したデータはこれしかないと言われている)。もう一つは、アメリカに住む姪の息子がオバマの広島での演説を聞いて、広島にやってきたことである。たいしたことができないので、吉永小百合が編集し、英文もつけられた美しい詩集をプレゼントした。彼は食い入るように、それを読んでいた。
 「71年前、雲一つない明るい朝、空から死が落ちてきて、…」、5月に現職のアメリカ大統領として初めて広島を訪れたオバマ大統領の演説の冒頭の一節である。文学的な表現かもしれないが、自然現象で原爆が落ちてきたのではない。人が意図して落としたのだ。オバマ大統領の広島訪問にはさまざまな意見がある。謝罪がなかったと言って怒る人もあれば、現職のアメリカ大統領がやってきただけで評価すべきだという意見もある。彼の広島滞在時間は1時間にも満たないものだったし、原爆資料館には10分もいなかった。とても被爆の実相をその目で確かめた、などと言えるものではなかった。日米政府がとても巧妙に演出した訪問であったような気がする。それでも、アメリカを始めとする国々の首脳たちが広島を訪れるためのハードルが低くなったであろうことは評価したい。
 今年出版された本に「原爆にも部落差別にも負けなかった人びと」というのがある。二重に差別された人々がいたのだ。読み進めていくと、ボーイスカウトという言葉が目に飛び込んできた。被差別部落に作られたスカウト隊に入っていた人のことが書かれていた。懐かしい顔が頭に浮かんできた。そこでは当時、ボーイスカウトに入るのはそれなりに裕福な家の子であったという。そうした子どもたちが成長して費用のかからない子供会を立ち上げ、ボーイスカウトで培ったゲームやソングを教えたという。
 昨年、平和公園に大勢の外国スカウトたちが訪れた。WSJのプログラムの一つとして平和学習のツアーが組まれたからだ。しかし、現実にはWSJの数日前から平和公園には大勢の外国人スカウトたちの姿が見られた。残念ながら日本のスカウトたちを目にすることはなかった(日本に居ていつでも来ることができるからだ、という人もあるが、そうだろうか)。WSJで事前学習や実施の際にどのようなことがなされたのか、新聞で報道された範囲でしか私は知らない。ましてや、WSJ終了後、WOSMや日連があの取り組みをどのように評価したのか、それを今後にどうつなげていこうとしているのだろうか。知りたいと思っていろいろな人にお願いしてみたが、結局非加盟員には教えてもらえないということだけは分った。
種は播かれた。強くたくましい種であって欲しい。そうであれば自生できるからだ。
「この世界において真の平和を得ようとするなら、また戦争をなくすために本気で戦うのなら、まず子どもたちに目を向けねばならない」とガンディーは言っている。未来で演じることができるのは子どもたちである。縁の下の力持ちは主役が輝けば輝くほどその影としての存在価値が認められるのである。
('16/8/6 於保信義
八代 多惠子
ありがとうございます。
朝刊の会葬御礼で友人が亡くなったことを知った。私は彼に誘われてスカウトになった。キャンプ、ハイキング、先輩として後輩の指導とたくさんのことを彼と一緒にやってきた。彼は父親が立ち上げた会社の跡継ぎとして忙しくなり、団も潰れてしまったから、かつての隊長の慶事の時くらいしか顔を合わせることもなかった。夏の隊キャンプなどではテントや大きな荷物の運搬の際はトラックで運んでくれた。ネッカチーフの在庫が途切れ、新しいネッカチーフを作ろうとちーやんにサインを大きく書いてもらい、それをネッカチーフに付けるようにした時は、彼の会社でシルクスクリーン印刷で作ってくれた。71歳だった。小学校の同級生でもある私も、そろそろ最終回に近づいているのだろう(今年はカープも強い)。SfBの第Ⅲ部部分をB-Pが関わった最後の版で訳しなおしたい、スカウティング解体新書の続編を書きたいと考えて材料の準備は整えたのだが、そこから遅々として進まない。このままだとゲームセットになりかねない。なんとか仕上げて彼の墓前に捧げたい。彼もスカウティングは大好きだったのだから。
B-Pの名前について触れたので、筆者自身の過ちについて触れておかないとフェアではないだろう。筆者もスカウティング誌1987年2月号にステファンソンと書いている。当時の日本連盟の出版物を疑うことなく書いたからである。B-Pの父親が所属していたロンドン王立協会のステンドグラスにはラテン語で「いかなる権威が言おうとも」と書かれているそうである。B-Pの父親がそうしたように権威者が言っているからといって鵜呑みにしてはいけないと思う。外国名を正確に日本語表記などできないが、あえてB-Pの名前を表記すると、ロバート・スティーヴンソン・スマイス・ベイデン‐ポールである。
「おかしいと思ったら申し出るべきだ」、というのは正論でしょう。「ボーイスカウトが目指すもの」という本が出た時、日連に改訂版を出す際は修正された方がいいという意見を寄せたことがあります。一つはB-Pの名前です。B-Pの名前が「ロバート・ステファンソン・スミス・ベーデンーパウエル」になっていました。Robert StephensonはB-Pの父親と親交があったジョージ・スティーヴンソン(蒸気機関車を作った)の息子さんの名前をもらったものです。したがって、ステファンソンではなくスティーヴンソン、スミスはSmythで母方の名でイギリス連盟によるとdive(ダイヴ)やlive(ライヴ)のように発音すると言っているのでスマイスだ、ということを伝えました。しかし、日連事務局では監修者が間違いないと言っているから修正はしない、ということでした。ある県連機関紙に事実に反する記述の多い連載記事が出ていました。NHKの大河ドラマに関連するものだけ反論記事を書いて掲載してもらいましたが、連載記事の筆者からも機関紙からも一切の対応はありませんでした。知人にその話をしたところ、権威あるところが間違いを掲載するはずがない、君の間違いだろう、と言われました。まあ、FBにこんなことは書くべきではなかったのかもしれません。つい、事実と異なることが気になって書いてしまいました。自重すべきでしたね。
於保 信義
Stephensonはスティーヴンソンのイギリス表記と、ある辞書にありました。B-Pは家庭家庭過程ではスティーヴとかスティーヴィーと呼ばれていました。Robert Stephensonは父親のGeorgeと共に蒸気機関車を作り、共にB-Pの父と親交がありました。ちなみに、「宝島」の作者スティーヴンソンはStevensonの綴りです。
知人にお願いして日連が発刊した「先人にまなぶ」を送ってもらって読んだ(スカウトショップに注文すると着払いのメール便で送られてくるので高くつく)。加盟員でもない部外者に意見を述べる資格はないと言われるだろうが、私がご本人から聞いたり、調べて知った事実とは異なる記述が何か所か見られたのは残念である。例えば、「B-Pがモンテッソーリの幼児教育の方法に年齢の考慮を加えて、スカウト教育を組み立てた」「ちーやんがスカウトクラブ『城東団』を作った」など。調べてみれば事実ではないことは容易にわかる。「歴史」はこうして作られるのだろう。権威を持つ機関やその立場の人は情報の提供に当たっては慎重であって欲しいものだ。名もない私たちが正しいことを言っても信用してもらえないどころか、嘘つき呼ばわりされさえする。
於保 信義
残念ながら大阪連盟ボーイスカウト運動史の記述は間違いです。広島高等師範学校付属中学の校外団はスカウティングとは関係なく、師範学校の教育実験の中で組織されたものです。それは当時書かれた論文に書かれています。また、ちーやん自身の話でも制服などはなかったし、学校から班の次長にに任命されたということです。大阪高津中学校のスカウト隊は村田正雄さんから直接お聞きした話ではスカウトクラブを設立することを思い立って、山口季次郎さんがスカウト運動に関わっていることを知り、顧問をお願いに社会科教師の部屋を訪れたら不在で、対応したちーやんが「ボク、それ知ってる。ボクがなる」と言われて隊長になったということです。これはのちにちーやんに確認したところ、「本当だ」ということでした。誠に残念ながら正史と呼ばれるものにも誤った記載や意図的な虚偽の記述があります。ウッドバッジビーズの入手の話にしても奪ったとしてはまずいので、ジョン・サーマンの書いた本からもらったことに書き換えたということです。
とある所に本を注文したら、「代金着払い」だそうだ。そうすると、送料経費の方が肝心の本より高くなってしまうという珍現象が起こる。情報入手まで一極集中で田舎が置き去りされているとは思わなかった。地方老人の独り言。
Yoshifumi Mate Moriwaki
「出版社と書名を伝えて本を探して取り寄せして貰う」のは、以前は当たり前でしたね。
書店員さんの努力具合で本が見つかったり見つからなかったりするアナログなところもありましたがσ(^_^;)
ISBNコードの普及とともに今は書店が在庫の位置を1個単位でほぼ完全に把握しているので、流通している本についてはほぼ完全に手に入れる事ができる様になりました。
これは非常に有難い事ですね。
その代わり、昔と比べて絶版になるまでの期間が非常に短くなってきているので、見つけたら即購入が必須になってしまっています・・・
本好きには厳しい時代になってしまいました(😣)
折り鶴の行方
先にオバマ大統領が折った折り鶴二羽をその場にいた小学生二人に手渡したと書いた。今朝、図書館に行って別の新聞に目を通したら、なんとその二羽も原爆資料館に寄贈されたと報じられていた。贈られた小学生が自発的に寄贈を申し出たのだろうか。オバマ大統領のパフォーマンスだというシニカルな見方もあるが、子どもたちに未来を託したいとその場で思いついたことではなかったのだろうか。選ばれてたまたま近くに居合わせたに過ぎないので、それは資料館に寄贈し展示するのが当然だという「オトナ」の発想もあるかもしれない。「いい子」(大人にとって)は係りの大人から言われて一も二も無く従ったのだとすれば、やりきれない思いがする。
小松 誠
まあ、いただいた子供にとっても重すぎたのかもしれませんね。
恣意的な大人の事情ではないことを祈ります。
クリスマスに想う
 今日はキリストの誕生を祝うクリスマスだ。平成25年版の宗教年鑑による’12年末日現在の法人化された宗教団体に登録された日本のキリスト教信者数は190万8,479人で総人口の2%にも満たない(もっとも、この数字は日本の宗教信者数1億9,716万人で総人口よりも多いとしているからあまり信用できない)。それにも拘わらず、世間はクリスマス一色である。
 宗教とは一体何か、と最近ずっと考え込んでいる。残された時間が少なくなったせいだろうか。
 日本のスカウト運動では「明確なる信仰」を持つことが奨励されている。このことがよく取り上げられるようになったのはスカウティング誌に中村知氏が連載した「明確なる信仰を持つことを奨励する方法の研究」(昭和42年2月号から43年5月号)の影響が大きかったのではないだろうか。ちーやんはRtSを訳しながら、「英国ローバーの研究」を並行して行われ、次に手を付けられたテーマが宗教だった。筆者は何冊も宗教関係の本の購入と依頼された。RtSを訳さないと死んでも死にきれない、と言われていたから、ちーやんにとっては晩年の...
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Ryo Kashihara
宗教論は難しいです。 特に今は。 マザー・テレサを観て生きたいです。  樫原良
もう一つの思い出は現行版の扉絵である。これは、翻訳に使った原書にはなぜか無かった。ページ数が大幅に削減された改訂版にも当然ながら無かったので知らなかった。これもまた偶然だが、その頃国会図書館で「青年健児教範」を見つけ、この扉絵を目にした(当時の日連事務局の資料棚は貧弱で「青年健児教範」は無かった)。RtSの言わんとするところは、この扉絵を見れば一目瞭然なので掲載すべきだと考えた。コピーを撮ればいいのだが、当時のコピーは不鮮明なものだった。外部のそれなりの業者に依頼して鮮明なコピーを撮りたいと思っても、国会図書館は一般人に本を貸し出してくれない。どうすればいいか悩んでいたところ、ひょんなことから借用できることになり、掲載できた。後年、この絵の入ったローバー部門の研修所で使われたTシャツ、キャンポリー記念のバックルを頂いたことがある。掲載したことを認めて頂いたような気がして感慨深いものがあった。
ちーやんはRtSの翻訳を進めるのと並行して「英国ローバーの研究」(スカウティング誌’65/2~12号)を連載された(ローバー研究に関してこれを超えるものは未だないような気がする)。これにも筆者は少し関わらせて頂いた。また、この研究が契機となってちーやんはWood Badge Preliminary Training for Rove Scout LeaderのD.C.C. Handbookの翻訳も進められ、コース開設につながった。
イギリス連盟はSfBを始めとするB-Pの著作を1966年のAdvance Partyの勧告に従って「歴史的文献」として扱うことを決めた。価値観は時代の進展とともに変化する。Rtsの「Women/女」の項は当時でも古い考え方と思われたようだ。筆者のような年寄には珠玉のような言葉が数多くあると思われるのだが、IT時代に生まれ育った今のローバー諸君にとっては古臭く思われるのかもしれない。ただ、巻末のRoveringの項は青年期のスカウティング対するB-Pの考え方を示すものとして今も有益な示唆を得られるのではないだろうか。
ちーやんとの作業に使った先輩から頂いたRtSの原書(余白ページにレイノルズのスカウト運動から引用した … it was not a training handbook on lines of “Scouting for Boys”, it was a book of wise advice to young men という言葉をタイプ打ちして貼り付けている)、広瀬さんが小川さんに貸された原書、「あなたが持っている方がいいでしょう」と言われて広瀬さんから頂いた古田誠一郎さんの署名入り「 青年健児教範」、八重洲口のの地下にあったスカウトショップで購入した現行版の4冊が私の手元にある。ローバリング、筆者にとって、それはRtSだった。
RtSに
成功とはなんだろう?
木のてっぺんか? 富か? 地位か? 権力か?
いや、そんなものではない!
という一文がある。原文は,
What is success?
Top of the tree? Riches? Position? Power?
Not a bit of it!
Top of the treeは慣用句で出世のこと。「木のてっぺん」というのもB-Pにふさわしい訳語かもしれない。また、Positionには高い地位、身分という意味がある。70歳、筆者にとって成功とは何だったのだろうかと自問する。
 筆者の少年時代、おきては12ヶ条だった。それは12条の「スカウトは慎み深い」で終わる。徒に歳を重ねてきたに過ぎない者が、したり顔で語るのはどう考えても「慎み深い」行動とは思えない。大先輩からは「やれやれ、またB-P教(狂)徒の自慢話かね」とまたお叱りを受けそうだ。当時でもこうした事情を知っている人はほとんどいなかったし、知っている方々もほとんど亡くなられた。関わった者の一人としてたまたま知りえた事実を記録しておくことも多少の意義があるかもしれないと考えFBに掲載することにした。
 今も毎日ローバリングをしているという友人がいる。彼の愛車はROVERなのだ!
(了、'15/12/17)
片寄 朗
於保さん ありがとうございます。私は扉絵と表紙を思い違いをしていました。恥ずかしい限りですが、また勉強をすることができ感謝しています。数日前から、またRtSを読み始め、What is success? は、いろいろと考えさせられ、ページをめくるのがとまりました。自分はどうだろうか、これからの自分はどうすべきか、自分の子供を含めて、今の青年に深く考えて欲しいことだなぁ、などなど。そしてこれはおきてにつながっていくことだと考えました。まさに慎み深さをもって、What is success?を考えると、良い方向性が得られると感じました。おきてが12から8つになったとき、現代で一番必要なことがなくなってしまったという先輩もおりました。慎み深い、今必要なことだと思います。
ちーやんが翻訳を始められたのは日連奉仕部長を退職されて嘱託になられてからのことであった。筆者はその時に手伝うよう依頼された。以来、四谷のお宅に何度足を運んだか分からない。当時、筆者はあるローバー隊に所属していたが、RtSのことが話題にのぼることは全くなかったから、ちーやん宅で訳されたばかりの原稿に目を通すのはこの上ない楽しみだった。
ちーやんは目が不自由だったので分厚い眼鏡をかけられた上にさらに天眼鏡を使って原書の細かい文字を追われ、傍らに置かれた日連の原稿用紙のマス目に一文字ずつ付けペンで訳文を書かれた。そうした作業の中で筆者はちーやんが小川さんのノートを目にされているのを見たことは一度もなかった。だから、小川さんの翻訳原稿があったということは現行版の原稿の清書をして「翻訳刊行の辞」を読むまで全く知らなかった。小川さんの翻訳原稿は最近まで所在不明だった。去年(2014年)のことだが、日本連盟のスカウトミュジアムの責任者金井昭二さんから「RtSの翻訳原稿と思われる大学ノートが見つかったのだが、何か知りませんか」という問い合わせがあった。事務局の移転が幻の原稿を出現させた。
上京の機会があったので、スカウトミュジアムを訪れて、小川さんの翻訳原稿を見せて頂いた。それは小川さんのメモに書かれていた通り4冊の大学ノートに書かれていた。表紙を見て驚いた。その大学ノートの表紙には2つのSの字を交差させたマークが印刷されていた。それは東京女子大の校章として、初代学長を務めた新渡戸稲造が提案して作成されたもので、東京女子大の校訓(これも新渡戸の提案)「奉仕と犠牲(Service and Sacrifice)」をデザインしたものだった。新渡戸は「武士道」を英文で書き、欧米社会にその存在を知らしめたことで有名だが、台湾で民生長官を務めていた後藤新平に招致されて農政に腕を振るったほか、国際連盟事務局次長として活躍した人である。また、新渡戸はコペンハーゲンで開催された第3回国際スカウト会議に国際連盟事務局次長としてオブザーバー参加している。小川さんは新渡戸の作った学校の卒業生であったのである。
もう一つ偶然がある。ちーやんは拓殖大学の前身である東洋協会植民専門学校朝鮮語科の卒業生である。その学校で新渡戸は第二代学監、後藤は第三代学長を務めている。偶然に過ぎないし、お二人にその自覚はなかっただろうが、小川さんとちーやんには共通点があったのである。
小川さんはメモの末尾で翻訳ノートのその後の消息がどうなったか懸念されている。スカウトミュジアムには小川さんのメモを渡して、できればコピーをとって返却されてはいかがかとお話ししたが、小川さんの連絡先が不明なので、そのままになっているとのことだった。小川さんの希望が叶えばどんなに嬉しいことだろうと願うほかない。
話を戻そう。RtSの翻訳が完成し、いよいよ印刷所に搬入することになり、原稿を清書することになった。当時はパソコンなどないから全て手書きである。元原稿は原稿用紙のマス目をはみ出した修正などが施されているので、清書することになった。そこで、私が所属していたローバー・クルーに相談して、数人で手分けして清書した。この時、「訳者のことば」の末尾にあった謝辞を筆者が独断で書き換えた。元の原稿では「於保信義君と〇〇RSの諸君に感謝を…」となっていたのを「東京のRS諸君」と書き換えたのである。その時、筆者の脳裏には後藤新平の「そして報いを求めぬよう」という言葉があったからである。後に、このことを先輩後輩の諸氏に語ったところ「勝手なことをして」とお叱りを頂戴した。筆者の名前を削るだけに留めておけばよかったと反省している。(つづく)
於保 信義
金井様 事前にお断わりすることなくお名前を出してしまいました。ご容赦下さい。買いかぶらないで下さい。分からないことだらけです。
  • 編集済み
金井 昭二
ご高配却って恐縮です。多年にわたるご指導感謝々々です。今後ともよろしくお願いいたします。
ローバリング・ツウ・サクセス翻訳事情
 片寄さんが今年8月にアップされたノート「Good Resolution号」に触発されて、以前にも同様のものを書いているが、改めて以下の稿をまとめてみた。
 ローバリング・ツウ・サクセス(以下、RtS)の初版は1922年、1964年に大幅な編集が施されてページ数の少なくなった改訂版が出版されている(その後の版は知らない)。片寄さんはノートに「どうもこの絵(筆者注:表紙カバー絵)が描かれているのは日本語訳だけのようです」と書かれているが、筆者が知る限りのイギリス連盟の表紙カバーは全て現在日本連盟が発行しているもの(以下、現行版)と同じである。他国連盟のものは寡聞にして知らない。
 日本語訳のRtSは戦前と戦後の2回出版されている。
戦前のものは大正15年(1926年)に奥寺龍渓訳で「青年健児教範」という書名で出版されている。巻頭のB-Pの写真の次に少年団日本連盟総長後藤新平の書の写真が掲載され(崩された書体で筆者には読み取れない)、その後に二荒芳徳理事長の「野営の朝(序詩)」という詩が掲げられている。翻訳の底本となったRtSの出版年は書かれていない。内容は現行版とほぼ同じである。
戦後のものというのが現行版である。出版年は昭和42年(1967年)で、訳者は中村知(以下、ちーやん)である。筆者は当時上京して学生生活を送っていたが、偶然この翻訳出版に少しだけ関わった。
現行版の「翻訳刊行の辞」にも触れられているが、この翻訳を最初に手掛けた人は日本連盟を結婚のために退職された小川照代(旧姓、伊東、以下は小川さんとする)さんだった。当時、常任理事であった広瀬文一さんの話によると、小川さんから退職するに当たって何か形のあるものを日本連盟に残したいという希望が寄せられ、広瀬さんが所持されていたRtSの原書を彼女に渡して、翻訳が始まったということだった。広瀬さんは筆者に説明するために小川さんに、翻訳の経緯をまとめるよう依頼され、「『ローバリング ツウ サクセス』翻訳の経緯」というメモが筆者に送られてきた(2003年10月)。それによると、小川さんの翻訳は1959年10月から翌年の3月までの間に行われ(「性」の部分を除いて)、その後は中村知、吉川哲雄の両氏の手に委ねられた、ということである。小川さんのご尽力に対し、日連は感謝章を贈ってその労に報いている。(つづく)
Yoshifumi Mate Moriwaki
なるほど了解しました∠(^-^)
ご教授ありがとうございますm(._.)m
また再び読んでみたく思います。

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